水を弾く白い肌に指が飲み込まれていく。
肩から背中、腰までゆるやかに湾曲する身体に真黒な長い髪が張り付き水滴を垂らす。
ほんの僅か刺激を強めれば、締めつけた喉から苦しげな声が漏れ必死にしがみついてくる。
それがあまりに可愛らしく、さらに欲して押しつける身体を強くしてしまう。
身体よりも濡れた黒い瞳が己を射抜く。小さな赤い口唇が割れ、覗いた舌が呼び寄せる。
リヴァイさん……リヴァイさん……
「ッ……」
バシャンッ……、濡れた手を壁につき、震える指先を握りこむ。
頭の先から打ちつける熱い湯よりも茹だっている体から湯気が立つ。
ぶるりと痺れる体の中心から熱が引いて、欲情がシャワーに流されていく。
ひとつひとつ息を吐くごとに血流が穏やかになり、沸騰していた脳内がようやくここがシャワー室であることを思い出した。
目を開くと当然、濡れた壁しかない。柔な肌も絡みつく髪も呼び声も、当然。
あるのは右手の中に、薄紅の縁取りに花の刺繍が施された白いハンカチ。
無垢な白にどろりと纏わりついた欲の塊を、自責と悦楽と共に洗い流した。
湯を止め体を拭きながら歩き、シャツに袖を通しシャワー室を出ていく。
過ぎゆく窓は黒く、月すらない闇夜。森の木々すら静まり獣の息遣いが聞こえてきそうな深夜。
そんな廊下を明かりも持たずに自室へと歩いていく。闇は慣れていた。
「リヴァイ兵長?」
遠くから床板を踏み締める足音が聞こえ、ぼんやりと明かりも見えたから誰かが近づいてくることは分かっていた。傍まで来るとランプの明かりが持ち手を照らし、だけどリヴァイにはそれより先にそれがモブリットであることが分かっていた。モブリットの歩行は静かであまり兵士らしからぬ音がする。
「お疲れ様です。今湯あみですか? 遅いですね」
「お前もだろ」
「自分は、ハンジ分隊長に食事を届けていたらこんな時間に」
「ご苦労なことだ」
「あ、兵長」
敬礼の型を取るモブリットの前を通り過ぎ、そのまま歩いていくリヴァイをモブリットは呼びとめた。振り返るとモブリットは床から何かを拾い上げていて、リヴァイはタオルと一緒にまとめて持っていたはずのものがないことに気付いた。
「兵長のものですか?」
落ちたところを見たのではなく、歩きだそうとしたら床にあったからつい拾ったが、それが花の刺繍の施されたハンカチだったからモブリットは思わず問いかけた。拾ったのがモブリットで良かったとリヴァイは引き返す。
「ああ、彼女のですか」
「血で汚しちまってな、もう使いモンにならんだろう」
「新しいものを贈ってあげたらいかがですか」
受け取りすぐに歩きだそうとしたが、その言葉にリヴァイは足を止めた。
「ああ……なら、用意してくれねぇか」
「自分がですか? ご自分で選ばれたほうが」
「女の趣味など分からねぇよ」
「彼女なら何でも喜んでくれますよ」
「ならお前が用意しても同じだろ」
「兵長が選べばこそ、ですよ」
モブリットの言わんとすることが理解できるような、できないような。
でもきっとモブリットは自分より遥に、人の想いに近しい人間だ。
そのほうが絶対にいいです、と念を押し、モブリットは去っていった。
足音と共に明かりがなくなると廊下は再び夜の静けさに戻った。
「私が用意しましょうか?」
「……」
その帳を打ち消す、女の声と匂い。
「盗み聞くんじゃねぇ、気持ち悪い」
「こんな静かな夜に話してたら誰だって聞こえますよ」
暗い廊下の先から足音と共に、匂ってくる。女特有の香りに、生々しさの混ざった匂い。他人のものとなると存外気持ち悪さが増す匂い。傍まで来てもこの暗さではっきりと顔も見えないが、それが女で、覚えのある声であることは分かる。闇に慣れた眼に見えたグロリアはいつも高い位置で結っている髪を下ろし、シャツの胸元を大きく肌蹴させたまま、厚い口唇だけが色を持ち浮かび上がっていた。
「守衛は寝てやがんのか。夜遊びはバレないようにやれ、処分するぞ」
「兵士長なんかになるとそんなこと言うんですね。前はアナタがよく招き入れてくれたのに」
「古いことをネチネチと持ち出すな」
冷えたハンカチを握りこみ、リヴァイはグロリアの横を通りぬけていく。
じゃあ今から兵長のところに行くから許してください。
言っても、去るリヴァイの足は止まらない。
もう過去のこと。もう「古い」こと。
「最近、彼女来ませんね」
「……」
「調査のあとはよく診察にくるって聞いたのに。何かあったのかしら」
夜の帳に添うように、床板を踏む音が止まる。
闇の中で肩から頭の形が僅かに見える背中へ、グロリアは一歩ずつ近づいていく。
「みんな言葉濁してますけど、本当にあの子とそういう仲なんですか? 兵長、シュミ変わったんじゃありません? あれじゃあ……子ども抱いてるのと変わりないでしょう」
「……」
女特有の匂いに生々しさが混ざった匂い。
背中につと指先があたり、その手が肩へと範囲を広げる。
存外、気持ちが悪い。
「何がしたい」
「何って……分かりません? 兵士長になって、人類最強なんて言われて、仲間にも信頼されるようになって……、あの頃とは違う今のアナタと」
距離を詰め背中に添い、リヴァイの耳元にまで近づき、呟く。
けれどもそれを聞くより先にリヴァイは背のグロリアをドンと突き放した。
「離れろ」
「酷い……昔の女には欠片も優しくしてくれないんですね。あの子にはあんなにかわいく甘えちゃうのに。まさか、本当にあの子に心酔してるんですか?」
「お前には関係ない。あいつにも近づくな」
「それは無理ですよ。これでも私、医療班ですから。話も弾むでしょ、同じ男と寝た女同士だもの。でもあの子、ちょっと純粋過ぎますよね。アナタの昔話に涙目になっちゃって」
「……」
「きっと最中もベッドの上でおとなしく寝ているだけでしょう? いくら稀少な東洋人といえど、アナタがそんな女で満足」
コツ、コツ、近づき伸びてくる指先がリヴァイに届くより先に、ガッと大きな強い手が細い首を掴み上げた。
「ぐッ……」
「……」
あまりの強さに息が詰まる。いや、詰まるどころか喉の骨ごとその握りしめる手の力に圧縮され引き千切られそう。恐怖を抱きその腕を掴むも、窒息の中でグロリアは目の前の眼光にビクリとおののいた。真暗闇の夜の中、どこにも光などないのに、狂気が光っている。夜の中で息づく獣の眼。命を奪える力。闇が突然敵になった。静けさが痛く肌を突き刺した。目の前に……相対してはいけない畏怖が在る。それは野生の獣とも、巨人とも似た、人ではない何か。
ふと手を離し、リヴァイは何事も無く背を向けると静かに歩いていった。
解放された喉が痛みと共に息を通すが、うまく出来ずに激しくむせる。
でももう、去っていく背にはまるで過ぎたこと。古いこと。
「その程度ですか……? 昔のアナタはそんなんじゃなかった……、昔のアナタはもっと! ……」
もうリヴァイの足は止まらない。
言い返されもしない。怒られもしない。殴られもしない。
もう過ぎたこと。古いこと。
リヴァイは肩や耳をゴシっと拭い、感触を床に投げ捨てるように振り払う。
自室のドアを開け、真っ暗で冷え込んだ部屋の中央で立ち止まった。
右手の中のハンカチがひやりと冷たい。その手を握り、リヴァイは寝室へ入るとベッドの脇のランプを手に取り明かりをつけた。真っ暗だった夜の中にオレンジ色の光が丸く広がり、心なしか温度が増す。すっと息が通った。
ランプの明かりに照らされ窓ガラスに自分が映る。まるで……数年前までの眼。
「俺は……今の方がいい」
これを離してしまえば、もう自分は、明かりをつけることもしなくなる。
闇の中に居ついてしまう。そこを居場所だと感じてしまう。
月が無くとも。星が無くとも。
光は、なくてはいけない。
土の道に深く刻まれた轍を辿り本部へと駆けていく。門兵が近づいてくる黒馬に気付き開門し、その間をくぐり抜けるリヴァイは馬房の前で馬から飛び降りると、係の兵に馬を預け本棟へと歩いていった。広がる訓練場には出かけた時と同じく多くの兵士が号令を発しながら汗をかき、最も手前の建物の療養棟では遠征後で溢れる負傷兵達が傷を癒していた。
通りすがりの窓から手負いの兵の包帯の交換をしているグロリアの姿が見えた。覚束ない手つきながらも大部屋の兵士達に囲まれ明るく笑い合う。いつもなら壁外調査後はが兵達の診察によくここを訪れるが、今は北の治験センターへ行く用事があると言っていただけに不在のままだった。
「あ、いた! リヴァイ兵長!」
本棟への入口に踏み入ったところで、棟の中からぺトラが息を切らし駆け寄ってきた。おそらく清書を頼んだ調査報告書を提出しに来たのだろうが、部屋にいるはずのリヴァイが不在で、紙の束を抱えたまま探し回っていたのだろう。
「どちらに行ってらしたんですか、探しました」
「報告書なら俺の部屋に置いておけばいいだろ」
「あ……これは、そうなんですが、」
ふぅと呼吸を落ちつけ、ぺトラは報告書を抱え直す。
「団長から招集命令です。すぐに部屋まで来るようにと」
「何事だ。じき会議の時間だろう」
「内容は聞き及んでませんが、ハンジ分隊長も同じく命令を受けていました」
もうすぐ会議の時間だというのに団長の部屋への招集命令とは、理由に想像もつかず自室へと向かって歩いていたリヴァイはすぐさま団長室へと行き先を変えた。
「兵長、報告書は兵長の部屋でいいですか?」
「会議室へ届けろ。誰かいるだろ」
「分かりました。あ! あともうひとつ……」
「なんだ」
せっかちなリヴァイの速い歩調に急ぎついて歩くぺトラもまた息が落ち着く暇もなく、抱えた報告書を落とさぬようにポケットに手を入れ、中の物を差し出した。
「これを、医療班のグロリアさんから兵長にお渡しするようにと預かりました」
「……」
階段を上るリヴァイが折り返しのスペースで足を止め振り向いた。
ぺトラの手にあるのは小さな紙包み。その大きさから中身は知れた。
多少思いあぐねたが、リヴァイはそれを受け取った。
ぺトラはそこで敬礼し階段を駆け下りていく。
手に持った軽さと紙包みごしの柔な感触からもその中身はハンカチだった。
まさか本当に買ってくるとは。嫌味のつもりか、まだ惑わすつもりか。
紙包みを胸ポケットに入れながらリヴァイは階段を上がっていった。
廊下を足早に突き進み、最奥の団長室へ行きつくと「入るぞ」と扉を開けた。
「遅かったな、リヴァイ」
「出てたんでな。雁首並べて何の用だ」
「これを」
団長室に入ると、奥の窓辺の机に居座るエルヴィンは当然のこと、そこにはハンジとミケら幹部が顔を揃えていた。二人と同じように机に向かい立つと、エルヴィンは目の前に置いていた紙をリヴァイに差し出した。それには癖のある文字が長々と連なっていてリヴァイは読む気も失せたが、末尾の憲兵団の押印はすぐに目に入った。
「最北の憲兵団からの手紙だ。北にある治験センターで暴動が起きたらしい」
「北?」
それを聞き、リヴァイは改めて一文字目から目を通し直す。
読み進めるうちにリヴァイは目を見張った。
「巨人だと?」
「ああ、近隣住民による暴動はすでに憲兵団によって鎮静されたようだが、センター内に暴徒が侵入しようとした際に中の者が、こちらには巨人がいると叫んだそうだ。それがただの威嚇だったのか事実なのかは判明していない。センター内の医師はいまだ兵士達の侵入を一切拒んでいるそうだ。それで憲兵団が北での巨人の可能性をこちらに伺ってきた」
「馬鹿な、北側の壁を壊して巨人が入ってきたとでもいうのか」
「主に南側から巨人が発生するというのは周知の事実だが、可能性がないわけではない。その手紙も昨日のもの、現状どうなっているかも分からないが見過ごせない事態だ。これからすぐにハンジに班を率いて北へ向かってもらうことにした。それに君かミケにも同行してもらいたい」
リヴァイは手紙から隣のハンジに目線を変える。巨人の可能性と聞きながらやけにおとなしく話を聞いているなと思ったリヴァイだったが、隣のハンジはやはりすでに興奮を抑えられておらず、そわそわと挙動不審に震えていた。
「北のセンターというのはが行っていたところだな、リヴァイ。もしかしたら暴動の話は彼女の耳にも入っているかもしれない」
「あいつは今そのセンターへ行っている。まだ帰っていないなら巻きこまれていてもおかしくない。北へは俺が行く」
「そうか。なら急ごう。巨人の有無を確認し、その後の判断はハンジに一任する」
「それって捕獲でもいいってこと!?」
「それは難しいな。北で巨人を捕獲して王都の真ん中を引っ張ってくる気か?」
「治験センターってことは実験器具とか薬品とかまだ私たちが試したことのないことが出来ちゃうんじゃないの? 俄然楽しくなってきたぁあ! 君がなかなか来ないから我慢出来ずに先に行っちゃうとこだったよ、早く行こうよリヴァイィ!」
興奮滾るハンジは急いで支度しなきゃと団長室を駆け出ていった。
「随分余裕かましてるが、巨人の可能性はどのくらいだと踏んでる?」
「分からんな。だが暴動は事実だ、君も急ぎたいだろう。行っていいぞ」
ハンジの様子とは裏腹に落ちつき払っているエルヴィンは、巨人の可能性が薄いと思っているのか、それとも何かが起きることを面白がっているのか。フンと鼻を鳴らすリヴァイは身を翻し開けっぱなしの扉をくぐった。エルヴィンがあまりに平静だったから同じように落ち着いてしまったが、団長室を出るとリヴァイは来た時よりも速い歩調で棟を出ていった。急ぎ準備を整えるとリヴァイとハンジ班は本部の門を駆け出て一路北へと出発する。
「ハンジ、俺はウォルトの所へ寄る。先に向かってろ」
「了解」
ウォール・シーナの壁をくぐり、北への直通路を行くハンジの馬車から離れリヴァイは一人王都の南街へ向かった。