毒性アルカロイド




 それは百年ほど前のことにございます。
 文明開化の明治から元号を変え時は大正。よそのお国では王朝が倒れ中華民国と名前を変えたり、日本とは比べ物にならないほどの大きなお国が世界中を巻き込んでの世界大戦を起こしたりと、恐慌、経済不振といったいろいろ不安定で物騒な情勢ではございましたが、この小さな島国は政党政治の発展や選挙、デモクラシーなどといった自由主義が高まり、また女性の権利拡大、社会進出などの動きも強まるなど、大変でありながら前向きな何かと変動の多い時代にございました。

 かくいう私も帝都に構える呉服屋に一人娘として生を受け、父母は後継ぎ問題などで頭を悩ましてはおったようですが、袴で自転車にまたがり坂道を駆け下りるように明るく朗らかにうら若き青春時代を謳歌しておりました。芥川龍之介、北原白秋、荻原朔太郎などの文学に耽り、宝塚歌劇団に憧れを抱いて、かと思えば近所の剣術道場に通い剣術小町などと呼ばれ、父に無理をこねてスカートを買ってもらい休日には家族でレストランに出かけたりもしました。新聞を開けばやれ米騒動だやれ民衆運動だと大騒ぎではありましたが、海の向こうからやってくる魅力的な代物たち、歌や踊りやと輝く女性達に私の世界は彩られていたのです。私の目に映る世界は生命力に溢れ、煌めきに満ちていたのであります。

 それが、いったい、どうしたことでしょう。
 私が、いったいぜんたい、何をしたというのでしょう。

「貴方は今日からこの地獄で暮らしていくのですよ、さん」
「……」

 長らくの沈黙の後、ようやく発した私の言葉はせいぜい、は? の一言。
 それ以外に何が言えましょう。この黒い着物を着流した大きな殿方に。有無を言わさぬような光の当たらぬ切れ長の目にまっすぐ見下ろされ、ここを地獄だと言ってのける面妖な方を前に、……いったいぜんたい、何と返せましょう。例え夏目漱石先生だろうと何も返せなかったはずです。

「とはいえ、働かざる者食うべからず。仕事もしていただきます。慣れない場では大変でしょうからまずは私の補佐として始めましょう。簡単なことです。私は閻魔大王の第一補佐官。大半が書類仕事です」
「あ、あの……」
さんは勉学にも熱心であったようですし、問題ありませんね。かの青山女学院に籍を置いてらしたとか。ああ、あちらはキリスト系の学校ですね。ここには神はいませんが、まぁ一応私は鬼神ですので、それでご勘弁を」
「ま、待ってください、あなたはいったい……」
「ああ、これは失礼しました。私は鬼灯と申します」

 ほおずき……、きじん……、えんま……、じごく……?
 私には、それらの単語を拾うだけで精一杯でした。いっぱいいっぱいでした。
 それらの意味までを考え及ぶ余裕も器量もありませんでした。
 目の前の方が額につけてらっしゃる……角のようなもの、髪の合間からピンと突き出る大きなとがった耳を、どう受け止めて良いのかも私には甚だ分かりませんでした。

「ほらぼんやりしてないで、まずは地獄を案内して差し上げますよ」
「あ、あの」
「はい?」
「地獄って……なんですか」
「地獄、ご存じありませんか。生前悪い行いをした人間が死後に落ちる場所です」
「それは……なんとなく分かりますけど、え? 冗談なんですか?」
「私が冗談を言う性質に見えますか」

 その方を見つめながら、ゆっくり大きく首を振ってみせる。
 でしょう? とその方はサラリと答えた。
 丁寧な言葉使いだけども人を安心させるような柔和な目や穏やかな笑みはまるで持っておらず、その卒のない弁論は逆に背筋を凍らせるよう。体格の良い体は質の良さそうな着物を流麗に着こなし、その流れる黒髪と立ち姿は美しくすら感じるけど……その右手のいかつい金棒はなんなのでしょうか。やけに軽々と持ってらっしゃるからには玩具か張りぼてなのだろうけど、その様相と着物に激しくかち合ってはいるけれども、必要ですか、それ……?

「まだ状況を飲み込めないというお顔ですね」
「はい」
「冗談でも騙しているわけでもふざけているわけでもありませんよ。ここは死後の世界、地獄です。ここにいるのは全員鬼、それと妖怪です。人間はいません。ここに来る人間は亡者、つまりは生前に罪を犯し地獄に落ちた人間です。その亡者たちの罪を見定め刑を決定するのがここの長である閻魔大王です」

 そう言うとその方は金棒とは別の手を奥に差し出し、その先を覗くと、広い部屋の奥にある机の向こう側に、このがっしりとした体格の男性よりももっともっと大きな髭のおじさんがいて、私はビクリと驚き三歩ほど後ずさった。赤い着物を着て頭に被っている帽子に王と書かれたおじさんは、その様相に似合わず朗らかに笑み私に手を振った。愛想のないこの鬼のような人にも恐れたが、その様相でニコニコと手を振られるのもさらに怪しく怖いものだと知った。

「ええと……つまり、私は、地獄に落ちた……と……」
「とんでもない。貴方は刑罰を受ける側ではありません。貴方は私が連れて来たのです」
「連れて、来た……?」
「そうなんだよ、こんなこと前代未聞だよ。鬼灯くんと知り合ってもう何千年と経つけどこんなことする子だったなんて初めて知ったよ」
「心配には及びません。何せ私が初体験なのですから」
「いったいどういうことなの? 詳しく聞かせてよ、なんで連れてきちゃったの? まさか一目ぼれ? その子に恋しちゃったの鬼灯くん」
「それについては私たち二人の問題なので迂闊に立ち入らないでいただきたい」
「なになにそれ! すっごく気になる! 鬼灯くんにまさか春がくるなんて天変地異? 青天の霹靂?」
「あああ、あの!」

 私の叫び声に、盛り上がっていたけむくじゃらのおじさんは丸い眼を私に向け、切れ長な目のあの方も「はい?」と問いかける。

「本当に、本当に私、分からないのですが……、なぜ私はここにいるのですか? なぜ私がここで、働かなければいけないのですか? 家に帰りたいのですが」
「それは、申し訳ありませんが出来ません。貴方はもう死後の住人なのです、現世には戻れません」
「死後……それって、死んだ、ということですか?」
「そうなります」
「なぜ? なぜ私が? 何も覚えていないのですが」
「覚えていませんか?」
「え? え? ……」

 私は、今日もいつもと変わらない、何気ない日々を過ごしていたはずだ。
 朝起きて、自転車に乗って学校に行き、友だちと一緒に勉強をしてお昼のお弁当を食べ、夕陽の反射する川辺をまた自転車に乗って帰った。そろそろ夏が過ぎ去ろうとするこの頃合いに、空は夕暮れで茜と灰色がだんだんに織り混ざり、まるで虹が空になったようなおかしな空色で、それがさらに川の水面に反射してゆらゆら動き流れ、そんな世界は異様であり情緒的でもあり、でもどこか小さな恐怖も感じさせるような。これから何か大きな変異が起こるんじゃないかというような不安を掻きたてた。

 そんな景色に気を取られながら川べりを走っていた。
 すると突然自転車の前に何か黒い影が現れて、ぶつかる! と思った私は咄嗟に急ブレーキをかけた。

「はいストーップ!」
「ひッ!?」
「そうです、それが私です」
「え? え? 私は、貴方にぶつかって死んだということ……?」
「いいえ。正確には私が貴方を浚ったのですよ。それを証拠に貴方には怪我ひとつないでしょう」
「さ、……」

 さらった……? さらわれた? 私がこの人に? いや、この鬼に?

「ごめんなさい、ぜんぜんまるでさっぱりまったくもって分かりません!」
「そうだよねぇ、鬼が人間を浚うなんて怪談どころか怪奇現象だよね」
「いいじゃないですか怪奇現象。日本では知名度はまだ低いですが海外ではその手の話はごまんとありますし。やはり一鬼として、延々と語り継がれるのも悪くないですね」
「君、そういう表だったこと嫌いじゃなかった?」
「起こしてしまったことは仕方ありません。現世の怪談や怪奇現象はその大半がただの見間違いや嘘ですが、まぁこんな場合も稀にあるのでしょうね」
「平たく言えば未成年者略取だもの、君人間だったら完璧に地獄行きだね」
「鬼で良かったです」

 はっはっは、と大きなお腹を抱えるおじさんと、背中に赤い提灯のような植物の絵が入った着物の肩を揺らす男が笑う。何がおかしいのかぜんぜん分からない。いつまで経ってもこの状況がちっとも理解できない。この人たちがおかしいということしか分からない。

「あの……私……帰ります! 帰らせていただきます!」

 だっ、と走り出し、私はそのおかしな人たちから逃げました。
 広い部屋を、遥か後ろにある扉まで。とにかくこの空間から抜け出したくてたまらなかったのです。

 あの扉を開けて外に出れば、私はふとんの中で息を切らしながら目を覚まし、鳥のさえずりと朝餉の匂い、窓から射す清らかな陽光に包まれながら、なぁんだ……夢か、もう私ったら、本の読み過ぎかしら、なんて言いながらてへっと舌を出すのです。そしたらお母さんの、、朝よ、早く起きないと遅刻しますよ、という声がして、私は昨日までと変わらぬ同じ一日を始めるのです。

 そして、私こんな夢を見たのよ、と学校の友だち皆に話すの。いっそ本にしてみようかしら。悪いことをした人間を死後の世界で裁く閻魔大王。そしてその助手は切れ長な目の、なかなかに麗しい鬼の男……なんて、きっと面白い話になるわ。四谷怪談にも勝る人気小説になるかも。芥川龍之介も驚くくらいに幻想的で不可思議で、でもリアルな。

「……鬼灯くん、君、女の子相手でも容赦ないね」
「追いかけても捕まえられないことはなかったですが、つい」
「だからって金棒投げつけるなんて、生者だったら死んでるよ」

 すらっと背の高い体格の良い鬼。黒い艶髪の隙間にちょこんと小さな角が妙に可愛らしくもあって、切れ長の目は睨まれると怖いけど、謎めいていてどこか人を惹きつけてしまう魅力も秘めている。赤い襟が引き締める黒い着物を着流して、腰元をしっかりと帯で貝の口に結び、素足に草履を履いた鬼。

 ああ、名前……名前は何だったかしら。
 あと、着物の背中に描かれた絵。
 近所のお寺にも咲いている、あの植物の名前は、なんだったかしら。

「赤い……提灯……」
「鬼灯です」
「……」

 遠くからやってきた意識と、微弱な光。
 ゆっくりと開いたまぶたは重く、うまく目の前を映してくれなかった。

「痛みますか? すみません」
「え……」
「貴方はもう死にはしませんが、痛みは当然あるので」

 目の前から声が降ってくる。低くて、頭にズキズキと響く声。
 その声を辿るように目の前を見つめると、だんだんはっきりとその声を発する口唇、黒い髪、切れ長の目、小さな角が見てとれた。

「……夢……」
「ではありません」
「夢じゃ、ないのですか……」
「泣きたいですか?」
「はい、とっても……」

 目の前で私を見下ろしているのは、眠る前に見ていたあの目。
 不可思議で、妖艶で、どこか可愛らしくもある、鬼の人。
 ずくずくと後頭部に痛みを感じてきた私は、頭を撫ぜようと手を伸ばす。
 するとその手は柔らかいものにあたり、それが、この目の前の殿方の……膝だと分かった。

「こ……こ……これは……いったい……」
「はい?」
「ひざまくら……?」
「ああ、後頭部にぶつけてしまったので枕に寝かせると痛いかと思いまして。私の枕、もみ殻なので硬いんですよ」
「ここは……?」
「私の部屋です」
「き、きゃあああ!」

 ガバッと起き上がり鬼の膝から離れ、また逃げようとするけど床に積み上げられた本にけつまずいてごろんとこけた。まさか、まさか、見知らぬ男性の部屋で(鬼だけど)、二人きりで(鬼だけど)、膝枕なんて! (鬼だけど!)

「さすが日本の淑女は清らかでいらっしゃる」

 ふとんの上に座り、手に持っていたタオルを綺麗に折り畳む几帳面なその方は、やはり夢でも幻想でもなく、確かにそこに存在していた。おそらく介抱してくれていたのだけど、おそらく濡れタオルで私の後頭部を冷やしてくれていたのだけど、それより何より私はやはり逃げたい一心で、また扉に駆け寄りガチャっとドアを回すのだけど……鍵がかかっているのか開かない。だけど鍵などどこにもついていない。

「どうにも貴方は逃げたがるようなので、しばらくはここにいていただきますよ」
「な、な、なぜに……」
「出歩かれると困るんですよ。私は貴方の保護責任者ということになりましたので、貴方の身の安全を守る必要がありますし。だけど私も忙しい身の上なので四六時中貴方の事を見ているわけにもいかないですし、その解決策です」
「解決策……とは」
「監禁です」

 サラッと言った!

「か、監禁はともかく……いや良くないけど、あなたの部屋に、私が……」
「……大丈夫ですよ、何もしません。……」
「いますっごいすっごい小さい声でたぶんって言いました!?」
「貴方、人間の割に耳がよろしいですね」
「出してください、帰してください! おかあさぁん!!」
「もう泣き叫んでも二度と会えませんから現世とは縁を切りなさい」
「誘拐魔! 犯罪者! 鬼!」
「鬼は間違いありません」
「うわぁああん!!」

 部屋中に響く私の泣き叫ぶ声もサラリと流す涼しい顔のその鬼は、大きな尖った耳をピンと張っている。その淀みない目線と背筋然り。

「ところでさん、覚えましたか?」
「う……う……、なにを……?」
「名前ですよ、私の」
「……」

 立ち上がる鬼は一歩ずつ扉の方へ、私の元へと近づいてくる。
 近づいてくる毎に余計に分かるその大きさ。すっかりその陰に隠された私はおどおどと涙目でその鬼を見上げ、鬼もまた私を静かに見下ろした。こ、こわい。

 すると、鬼は、私に手を伸ばした。
 私はビクッと怯えるけど、その手の先の、細長い骨ばった指に優しく包まれていた、赤くて軽い小さな提灯のようなものを見て、涙を止めた。

「鬼灯です。覚えてください」

 何を考えているのかまるで分からない、まっくろな瞳。
 淀みもせず、霞みもせず、まっすぐ私を見つめる瞳。

「ほおずき……」
「そうです」

 その指先から落ちてくる赤提灯を受け止め、私はその名を呼んだ。
 明かりを背にしているせいで余計に暗く怖く見えるけど、さらりと落ちる髪の中で、鬼は、ほのかに笑ったような気がした。けど、今度はその大きな手が私の頭をすっぽりと覆いなでなでと撫ぜたので、本当かどうかは分からず仕舞いでした。

 いったいどうして、このようなことになってしまったのか。
 いまだに私には分からないのでございますが、海の向こうどころかこの世の向こう、歌や踊りやと輝く女性たちではなく鬼たちに囲まれての生活が始まったのでございます。まったくもって奇々怪々。有為転変は世の習いと申しますが、いくらなんでもこれは、酷過ぎるのであります。父上様、母上様、願い叶うならもう一度お会いしたい所存ではございますが、何せここは地獄ですので、それもまた儚い夢の露となるのでしょう。

 数えればもう長い年月が経ってしまいました。
 まだ青くも清らかな乙女だった、百年ほど前のことにございました。