雨に濡れたように血に浸り、大地を踏む足さえ己のものか分からない。
空だけすべてが他人事のように清々しく、春の風が乾いた頬を撫ぜた。
「先生早く、どんどん腫れあがってるんだよ!」
「急げ急げ! すぐ次の患者だ!」
「輸血だ、こっちに持ってきてくれ!」
思い出したように手を動かせばポロポロと乾いた何かが零れ落ち、泥かと思ったがそれは赤く、今さら血だと思い出す。この手で、縋りつく手を離させたのは自分なのに。
騒々しい喧騒の中で思い出していた。
いつもこんなに不愉快だっただろうか。もう何年も戦いを、いくつもの死を経験してきたはずなのに。何故今さらこんなにも襲うのだろう。これまでもこんなに悲惨だっただろうか。痛い。
「大丈夫ですよ、じき痛みも引きますからね」
まるで滝の下にいるようなやかましさの中に、一本の糸が届くように聞こえた。
乾いた赤い手から喧騒の治療室を見やると、赤く汚れた白いマスクの中で笑ってるが見えた。
「おかえりなさいフェリクスさん」
「……、クルロの仇……取ってやったぞ……ッ」
「クルロさんも誇りに思っています。早く治してお母様に報せてあげましょう」
夜になれば星を探すように。日照りが続けば雨を求めるように。
その光に包まれ、思う。生きているのだと。帰って来たのだと。
必死に戦い生きながらえた兵士達、ひとりひとりに降る光。ぬくもり、安堵。
その瞳はすべてを見るためにある。痛んだ身体を。病んだ心を。
「リヴァイ兵長」
浴びせられた呼び声に、乾いた掌を握ってリヴァイは振り向いた。
騒々しかった廊下が少しずつ鎮静していく療養棟。西日の射すそこに女がいた。
「これ、現時点での死者数です」
「ああ」
「大丈夫ですか?」
「何がだ」
「頬の傷」
ファイルを渡す女は自分の右頬を指先で示した。
仲間を喰った巨人を倒した時、折れたサーベルが頬を掠めた。
「問題ない」
「手当てしますよ」
「必要ない。治療が必要なヤツは他にいる。持ち場に戻れ」
目の前にいる女以外誰にも届かない程度の声を置き、リヴァイは奥へと歩いていった。
素っ気ない態度に女はふっくらと濡れた口唇を尖らせる。
踵を返し班員室へ戻ろうとして、陽の射す窓から遠くの木々の麓に座りこむ誰かが見えた。
「テオ、どうしたの」
「グロリア……」
窓から見えた木のほうへ向かい、幹に座りこんでいた兵士に声をかけたグロリアは、その兵士の蒼白の表情を見て察した。
「ルドルフが……死んじまったよ。ここに来るまでは息があったのにさ」
「そう……」
「きのう、一緒に訓練してたんだぜ。朝は一緒にメシ食って、一緒に出発して……巨人だって倒したんだぜ……。なのになんで、俺だけ生き残って、あいつ……あいつ……あんな冷たくなっちまって……」
ぶつり、足元の草を引き千切り、手放すと風に乗ってパラパラと落ちていく。
まるで魂も同じに見えた。ぶつり、大地から離され、風に乗って飛んでいく。
「テオ」
傷ついた拳に手を置き、グロリアはその手を自分の頬に当てる。
「温度が分かる?」
「ああ……」
「あなたも、温かいわ」
見つめ、泥の付いた頬に手を当てる。同じ温度。ぬるい人肌。
光も忘れたような目に近付き口唇を重ねた。生きるための入口。混迷の出口。
「あッ……!」
温度を欲した。人である確証を得るため。
底のない穴を埋めたかった。一人ではとても立ち上がれなかったから。
重ねて、混ぜて、ぶつけ合って、欲して。
頭の中を沸騰させて楽になりたかった。骨が軋むくらい抱き締めた。
乱れた衣服を整え、グロリアは汗に貼りつく長い髪を剥がす。
吐き出した欲情が土の上で光り、肌寒い風が熱を吹き流した。
ああ、生きてるんだ。結局、どうしたって。
「お前は、ある意味聖女だな」
「聖女? なんだか軽い響きね」
「には出来ない慰め方だよ……」
「誰?」
なんでもない。立ち上がり、テオはサンキュと兵舎へ去っていった。
なんだかすっきりしない後味を残されてフンと吐き出すグロリアは、つけ直すのも手間なベルトを持って療養棟の裏口へと歩いていった。もう中は静かなもので、荒々しい足音も人の声も聞こえてこない。シンと静か。それもそうだろう、グロリアが入った裏口の傍は遺体安置室で、静かなもの。
そう思っていたけど、グロリアはふと人の声を聞き取り、耳を澄ました。
誰かいるのか。通り過ぎた遺体安置室を覗くと、いくつもの白い布に包まれた遺体が並んでいて、その合間に動くふたつの影を見た。それは遺体を見て回るリヴァイと、もう一人……遺体に触れている白衣の小さな背中。リヴァイと話すマスクの横顔を見てグロリアは、あれは医療団の……、と思い過ぎらせ、同時に先程別れた兵士が口にした名前を合致させた。
「毎度のことだ。兵が入れ替わる時期は特に遺体の始末に問題が起きる」
「エルヴィン団長も、心苦しいでしょうね」
「あいつはそんな柔なヤツじゃねーよ」
陽が暮れていこうとする薄暗い中で、遺体に囲まれるのは決していい気分ではないだろうに、穏やかに話す二人はあまりに普遍的で、それはどこか異常にも見えた。ドア口に隠れるグロリアは息を潜め中の二人を見つめる。絶望とほど近い安置室の中。先程はまだ戦場にいるかのような鋭い眼をしていたリヴァイが、ああも和やかに会話をしているなんて。
「ヤダ、リヴァイさんケガしてるじゃないですか。言ってくださいよ」
「ただの掠り傷だ」
「切り傷は痕に残ってしまいますよ、ちゃんと手当てしましょう」
リヴァイの頬の傷に気付いたは、ポケットからハンカチを取り出しながら傍に寄り傷口に当てる。人に怪我を案じられても「問題ない」「必要ない」と断ち切る人なのに、今のリヴァイは痛みに触れる彼女を受け入れている。そしてその彼女から一切目を逸らさない。そのリヴァイの目の前で笑いかける彼女もまた、リヴァイに触れることがさも当然かのよう。
近い距離で話す二人の声はもう聞き取れない。
けれどもマスクの中で笑う彼女を見つめるリヴァイの眼が、傷に触れる彼女の手の中におとなしく存在するリヴァイが、これまでに見たどの瞬間とも違う。
あんな眼をするなんて。あんな空気を持っていたなんて。
あの、闇のような男が。
「ッ……!」
不意に、彼女だけを見つめていたリヴァイが何かを感じ取り、その眼球がこちらに向いた。視線を向けられ、ビクリと臓腑を脅かされたグロリアはすぐさま隠れ逃げるように走っていった。
「どうかしました?」
「……いや」
ドアの方を向いたリヴァイと同じようにも目線をやったが何もなく、リヴァイもまた視線をこちらに戻した。
「いつ出発する」
「明日早朝に出ます。北はまだ雪も積もってるでしょうから夜道は危険で」
「今日は帰るのか」
「……ええ、夜明け前には発つので。リヴァイさんもお疲れでしょう。ゆっくり休んでください」
さ、手当てしましょう。誘うに押され安置室を後にした。
その後リヴァイは報告会議に呼び出され、手当てをする暇も与えられず、ちゃんと消毒してくださいねとはハンカチを託し、そのまま二人は別れた。
療養棟を出ていくリヴァイの背をはいつまでも見送った。戦いを終え安堵し、けどまたすぐ離れ離れになる。傍にいたい思いはいつでも同じ。けれども今はそれ以上に、見つめてくるリヴァイの瞳が脳裏に焼き付いていた。どこか、普段と違ったような。何故か、離れてはいけないような。リヴァイの少ない言葉からは、その奥底に潜んだ思いのすべてを汲むことは難しい。けれども自分はそれすら分からなければいけないのではないか。その上で、応えなければいけないのではないか。
翼を奮い立たせることが正しいのか。羽を折り休ませることが正しいのか。
瞳の奥行きがあまりに深く、手を伸ばしても光を差しこませても見つけられない。
正しい答えが分からない。まだ、あの人を理解することが出来ない。
私は、まだ足りない。
「リヴァイ兵長、行っちゃった?」
「え? あ、はい」
背後からかけられた言葉にはドキリと答えた。
すぐ傍にグロリアがいて、同じように本棟の方へ消えていく背中を見ていた。
「兵士長になって忙しくなっちゃったのよね。いつも顔色悪くて寝不足みたいだし」
「あ……ええ、心配ですね」
「ま、兵士長になる以前も寝不足だったけど。ほら、夜更かしが好きじゃない? あの人」
「え?」
グロリアの話の内容も真意も分からず、はまっすぐにグロリアを見つめた。
「ああ、そういう目をするのね。小動物みたいに無垢で健気な目。男は弱いわよね、そんな目で見つめられると」
「え……?」
「でもまさかあのリヴァイ兵長までそんなことでオチたわけじゃないでしょ? アナタ、リヴァイ兵長とどんな関係なの?」
「いえ……、とてもお世話になっています」
「お世話になっています。お世話してますじゃなくて?」
「え……?」
「てっきり今の夜のお世話はあなたがしてるものだと思ったけど、違うの?」
「……」
遠まわしに言い含む言葉はとても飲み込めるものではなかったけど、は目の前で言葉を投げかけてくる人間ととても相対していられず、グロリアから目を離し一礼してその場を去った。
「ねぇアナタ、東洋人って本当なの?」
けれども足を止められた。静かに、遠いところから近づいてくるように、心臓の鼓動が速度を速め頭に響いてくる。
「医者だからっていつもマスクしてて、ヘンだなって思ってたの。本当なの? 初めて見るわ。ねぇ、顔を見せてよ」
「失礼します」
「じゃあこの噂も本当なの? 東洋人とのセックスは、極上の快楽だって」
背を向けたの首筋にそわり……冷たい指先が滑り、はビクリとすぐ傍にいたグロリアから跳ね退いた。
「や……やめてください、」
「やぁね、そんな青い顔しなくても誰にも言わないわよ。そんなことが広まったら大変だものね。この療養棟じゃ特に。やっぱりリヴァイ兵長に気に入られた理由はそこなのかしら。じゃなきゃおかしいわよね。兵長、昔と違って今じゃ兵団内の女とは誰とも寝ないって話じゃない」
「……」
「責任ある立場になって、部下に手を出すのは忍びなくなっちゃったのかしらね。だからってアナタみたいな純粋な子に手を出すのはヒドイわ。あの人強引でしょ? だけど、そこがたまらなく魅力的よね。他の男とはぜんぜん違う。アナタもそう思うでしょ? ……ヤダ、泣いてるの? まさかあのリヴァイ兵長が清廉潔白に見えて?」
アハハッと高く響く笑い声にも怯え、は息が詰まった。
何も聞かなくていい、何も話さなくていい。そう分かっていながら、けれども、ならどうすればいいかも分からず、身を剥ぎたくなるような嫌悪が湿気のように纏わりついた。
「?」
マスクを押さえ、窒息しそうな苦しさに脳を揺らすを、廊下の先から現れたレイズが呼んだ。
「探したよ、もう帰らないと陽が暮れてしまうよ」
「レイズ……」
「どうした?」
レイズを見てようやく息の抜け道を見つけ、はレイズに駆けよりしがみついた。それを受け止め、俯くとグロリアを見やりながらレイズは何事かと問いかけるも、は震え俯くばかりで答えられなかった。
そのままレイズはを抱き支えて調査兵団本部を後にした。
馬車の中でもレイズはしきりに問いかけたが、マスクの中で口を閉ざすは俯き肩を揺らすばかりで、何も口にしなかった。