二十歳にもならない生娘が突然浚われたのです。しかもその先で出会った者達は、人の姿をしていながら人ではない、異形ばかり。鬼、閻魔、妖怪― そこは地獄といいました。何がどうなっている、これからどうなる。何も分からない私は両親の元へも帰れず、閉じ込められた部屋でひとり泣きじゃくる日々が続いたのです。
広さはあるがたくさんの本や巻物、薬草や意味の分からぬ玩具のような物が埋め尽くすほどごちゃごちゃと置かれた部屋に監禁された私は、まさにお先真っ暗という言葉がピタリと当てはまる、不幸の象徴のよう。だけど、私をここへ監禁した張本人、あの鬼灯と名乗った鬼の男。奴は私をこんな所へ仕舞いこんでいながら滅多とここに姿を現さず、たまに戻ってきたかと思えば鬼のくせにたいそう疲れ果ててバタリと倒れるように床に就く。鬼に恐れる私はまさか近づきもしませんが、鬼灯はそのまま朝まで寝倒し、目を覚ましたかと思えばまたすぐに出ていくという、まるで日中仕事に追われる人間よりも人間臭い生活をしている鬼でありました。
「……一体何が不満なんですか、さん」
「この状況のどこに不満を抱かないとお思いですか」
「衣食住は整っているし、これだけの本があれば暇も持て余さないでしょう」
「その状況のどこに不満を抱かないとお思いですか」
この鬼の部屋に閉じ込められて、もうどれだけの時が経ったかもしれません。ここには時間を示す時計はあっても、年月を示すものは何もない。しかしかなりの時が過ぎたことは分かる。そしてそれだけ経てば悲しさも寂しさもやんわりと治まっていくもの。しかし……その代わりに私に芽生えだしたのは、この理不尽すぎる状況への過度な精神的負荷でした。苛立ちもド頭を突き抜ける私は、鬼の居ぬ間に床に積み上げられた本をなぎ倒したり薬瓶の配置をぐちゃぐちゃにしたり、鬼が居れば物を投げつけたりと、猟奇的に変貌していったのであります。
「やれやれ……。これ以上部屋を荒らされたくもないですし、一度外に出ましょうか」
「外……?」
「といっても庭ですが」
鬼灯が何十時間かぶりに姿を現した時、何かも分からない薬瓶の中から適当に薬剤を取りお茶に混ぜ鬼灯に出してやった私のお茶に手を出さず、目の下にクマを携えた鬼灯は疲労困憊した体をボリボリと掻きながら腰を上げ、その押しても引いてもまったくビクともしなかった扉を簡単に押し開けた。
鬼灯は廊下を歩きだすと閻魔大王が鎮座する広間を通り過ぎ、たくさんの鬼とそれに捕まえられている白装束の人間のような者たちの騒々しさの間を抜けてさらに大きな扉を開けた。そのまま殿の外へと出ると、廊下の欄干の外に何か赤くゆらゆらと揺れる怪しげな集団が私を出迎えた。
「なにこれ……気持ち悪い」
「何を言うんです、こんなに可愛らしいのに」
「可愛らしい……? これが……?」
「これは金魚草といいます。地獄でも珍種なんですが、私が品種改良して質と大きさ共にここまで育ちました」
「育ちましたって、水をあげるの? エサをあげるの?」
「どちらも欠かせません。さんもやってみますか、面白いですよ」
その……地面から生えた茎と葉の先に赤と白の入り混じったまるまるとした生きた金魚がなっている……動物とも植物ともいえぬ生き物を、鬼灯はとても愛でているようで、疲労でさらに皺の寄った生気すら感じない切れ長の目でそれを眺めている鬼灯はほんのり癒されているようだった。
鬼灯はその金魚草を室内用に改良してみましょうと、金棒を置いて数本……数匹? 根っこから掘り出した。
そんな、深く屈める鬼灯の大きな背中を見下ろしていたその時、私は気付いたのです。
好機……! と。
「いま金棒を持つと金魚草を落としてしまうので逃亡を図らないでくださいね」
「……」
体が走り出す予備動作に移った瞬間、鬼灯はたった一言で私の足を止めさせた。
後頭部の痛みを思い出す私はぐうと息を飲みこまされ、立ち上がった鬼灯の手からざわざわと蠢く金魚草を受け取ったのでした……。
「あれ、鬼灯様! 戻っておられたんですか」
前を歩かされ閻魔殿の中へ戻っていくと、遠くでバタバタと走り回る鬼たちの中からひとりの鬼が鬼灯を見つけ駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。変わりありませんか」
「もう仕事が回らず大変ですよ。ほんと猫の手も借りたいくらい」
「お疲れ様です」
「こちらへはいつ戻られるんです? いや、そちらも大変でしょうが、やはり鬼灯様がいないとまるで収拾が……」
たくさんの巻物を持って汗を垂らす鬼の言葉を遮って、鬼灯は鬼を連れて私から離れていった。
私に聞かれてはいけないことなのか。なんだかこそこそするようで、感じが悪い。
すぐに戻ってきた鬼灯は何事も無かったかのように行きますよと部屋へ歩いていった。
「鬼灯はここで働いてるんじゃないの? 閻魔大王の補佐官なんでしょ」
「私は今、こことは別の場所で仕事をしています」
「別の場所って?」
「説明してあなたに分かりますか?」
まるで突き放すような物言いに私はついに腹を立て、プイと顔を背けた。
そりゃあ地獄のことなんて説明されたって分からないけど、話してくれてもいいじゃない。閉じ込められている今の私には、鬼灯しか話す相手がいないのだから。こうしてたまに鬼灯が戻ってくるまでの間は、ずっとひとりぼっちなのだから。
「……芋が硬いですさん」
「煮つけが足りませんでした」
「味も沁みていません」
「煮つけが足りませんでした」
机の向こう側で箸を持つ鬼灯が、白いままの芋の煮つけに箸を突き立てるも刺さらない。もちろん自分では分かっていたので私はそれに手を出さない。また一度ため息を吐く鬼灯は、それでも芋を口の中に放り込んだ。
「本を見て作ったんでしょう。何故その通りに出来ないんですかね」
「私は読めとは言われたけど出来るようになれとは言われてません」
「知識になっていなけりゃ読んだと言わないんですよ。出来るようになるまで次の本にはいかせませんよ」
「鬼!」
「鬼です」
また部屋に戻された私は鬼灯に問いました。一体いつまでこの部屋に閉じ込めておく気なのかと。
鬼灯は答えました。この部屋にある本をすべて読み終えたら出してあげますよと。
だから私はこの部屋を取り囲んでいる本棚の、端の一冊を手に取り開いたのです。
だけどその中身はまるで意味不明。その大半が薬剤や野草に関するもののようでしたが、とにかくそれらの本は内容を理解するどころかドジョウのような文字を読むことすら困難で、難しい言葉も多くそれはもう至難の業だったのです。
すると鬼灯は読みやすい本から始めたらいいのですよと一冊の本を手渡しました。
だから私は読書ではなく、手順書である料理本から始めたのでした。
「料理の一つも習わなかったんですか。貴方もう十七でしょう」
「食堂があるんでしょう。そこで食事を済ませてこればいいのでは」
「済ませてますよ。腹は減ってないんです」
「じゃあ何故私に作らせたのよ!」
「本とにらめっこして作っている姿が可愛らしいからですよ」
キー! と投げつけた茶碗はいとも簡単に避けられ、あまつ箸で受け止められた。
鬼とは反射神経が優れているのか。それともこの鬼が優れているのか。
丁寧なしゃべり口と涼しい顔の鬼灯は、よくそんな殺し文句を放つのです。
何かにつけちゃ私を可愛らしい、愛らしいと犬猫のように撫で回す。
そんなことを、鬼ではあるけど、一応なりとも男の人に言われるのだから最初は不意にドキリと動揺したこともありました。でも……。
「その調子で、外に出ることになったら立派な獄卒として働いてください。人間でもこちら側につけるのかと亡者たちにはさぞ一抹の希望となるでしょうね。そこをどん底へ突き落とす、それもまた一興です。それもこんな小娘にいたぶられるなんて、悪の限りを尽くした亡者たちにはさぞ屈辱でしょう。何とも愉快な光景です」
「……」
多少芯の残る芋だろうとガリガリと噛み砕くこの鬼の頭に情けなどないのです。日々鬼としてどれだけ残虐に、残忍になれるかを教訓としているようなまさに鬼の中の鬼。そんな鬼に多少優しくされてもその黒い腹の底に何を隠し持っているのかと恐怖でしかありません。可愛らしいなどと言われてもそれはこの金魚草と同類なのです。
「私はそんなことしません。人をいたぶるなんて人のすることじゃないわ」
「何を言うんです。貴方はもう地獄の住人なんですよ」
「あなたが勝手に浚ってきたんでしょ!? どうして私が地獄なんか、私が何の罪を犯したというの!」
「そうですねぇ……強いて言うなら、私を恋に落とした罪でしょうか」
「恋いい!?」
「現世でもいうでしょう、そういう人を罪な人……と」
こんな獲物を狙う蛇のような目をした鬼の口から「恋」などという言葉を聞くと背筋がぞわわわわっと冷え込み身の毛がよだった。どうしたって口でも力でも敵わない。もはや私に出来ることは、一日も早くここの本を読破し外に出ること。外にさえ出ることが出来ればこの多忙な鬼灯のこと、一日中私を監視することなんて出来ないのだから、きっとどこかに逃げる隙が生まれるはずだ。いや、もはやこの部屋でなければ、この鬼の元でなければどこでもいい。
「私はもう休みますよ」
「ご勝手にどうぞ」
「さんももうお休みなさい」
「先に寝たらいいでしょ。明かり一つついてちゃ寝れないの? いつも爆睡じゃない」
「私明日早いですよ。寝ないと起きれませんよ」
「見送りなんてしないわよ。あなたが起きたら私は寝ます。どうぞ勝手に出ていってください」
「なにぐうたら主婦みたいなこと言ってるんですか」
貝の口の帯を解き、脱いだ鬼灯柄の着物をふとんの上にかける鬼灯はもうまともに目も開いていられないくらい眠たそう。眠り落ちる五秒前のようなのろい口調でふとんの中に潜り、それでも机に向かう私に角を向けている。そんな鬼灯に背を向け、私は次は図鑑を見ることにしました。この四方の壁を取り囲んでいる本棚、その上床にも所狭しと積み並んでいる本全部を読むのに私だって時間が惜しい。鬼灯の生活様式などに合わせていられない。
「睡眠不足は肌に悪いですよ。地獄に来ても女を捨てちゃいけません」
「だからそうしたのはあなたなの! 地獄になんて来たくもなかったのに」
「地獄に来たい人間を連れ去ったって面白くも何ともないでしょう。地獄は行く所ではなく落ちる所です」
「恋みたいに言うな!」
枕に頭を横たえまるで寝言のように鬼灯が呟く。
青筋立てて睨んでやるけど、暗がりの中の鬼灯はその細い目を瞑りスースーと寝息を立てていた。
「はや……」
ものの三秒程で鬼灯はふとんも被らず、私と話していた体勢のまま、頬杖をついていた手を力なく倒しこちらへ伸ばしたまま寝落ちていた。そんな鬼灯からふいと目を離し私は小さな明かりの元で図鑑を読み続ける。この部屋は暑くも寒くもないから夜でも冷えることはない。けど……眠っている人がそんな体勢だとさすがに気になってしまう。私は極力音をたてずにふとんに近付き、眠りこけている鬼灯の曝け出されてる腕をふとんの中にしまい、ふとんを肩まで引き上げた。
細かく神経質な鬼灯は目を覚ますかと思ったがまるで起きずに熟睡していた。色の白い頬は目の下のクマが目立ち、あまり健やかな眠り顔とはいえない。鬼が日々やつれるほど忙しく働いているなんて、現世にいた頃は考えもしなかったけど、同じ部屋にいればこの鬼の多忙さは嫌でも分かる。本当にちゃんと食事をしているのか、最初に出会った時よりずっと弱ってるようにも見えた。まるでうちの店が経営難で苦しんでいた頃のお父様みたいだ。毎日遅くまで働いて働いて、こんな風に倒れるみたいに眠っていた。
「……ひっ!」
血の気など通っていないような真っ白な鬼灯の寝顔を見ていると、突然ふとんの中にしまったはずの鬼灯の手がにょきっと伸びてきて私の頭をガシッと掴んだ。喰われる、殺される! 私は恐れおののき一瞬で青褪めたが……そんなことはなく、鬼灯の腕は私の頭をぐいと抱き込むと押し潰すようにしてまた寝息をたてた。
「やだ、ちょっと……」
頭のてっぺんにスースーと息を感じる。起きてはないようで、なのに腕の力だけは強固でどうにも解けず抜け出せない。私は鬼灯の腕の中で溜め息を漏らした。
それにしても痛い体勢だ。体はふとんに上がってないのに頭だけ抱きすくめられている。そして動けない。私はまだ眠くはなかったけど、仕方なく、ふとんに入って眠ることにした。これが人であればとんでもない所業だけど、鬼だから、一万歩譲って赦そう。この部屋にいたどれだけかの時間の中で、どうやら取って喰う気ではないようだと分かった。どうせ朝まで爆睡だろうから起きもしないだろうし、もう少し眠りが深くなればこの腕の中からも抜け出せるだろうと思った。
不本意ながら……鬼灯と一緒に眠るのは初めてではない。この部屋にふとんはひとつしかないから。私はここにきてからずっと毛布だけ被って部屋の隅で寝ていたけど、私が寝ている間に戻ってきた鬼灯が私をふとんに運んだんだろう、目が覚めると鬼灯が後ろで寝ていたことがあった。背を向けている鬼灯は熟睡していたけど、ふとんも被らず私にだけたんまりとふとんをかけていた。鬼だけど、怖いけど、容赦ないけど、この鬼は……妙に優しい。
シンと静かな中で解放の時を待っていると、だんだん体が温かくなってきて、目がうとうとと重たくなってきた。まぶたにあたる前髪がこそばゆくてこすりたいけど触れず、鬼灯の腕でごしごし目をこすりつけた。一向にこの腕の力は抜けない。もう寝息はスースーどころかグーグーといびきにすら聞こえるほど深く寝入っているのに、この無駄に強い腕がどうやっても解けない。
ああ、駄目だ……。
久々に外へ出て気分が上がり、その後はずっと本とにらめっこしていた私にだって、そんなに体力は残っていない。目を開けているのも苦しくなって、閉じている時間の方が長くなっていく。時折ハッと目を開けるけど、やっぱり重く重く降りてくる瞼に打ち勝てない。
そうして私は結局、鬼灯の腕の中で目を閉じてしまった。
寝落ちる瞬間に蝋燭をつけたままだと思い出したけど、どうとも出来なかった。
眠気の前には何の意思も力も敵わない。
そして私も熟睡型だから朝まで目を覚ますことはないのだろう。
「……」
寝入りながらも頬がこそばゆかった私の横髪を白い指が浚っていく。
もうすやすやどころかグーグーと寝入っている私を抱いている腕は、もうない。
鬼灯の腕はいつの間にか私から離れ、その強固な手に似合わず柔らかくそっと、私の髪を一本一本撫ぜるように触れていた。
机の上で小さくゆらゆら揺れる灯火が、燃え尽きてジュッと音をたてる。
部屋の中から色が消え、光が消え、景色が消えた。
体中に疲労を溜めた鬼がたまの休息時間を私に使い、眠りもせずに何の意思も感じない目で私を見つめていたことは、夢の中にいる私の知らないところでございました。