二日酔いには黄連湯がよく効きます。
消化不良や胸やけ、胃炎や胃腸炎を鎮静し、吐き気、下痢、食欲不振などの症状も緩和します。
黄連湯の構成生薬は黄連、人参、桂皮、半夏、甘草、大棗、乾姜の七種。
「オウレン……はこれか。あと、ニンジン。と、ケイヒ……ケイヒ……、あった」
確か漢方の煎じ薬の本の中に二日酔いに効く薬の欄があったなと思い出した私は、本を探して薬を煎じようと思い立ちました。昨夜、でろんでろんに酔っ払って帰ってきた鬼灯は私の膝の上でグーグー眠ってしまい、鬼灯が手土産に持ってきた桃を食べ終えた私は、あの巨体をふとんへと引きずっていき何とか寝かせたのです。そして今朝、私が目を覚ましても鬼灯は人相の悪い顔で眠ったままでしたが、きっと起きたら頭が痛いだの胃が痛いだの言うのではないかと思ったのです。私の父がそうだったから。
二日酔いに効くという漢方を見つけ、私は薬棚の中からその生薬を探しました。ずらりと規則正しく並んでいる真四角の引き出しには中身が書かれた紙が貼ってあり、それを本に書いてある生薬の名前と見比べて探し当てる。乾燥し細かく刻まれた生薬を皿に取り、次の生薬を探す。
「ハンナツ……? ハンナツ、ハンナツ……」
「それは、ハンゲと読みます」
「はっ?」
漢字ばかりの生薬の名前とにらめっこしていた私は、突然声をかけられて驚いた。振り返ると、いつの間にか起きていた鬼灯がピンとはねた髪と険しい目つきのままに頬杖をつき、こちらを眺めていた。
「な、なによ、起きたなら起きたって言ってよ」
「黄連湯作ってるんですか」
「ん……二日酔いに効くって載ってたから」
のそりとふとんから下りる鬼灯は、こちらに近づいてくると隣に立ちぐぐぐと背を丸めて私の腕の中の本を覗きこんだ。ほのかにお酒臭い。
「これは?」
「アマクサ」
「カンゾウです。これは?」
「……オオ、ナツメ?」
「タイソウです。最後のは先に言ってしまいますがカンキョウです」
まるで馬鹿にした目つきで鬼灯が見下ろしてくるけど、何も言い返すことが出来ずにぐぅと息を呑まされる。
「なんか……普通ね」
「普通?」
「もっとよろよろしたり吐いたりするじゃない、二日酔いの人って」
「二日酔いなんてありませんよ。なったことがありません」
「あんなに酔っ払ってたのに?」
「あのくらいの量じゃ普段なら酔いもしないんですがね、疲れが溜まってるのか、帰り道は足がフラついてました。不覚です」
「……いい気なものよね。人が悲しんでた時に」
「……ああ、そうでしたね」
そうでしたね?
まるでもう遠い日の出来事のように言い放った鬼灯を本でバシッと殴ってやったのですが、もちろんこの鬼はビクともしない。
「今度一番の金魚草をお造りにしてご馳走しますから機嫌直してください」
「この人でなし!」
「人じゃありません」
閉じた本を開かせて、鬼灯は残りの生薬を引き出しから揃えていく。
二日酔いではないけど、どうせだから作り方を学びなさいと、結局黄連湯を作ることになった。
細かく砕かれた生薬を皿に煎じて、じっくりと弱火で煮ていく。
先人たちの研究の結晶だ。効果はあるのだろうけれど、どうにも受け付けられない匂いが部屋中に立ちこめた。
「おいしい?」
「良薬は口に苦しですよ」
「お父さんも二日酔いの時は苦い薬飲んでたわ。お酒が好きでね、休みの日は昼間からずっと飲んでたくらいよ」
「気が合いそうです」
「どうして男の人って記憶を失くすほどお酒を飲むのかしらね。その度にお母様はいつも怒っていたわ」
「母親のことはお母様と呼ぶんですね」
「え?」
「父親はお父さんなのに」
「……」
テーブルの向こう側で鬼灯がズズズと黄連湯をすする。
ゴクリ喉を鳴らした鬼灯の目が私に向くより先に、私は使った道具を持って水場へ向かった。
「飲んで帰ってくるなんて、今日は休みなの?」
「仕事はありませんが、昼休憩の時間になったら閻魔大王に挨拶に行きます」
「閻魔大王に?」
道具を水につけ薬の残り粉を流し、鬼灯に振り返る。
鬼灯は私が作った黄連湯を瓶に流し入れていた。
「今日から通常業務に戻るんです」
「通常業務って……閻魔大王の補佐っていう?」
「そうです。もうこれまでのように長くここを空けることも減るでしょう。貴方も外へ出してあげますよ」
「え!?」
道具を洗おうとしていた手を止めると、器がガチャンと水桶の中に落ちた。
器が傷ついたかもしれないけど、私はそんなことよりも鬼灯に駆け寄り、鬼灯のクマの酷い顔を覗きこんだ。
「外って、どういうこと?」
「長い間ご苦労様でした。監禁生活も終わりです」
「でも、私まだ本を全部読んでないわ」
「読みたければ読み続けてください。けど貴方にも私の仕事の手伝いをしてもらいますから忙しくなりますよ」
「え? 家に帰れるんじゃないの?」
「何を言ってるんです。貴方はこれから立派な獄卒になるんですよ。私が徹底的に教育してさしあげます」
なんだそれ!
私のほのかな期待は花と散ったが、それでも私の心は高揚しました。
だって、外に出れるんだもの。こんな狭い部屋でずっとひとりで鬼灯の帰りをジッと待つだけの生活からようやく抜け出せる。それだけで私は両手を振り上げ万歳するほどに嬉しかったのです。
お昼になると鬼灯は私を連れて閻魔大王様の元へ向かいました。
ただ今戻りましたと深々と頭を下げる鬼灯に、おかえり〜と大王様は目尻を下げておられました。私も大王様は最初にお目通しした時以来だったので、相変わらず大きいなとおののきながら、鬼灯に頭を下げさせられました。
「さんは当初の予定通り、私の仕事を手伝って頂きます。といってもほとんどが書類仕事なので、私に届く書類を整理したり、私の留守中に書類や伝言を預かってくれればいいだけです」
「なんだ、そんなこと。お店番みたいね」
「ええ、お得意でしょう。最初はそんなところから始めましょう」
私の家の生業は帝都・東京でも老舗の呉服屋でしたので、店番や帳簿の管理などは多少手伝っていました。本を読み続けるだけの生活よりずっと楽しいし、何より、あの忙しい鬼灯のこと……四六時中私を見張っていることなんて出来ないでしょうから、もしかしたらここから抜け出す機会が訪れるかもしれません。なんだか私の真っ暗だった行く先に光明が射すようで、私はウフウフと笑いが止まりませんでした。
そうして突然に監禁生活を終えた私は、鬼灯を手伝うことになったのです。
鬼灯の机の後方にひとつ机をもらい、鬼灯に届く手紙や報告書に事前に目を通す役目を担いました。長い読書のおかげで、難しい言葉も文体も難なく読みこなすことが出来ましたし、ひっきりなしにここを訪れる獄卒たちへの対応は、ずっと鬼灯しか話し相手のいなかった私にはとても楽しいものでした。硬い棒を手にパンパンしている鬼灯の教育はまさに鬼のようでしたけど。
「かわいいわねこの帽子」
「キャスケットといいます」
「外国のもの? 素敵、私外国のものって好きよ」
「貴方のご実家は老舗の呉服屋でしょうに」
「そーなの。西洋のものがたくさん入ってくるようになって、経営難でお父さんが首吊りそうだったわ」
「自殺はお勧めしませんね。後にもっと苦労しますよ」
「日本のものも好きよ。でも新しいものってドキドキするじゃない。日本の伝統とまるで違って面白いわ」
「前向きでよろしい」
鬼灯は私に大きな帽子を被せました。
鬼たち一人ひとりに私が人間であることを説明するのは手間なのだそうです。
そうして私は鬼灯の仕事を手伝い始め、最初は隙を見て外に出てやろうと目論んでいたのですが……まさか、そんな暇は欠片もありませんでした。目も回る忙しさとはよくいったもので、本当に忙しい時は本当に目が回るのです。不慣れで段取りが悪いということももちろんありましょうが、朝起きると翌朝また起きる時まで記憶が飛んでいるのであります。逃げるどころではありません。逃げる余力もありません。そうして尽きることのない時間はぐるぐる回りながら流れに流れていったのです。
私が鬼灯の日程を管理するようになって、鬼灯が如何に日々多忙かということと、鬼灯のここでの立場がどんなに重役かということを私は目の当たりにしました。まさに分刻みのスケジュール。閻魔大王の裁判中はずっとつきっきりで、その合間に地獄中の視察に行っては獄卒たちからの報告をすべて記録し、閻魔大王への報告書を作成して、予算の管理をこなし、新しく入ってくる獄卒の面接官まで担当し、全獄卒の手本として聞きわけのない亡者を折檻しまくっておりました。
「楽しそうね……鬼灯」
「ホームベースですからね。ここでの仕事は忙しいですが私にはそれこそ極楽です。亡者たちを全力でいたぶれるんです、楽しくて笑いが止まりませんよ」
「立派な鬼だこと……」
「貴方は先に昼休憩に行っていいですよ」
よれよれになる私とは正反対に、忙しくとも鬼灯は嬉々として見えました。
時計を覗くともうお昼の時間で、私は一旦手を止め先に食堂へ向かうことにしました。
「金魚草の水やりどうする?」
「お願いします。これ終わらせたいですし」
「じゃあお先に」
「どうぞ」
報告書を書いている鬼灯を残し私は部屋を出ていった。
閻魔大王様の広間を通り過ぎ、天井までそびえる大きな扉の前まで行くと、近くにいた鬼が親切にも扉を開けてくれました。鬼灯の部屋の扉は鍵もついていないのに押しても引いても開かないと思っていたけど、何単純なこと、ただあの扉は重すぎて人間の力では開かないだけのことでした。ここの扉はどれも頑丈で重く、私は開けられないのです。それ故に、ここの鬼たちは私が通ると率先して扉を開けてくれるのです。鬼の割に人情味がある、どの鬼も親切でした。
外に出て欄干へ近づいていくと、ざわざわと騒がしい赤い金魚たちが見えてきました。金魚草の世話だけは多忙な鬼灯の唯一の癒しでもあるので、私が世話をするかしないかはその時によって違うのです。穴の空いたバケツを釣り竿に吊り下げて、そこに水道から延びたホースの先を入れて水を撒きます。ビチビチと水を得た魚は緑の葉っぱの上で尾ひれをなびかせふわゆらふわゆら喜んでいます。この子たちが何とも愛らしく見えてきた私は、もうすっかり金魚草の虜となっていました。重く溜まった疲労も癒されます。
そう……気持ち悪くも可愛らしい金魚草たちを眺めていた時でした。
私は唐突に、気付いてしまったのです。
目が回る忙しさにも少しずつ慣れ、こうして一人で外にまで出られるほどに信頼され、昼休憩のおかげで獄卒達はみんな食堂に行っており、見渡す限り誰の姿も無く、鬼灯はまだ仕事中……。これはまさに、好機です。最初にして最後かもしれない、この地獄から逃げだす好機だ! と私はバッと立ち上がりました。
ガランと釣り竿を放りだし、私は金魚草の群れの間を突き進んでいきました。
花壇を抜けて土肌の地面を駆けていき、盛り上がっている芝生を昇り閻魔殿を囲んでいる塀添いを走り門へ近付いていきました。やっと、やっと外に出れる時が来た。鬼とも地獄ともさよならをして、元の世界へ。現世へと。
「……」
そうして門に行き着き、息を切らしながらその先を見た。
道が延々どこかへ続いており、その先がどこに繋がっているのかは分かりませんでしたが、この地獄より酷い所など無いと思いました。だって地獄なのだから。
門は開いています。外に出られるのです。
鬼は何人かいますが、私を引きとめる者は誰もいません。
なのに。
門の敷居の手前で、私は足の一歩も踏み出せませんでした。
見渡す限りどこまでも続く乾いた大地。唸り声を上げている赤黒い空。一度踏み入れば二度と出てこれない針の山。延々と果てまで落ちていきそうな深い谷。砂埃の舞う閑散とした風。光の射さない世界。
ここから駆け出せばどこかに行きつけるのに。どこだろうと、こんな寂しい所よりずっといいだろうに。
「さん」
肌をこする乾いた風が門の外から吹き込んで、その行方に私は振り向いた。
ずっと遠くの欄干から鬼灯が私を見下ろしていた。
「食事済ませたんですか?」
「……」
「昼休憩終わってしまいますよ」
血の通っていないような冷えた細い目が私を見ていました。
温かみも感じない堅い頬。亡者を叱咤する厳しい口。金棒を抱える強靭な腕。
極悪で乱暴で鬼畜で冷徹な、遠くても確かにそこにいる鬼の元へ、私は駆けていった。
鬼灯の方には足は動いたのでした。
……それからも過ぎ去るように多忙な日々は続きました。
閻魔大王様の補佐をする鬼灯の仕事を手伝いながら、私は目の前の鬼灯の大きな背中の、赤い鬼灯の紋をよく見ていました。
「さん」
「……」
「さん?」
書類整理や応接、雑用や薬棚の整理や金魚草の世話。
日々は永久に尽きない砂時計のように過ぎていきました。
朝起きて、ごはんを食べて、仕事をして、たまに息抜きをして、またごはんを食べて、床について夢を見る。
「……」
その生活は、現世にいた頃と何も変わりない。
生活の場所が変わっても、私は変わりないようでした。
「失礼します。あれ、鬼灯様もうお帰りですか? 判を貰いたいのですが」
コンコンと仕事部屋を訪れた鬼が、扉を開けてすぐに鬼灯と鉢合わせた。
「机に置いておいてください。コレを寝かせたらすぐ戻ります」
「ああ、はは。分かりました」
鬼灯は一度背中を見せると、書類を机に置いた鬼と一緒に部屋を出ました。
忙しい鬼灯の背中を見ていたはずの私は、机の上でいつの間にか寝落ちてしまっていたのでした。
鬼灯は私を背負い、声を潜めて。振動少なく歩き。部屋に運び。床に下ろし。ふとんをかぶせ。
「……」
硬い大きな手で、目尻に流れた私の涙を拭った。
寂しさは、もうそんなに感じることはありませんでした。
金魚草の時みたく悲しくも、怖い夢に蝕まれたわけでもありません。
ただ、門前に立ったあの時、私は悟ったのです。
私はもう現世には戻れぬのだと。
そこにはもう、私の居場所はないのだと。