毒性アルカロイド




 暑い暑い夏の日のことを、今でもようく覚えています。
 学帽を被った子どもたちが輪になって必死に丸いタライを覗きこみ、私にも覚えのあるその光景に、私も一緒になってそれを覗きこみました。夏の風物詩ともいえる金魚売りのオジさんは学校が終わる時間になるとどこからともなく現れて、赤く小さな魚がたくさん入ったタライを担ぎ「きんぎょ〜え〜きんぎょ〜」と独特の調子で子どもたちを呼び寄せる。太陽光を反射する透き通った水の中で群を成し、一ところに集まったりグルグルと回遊したり、赤い尾ひれをふわゆらなびかせるその流麗な美しさといわんや、私の目と心を釘づけにしたものでした。

 あれは金魚でした。真っ赤だったり、赤と白が混ざっていたり、黒かったり。
 まごうことなき、燃えるような夏の日に涼をもたらす、綺麗で可愛い金魚。
 ただ……これは水中ではなく、鉢の上で生きている。
 土に植わり、太い茎の先で、葉っぱをつけ、グルグルではなく前後にゆらゆら揺れている。
 これは……、金魚か?

「おぎゃあ! おぎゃあ!! おぎゃああ!!!」
「ひいいっ!!」

 鳴いた! な、泣いた!? 金魚の声ってこんな? というか声発する!?
 驚きのあまり持っていたジョウロを落として床を水浸しにしてしまい、あまつそれは読んでいた「はじめての金魚の飼い方」と「植物図鑑」にかかってしまった。

「な、なんなの、さっき水あげたじゃない・・・なんで泣くの?」
「おぎゃあ! おぎゃあ!!」
「もうヤダ、分かんないよ、泣かないでよお!」
「おぎゃあ!! おぎゃああ!!」
「も……鬼灯ー!」

 あっちでさわざわ、こっちでさわざわ。
 鬼灯が室内用に改良しようと持ち帰ってきた金魚草たちは、昨日までは穏やかにゆらゆら揺れていたのに、なぜか今朝になっておぎゃおぎゃと騒ぎだし泣きやまない。栄養不足? 水不足? 金魚の飼い方には金魚は載っていても金魚草は載ってない。植物図鑑にはあらゆる植物は載っていても金魚は載っていない。経過を観察しておいてくださいと言い残して出ていったきりの鬼灯は、もう12時間はいないまま。

 涙をためて怯える私でしたが、ざわめく金魚草たちの激しい揺さぶりと雄叫びは、何かを必死に訴えているようにも思えました。激しく頭を振っている金魚草たちのゆらゆら揺れるその先を見ると、そこにはまだ生まれたて……生えたて? の小さな一本の金魚草が居り、だけどもその金魚草は茎をくったりと折り曲げて、土に赤い尾ひれを垂らしていたのです。

「な、なに……? なんで?」

 起き上がらせてみても手を離せばくたりと倒れる。
 ぷにぷにとお腹を押してみてもピクピク震えるだけのチビ金魚草。
 私には金魚の知識も植物の知識も無いけど、その姿は……知っていたのです。
 母に内緒で買って帰った真っ赤な金魚は、決まって数日後には、こんな風にピクピクと水面に浮かんでいたから。

「やだ、死んじゃう……死んじゃう、金魚……」

 床で浸水している金魚の飼い方を膝に乗せ開くも、水分で文字を滲ませている書物は解読不能。同じく植物図鑑を掴み取りページをめくるも、音も立てずに千切れてしまう。私はもうどうすればいいか分からず、チビ金魚草の鉢を抱え奥の風呂場へ駆けこみ水をたっぷりかけたが、鉢から土が流れ落ち根っこまで曝け出されたチビ金魚草は、タライの中の金魚たちのようにグルグルと元気になってはくれない。

「どうしよう、しんじゃう、しんじゃう」

 おぎゃあと泣く力も無い。ピクピク体を震わせ、丸い眼をぎょろぎょろとさせたまま、だんだん動かなくなっていくチビ金魚草。

「鬼灯……、鬼灯、鬼灯」

 私は部屋へ駆け戻り扉の取っ手を掴んだ。12時間前に出ていった鬼灯がそうしたように。
 けれども扉は開かない。鬼灯はあんなに簡単にこの扉を開けたのに。

「鬼灯! 鬼灯!」

 押しても引いてもビクともしない扉を、私はドンドン叩きました。
 硬くて重いそれは揺れもせず、私の拳をただ痛めつけるだけ。
 赤く腫れ、小指に痛みが走り、それでも私はドンドンと叩いて鬼灯の名を叫んだ。

「鬼灯っ!」

 おぎゃあ、おぎゃあ! 泣き続ける金魚草よりも激しく私は叫んだ。
 叫んでも、叩いても、泣きじゃくっても、頑なに強いその扉は開きはしなかったのです。


 ―何事ですか。
 ようやく帰ってきた鬼灯は目の下に多分の疲労を携えて、私の頭の上で零しました。
 金魚草の泣き声もなくなった静かな部屋の隅でふとんを被って小さくなっていた私は、扉が開く音がしても、傍に来た鬼灯の足を見ても、私の名を呼んでも、決して頭を上げはしませんでした。

「今度は何を怒っているんですか」
「……」
「お腹空いたんですか? それとも、読めない漢字でも?」
「……」

 きっと高い所で腕を組み見下ろしてるんだろう鬼灯が、何を言っても私はうずくまったまま返事もしませんでした。そんな私に鬼灯は豪快なため息を降らせ、うずくまる私の両手を掴みぐいと引っ張ったのです。

「痛い!」
「……何をしたんですか、この手」

 鬼灯の大きな手に軽く収まる私の小さな拳の小指側が、ジンジンと熱を持ち真っ赤に腫れていることに鬼灯は気付きました。そしてそれ以上に真っ赤に滲んだ私の水没した目にも。

「どうしたんです」
「……金魚草……」
「金魚草?」
「しんじゃったの……金魚草……」

 そう言葉にした途端、またボロボロと涙が落ちてきた私を見下ろして、鬼灯は私が指し示すお風呂場へと向かっていきました。水を張った洗面台の中で土と一緒にプカプカと浮いているチビ金魚草。それを見下ろす鬼灯の後ろで、私は黒い着物の背中をビクビクしながら見つめました。だってこの、鉄仮面のような鬼の形相の鬼灯が、金魚草を育てている間はどこか穏やかで楽しそうであったことを……私は知っていたのです。

「ごめんなさい……私が死なせちゃった」
「死というのは不適切ですね」
「だって動かないの、どうしていいか分からなくて……、植物なのに、水に入れちゃダメだよね……ごめんなさいー……」

 水の中からチビ金魚草をすくい上げ、鬼灯は紙の上にそっと置く。
 鉢の中に土を戻し、手を洗い、外へ行きましょうと私を連れ出しました。

「どうするの? 埋めるの?」
「肥料もエサも十分あげてたんでしょう? だったらおそらく日光でしょうね。光合成をどう補うかが室内用の課題ですね」
「死んでのないの? その金魚草」
「死というのはありません。ここはすでに死後の世界ですから」

 広間に出て外に向かう鬼灯は、庭に植わっている金魚草の群れの前にしゃがむと土の中にチビ金魚草の根を埋めました。つい今まで静かだった庭の金魚草たちはその時突然おぎゃあおぎゃあと騒ぎだし、私はまた責められている気に陥ったのです。

「これでしばらく様子を見ましょう。他の金魚草は問題ありませんか」
「うん」
「耐性があるものとないものがありますね。それも研究するとしましょう。もう一・二本持っていきますか」
「いい、いらない……」
「ここでやめたら完成しません」
「もう嫌。部屋の中にいたら死んじゃうもの」
「だから死にませんてば」

 それでも嫌……。
 私はくったりと倒れているチビ金魚草の前に座りこみ、頑なに首を振りました。
 もうあんな思いは嫌だったのです。生き物がだんだんと力を失っていく、最後の力をも失う……最期。

「形あるものはいつかは壊れます。命あるものもいつかは死にます」
「分かってる」
「品質改良に失敗はつきものです。それを繰り返しいずれ丈夫な金魚草が出来るんです。大丈夫ですよ、地獄のものは何でもそう簡単に壊れません」
「だからって死んじゃっていいわけないもの。この子だってこうして外にいればちゃんと元気でいられるんでしょう。部屋の中に連れてったりしなければ」
「命を失くしたとしても、それが寿命というものです。生を全うするも、病死も事故死も、災害だろうと、老いていようと若かろうとすべてそれがその者の寿命です。この世は何千年も前から生死を繰り返して回っているんです」
「……」

 当然、死というものを私は知っています。
 夏の終わりを待たずに金魚が死んでいた時も、近所のおばあちゃんが突然いなくなった時も、道路で犬が横たわって動かなくなっているのを見た時も、それが死だということくらい私は分かっていました。……でもそれを当然だと、仕方のないことだと、すぐに片づけられるほど、私にそれに対する耐性はありませんでした。気がつけばここにいた私には死に直面した記憶などないけど、お父さんやお母さんが今頃どんな思いでいるのかと考えると、私は死に直面するよりもっと、涙に呑まれそうになるのです。

「もう戻りますよさん」
「……」
さん?」

 死後の世界にいる私は、現世ではどうなっているのだろう。
 娘があまりに突然にいなくなってしまった両親は、今頃どんな風に過ごしているのだろう。
 悲しんでいる? 悔やんでいる? 泣いている?

「鬼灯には……分からないのよ、死んだことなんてないんだから」
「……」
「死ぬことがないから、死ぬっていうことがどういうことなのか、分からないのよ。周りの誰も死なないから、大事な人が死んじゃう……悲しさや苦しさが、何も分からないのよ。こんな世界にいるから……死なない世界にいるから……。私はそんなの嫌、そんな人になるくらいなら……死んでまでこんなところで生きていたくない」

 私はすっくと立ち上がり、鬼灯の横を通り過ぎ部屋へ戻っていきました。
 ひたひたと涙が止まらないから顔も上げられず、その時の鬼灯がどんな顔をしていたのかも、どんな思いを宿していたのかも、その時の私には分からなかったのでした。

 その夜、食事をとることも本を読むことも出来なくなった私は、ふとんをかぶり静かに泣き続けました。
 なんだか、心の裏側に追いやっていたものが突然襲いかかってきたような。この部屋に居つき、この暮らしに馴染み、この鬼と共に過ごすことに違和感を失くし、現世のことも両親のことも忘れかけていたことが……とてもショックだったのです。

 ただ……私は悲しいばかりではなく、怖かったのです。
 私がいなくなって、父や母が悲しんでいる……。
 本当に、悲しんでいる……?

 覆い被さった厚手のふとん上から、ポンポンと響いてくる振動も、この時ばかりは何の慰めにもなってはくれませんでした。


「― いくの?」
「行ってきます」
「……オニ」
「鬼です」

 翌朝、鬼灯はいつもと変わらず早くに部屋を出ていきました。
 一晩経って少しは落ちついたにせよ、まだ悲しさだか寂しさだかを引きずる私を置いて、鬼灯は何のためらいも無くいつも通り部屋を出ていきました。この鉄仮面の鬼め。
 鬼灯は、部屋にあった金魚草をすべて外に持っていきました。私が嫌だと言ったから。
 そうしてまた私は本を読むしかない時間を一人で過ごすことになりました。けれども、ちっとも進みません。どうにも内容が頭に入ってこず、にょろにょろと蛇のような文字を追っているだけで、パタンと本を閉じました。

 すると、コンコンとあの厳重な扉からノック音が響いてきたのです。
 この扉が叩かれることなんて今まで一度も無く、私は恐る恐る扉を警戒しました。
 ノック音が数回繰り返された後、扉は静かにガチャリと開く。
 まるで鬼灯が戻ってくる時と同じく、扉は軽く開きました。

「こんにちは。さんといったかしら」
「は、はい……?」

 扉の向こうは部屋の中よりも明るく、その光の中から姿を見せたのは薄紅色の着物を着た女の方でした。髪が異国の人みたく明るく、白い肌に目の上の青や口唇の赤が綺麗に映え、声もしっとりと優しげな、艶やかな着物がとてもよくお似合いの、ため息が出るほどお綺麗な人でした。けど、まぁ……角があるからには、この人も鬼なのだろうけれど。

「お腹空いてない? 一緒にお昼食べに行きましょう」
「え……でも、私、ここから出るなって……」
「大丈夫、鬼灯様に頼まれたの」
「鬼灯に?」

 鬼灯の名前が出てパッと気を緩ませた私に、その人は一枚の紙を差し出しました。
 開いてみるとそこには筆の流麗な文字で「その方はお香さんといいます。優しい方なので安心してください」という文字と一緒に鬼灯の印がありました。

「食堂は初めて?」
「はい、お庭以外に行くのは初めてで……」
「それは大変ね、部屋の中に籠りきりじゃ気が滅入ってしまうでしょうに」
「そうなんです、ほんと。急に連れてこられて、もう何日も、ここがどんな所かも分からないのに意味も無く閉じ込められて、会う人といえばあの鬼だけで……もう最低です」
「随分溜まってるわねぇ」

 久しぶりの鬼灯以外の人との会話。それも女の人とあって気持ちが緩んだ私は、今朝方まで泣きじゃくっていたのも忘れて良く口が動きました。お香さんはよほど鬱憤の溜まった私の思いの丈をふふと軽く笑って聞いてくれる、その笑顔がまた美しい大人の女性でした。
 ただ……さっきの鬼灯の手紙には追記があり、「その方の帯に巻きついている蛇は本物です。逃げようとすれば一飲みにされますよ」と恐ろしいことが書いてあり、私はお香さんの後をついて歩きながらもこちらをジッと見つめてくる蛇に恐れビクビクと距離を取ったのでした。

 お香さんが連れていってくれた食堂は、たくさんの鬼や動物や奇妙な姿をした異形がたくさん集まりごはんを食べていました。込み合う食堂で、前を歩くお香さんはすれ違う人皆に声をかけられては気立て良く返し、その後を金魚のフンのようについて歩く私を鬼たちは好奇な目でマジマジと見下ろしました。奇妙なのはそっちだと言ってやりたいところですが、そんなことは口が裂けても言えません。

「鬼灯はここにもいないんですか?」
「鬼灯様は今はこことは別の場所に行っているから。だから私にさんのお相手を頼んだのよ」
「それは前にも……今は別の場所で仕事をしてるって。でも私にはちゃんと説明してくれなくて、言っても分からないでしょって感じ悪い言い方するんです。そりゃ分からないけどそんな言い方しなくてもいいと思いません?」
「こんな気遣いをするくらいだから、十分お優しいと思うけど?」
「ちっとも優しくなんてありません。怖い眼で睨んでくるし、ああしろこうしろって命令ばかりするし、ちょっと逃げようとすると金棒出してくるんですよ、酷いでしょう? どうせ今回だって、自分じゃどうしたらいいか分からないから人に押し付けたのです。こんな所に連れてきたのは鬼灯なのに、誘拐犯ですよ、なのにあんな偉そうにして、本当、あの鬼が閻魔大王に裁かれればいいんです」
「……」

 思わず興奮してプンプン怒る私に、お茶を入れてきてくれたお香さんは向かいに腰を下ろしお茶を一口含み、きっとまたその綺麗な口でフフと笑うんだろうなと思ったけど、湯呑みの手を下げたお香さんの赤い口唇に笑みはなく、正面からジッと私を見つめました。

「な、なんです……?」

 なんだろう……こんなに綺麗な人なのに、笑っていないと、不思議と怖くも感じる。柔らかく弧を描いていた目がまるで帯に巻きついている蛇のように冷やかになり、ふっくらと紅の乗った口唇は食べられてしまうんじゃないかと冷気が過ぎるほど妖艶に見え。

「何も知らないのね」
「え?」

 ポツリと小さく呟き、けれどもすぐにお香さんはニコリと口元を綻ばせ「頂きましょう」と箸を持った。動き出さない私にどうぞと薦め、私は箸を取り何日振りかもしれない人の作ったおいしいごはんを口に運び、お香さんは先程一瞬覗いた表情など夢だったかのように楽しく明るくおしゃべりしてくれて、お昼の後には遊技場や図書館なども案内してくれました。けれどもお香さんも忙しいらしく、お昼休憩が終わるとすぐに私を部屋に送り届け、また遊びましょうねと去っていってしまったのでした。

 また鬼灯の部屋に舞い戻った私は、心が軽くなったのか、本を手に取ると読み進めることが出来ました。蛇のようだった文字はきちんと文面に見え、だんだん読むスピードも速くなっていき、最初は訳の分からなかった薬草も少しずつ覚え、部屋の薬棚から現物を探して煎じてみたり、その苦みを実体験してみたり、古い物語に熱中したり、恐怖体験百選と題された現世の話に何が怖いのかと首を傾げたり……、鬼の居ぬ間の時間を一人過ごすことが出来たのでした。

 それからまた幾らかの時間が過ぎた頃、扉が開き明かりが射し込みました。
 これまで以上にいない時間が長かったなと思い、本を読むことにもほとほと飽きていた私はフラフラと入ってきた鬼灯に駆け寄ったのです。

「ほおず、き……うわ、うわわ!」

 長かったねと一言口をつこうとした私に、足取り悪い鬼灯は覆い被さるように倒れてきて、重さを抱えきれなかった私は支えようとしたまま潰されるように倒れ、ぐったりと力なく覆い被さってくる鬼灯を何とか押し離しました。

「ちょっと大丈夫、鬼灯……」

 今回はこれまでのいつより長く居なかったからには相当疲弊しているんだろう……なんて心配したのも束の間、もたれてくる鬼灯から漂ってきたのはお酒の匂い。

「酔っ払ってるの? あなた仕事じゃなかったの?」

 私を頭の上から潰す勢いでもたれかかってくる鬼灯は、どれだけ酔っているのか、んーんーと濁った唸り声を絞り出すばかりでまともな言葉など返ってはきません。話すことも自分で立ち上がることも拒否して、まるでお正月のお父さんみたいにへべれけになった鬼灯はずるずると床にうなだれていきました。

「もう……人の気もしらないで」

 怒鳴ってごめんなさいと、酷いことを言ってごめんなさいと、言おうと思ったのに。
 帯のように巻きつき眠ってしまった鬼灯は、真っ赤な顔で腹の底から深く息を吐きだした。酒臭い。

さん……」
「なに?」

 そのまま眠ってしまうかと思いきや、気だるく体を動かし懐に手を入れた鬼灯は、取り出したものを私に差し出しました。それは大きな桃でした。白とピンクが綺麗に織り混ざった、お酒の匂いも払いのけるほど甘い豊潤な香りを発した、桃。
 それを受け取ると鬼灯は今度こそバタリと手を倒し、私の上でぐぅぐぅと寝息をたて始めました。まったく……誰がこの巨体を布団まで運ぶというのか。呼吸で隆起する着物の背中をバシンと叩くも微動だにしません。
 鬼灯を膝の上にほったらかしたまま、私は大きな桃の香りをすぅと吸い込みました。十分に熟している桃は簡単に皮が剥がれ、中からたっぷりの水密糖が零れ落ち、指から手へとしたたりゆく蜜をぺろりと舐めました。

「あまい……」

 口内に広がる甘美な味が喉の奥へと流れ落ち、まるで胸がふっくらと満ちるようでした。
 ごうごうと激しい寝息の鬼灯は相変わらず色の悪い疲労感たっぷりの顔をしていましたが、私は少しずつこの鉄仮面にも色を感じ取れるようになっていたので、どこか晴れやかにも見えました。
 鬼灯がベロベロに酔っ払って帰ってくることも、お土産なんて持って帰ってくることも、初めての夜でした。