蒸し暑い夏の夜は寝苦しくもありましょう。
硬い綿の詰まった布団は重く、風の通らない部屋は息苦しく。
「あつい……おもい……」
うーん、うーん、と自分の濁った唸り声で目を覚ますと、そこはいつもの部屋。一体全体ここでどのくらい昼夜を越したか分かりませんが、この部屋が暑くも寒くもないことも、布団が重くないことも当然私は分かっているはずで。そう、この苦しい暑さと重さは、言わずもがな。
「もう……鬼灯重い!」
背中から覆い被さっている巨体を押しのけると、背後でごろんと鬼灯は仰向けに転がりましたが、目を覚ましもせずに寝息を立て続けていました。昨夜も私は先に仕事を終わらせここに戻ってきて床に就いたので、鬼灯が何時に仕事を終わらせたのかは知りもしませんが、おそらく夜更けに戻ってきた鬼灯は私の隣に倒れるように寝転がりこうして熟睡に落ちたのでしょう。いつまで経っても忙しいばかりの鬼です。
目覚めた私は熱いお茶を淹れてホッと息を吐き出しました。
ゆっくり身体を起こした所で、顔を洗って着替え、軽く部屋を片付け、朝餉の用意を始めます。散らかった着物を集めて洗濯場へ向かい、足袋や肌着を樽の中で洗い、帯と打ち掛けも久々に洗うかと水にジャブジャブと沈めました。
「おはようございます、さん」
「おはようございます」
「鬼灯様のお着物ですか?」
「ええ、大きくて大変。腕が痛くなるもの」
「ふふ、そんな思いをしても手洗いなさるなんて、愛情を感じますわね」
「そんな情ありませんよ! こう、日頃の恨み辛みを込めて押し洗ってやると汚れもスッキリ落ちるのです!」
「またそんな御冗談を」
洗濯場で会った鬼のご婦人はオホホと笑いながら洗濯カゴを持って奥へ行きました。
そういえばよくあそこに鬼さんたちが入っていくけど何があるのかしら。不思議に思った私は濡れた手を拭いながらそのご婦人を追いかけ、ひょいと奥の部屋を覗きました。
そこで私は、目玉が飛び出るほど目を見張り、腰を抜かすほど驚いたのです。
「鬼灯! 鬼灯ー!」
バタバタと部屋に舞い戻り扉を開けると、布団の上で目覚めていた鬼灯がガシガシと寝ぐせの頭を掻いて振り向きました。朝っぱらから煩いと言わんばかりの人相の悪い顔で私を見上げ、多少枯れた声で気だるげになんですかと返すのです。
「いま、今すごいものを見た! こんな箱みたいな機械でね、勝手に水が出てくるのよ! それでね、中に洗濯ものを入れるとね、勝手にぐるぐる回って洗い始めるのよ!」
「……」
「それだけじゃないの! しばらくすると勝手に水が引いていってね、汚れた水が吐き出されるのよ! それだけじゃないの、空っぽの中でくるくる回ってたら乾いちゃうのよ! 何アレ!」
「ただの全自動洗濯機ですよ」
「ぜ、ぜんじどう? せんたくき!?」
「そういえば貴方、大正時代の人でしたね。初代三種の神器すら知らない世代……。ちなみにこれは何か分かりますか?」
「何、コレ?」
眠たそうにゆっくりと、鬼灯は枕元に置いていた四角いものを手に取り私に差し出したので、私はそれを受け取りまじまじと見下ろしました。何やら四角い、ツヤツヤした、いつからか鬼灯がよく持ち歩いている物だけど、私にはそれが何なのかは分からずに「時計かな? でかくて邪魔だな」くらいに思っていました。
開いてみてくださいと鬼灯が言うままに、その四角い物を開いてみると、ぱっくりと二つに割れるのかと思いきや、それは端がくっついたまま本のように開き、中には1・2・3・・・と数字が並んでいました。
「何これ?」
「携帯電話です」
「で、電話? どこが?」
「そのボタンを押すと電話がかけられるんですよ。今や現世ではコードレスなんて当たり前です。というか、貴方これまでずっと洗濯ものを手洗いしていたんですか? 樽と洗濯板で?」
「だ、だってあんなの、知らなかったもの!」
何か、ものすごく馬鹿にされているけど、私は鬼灯の仕事を手伝うようになってからというもの多忙は極まりなく、日々は目まぐるしく過ぎ去るものだから、現世はおろか周囲の鬼たちの変化にさえ疎かったのでした。だって、一体だれがあの大変な洗ってすすいでを勝手にやってくれると思いますか。天気のいい日に干さなければいまいち湿気が残る洗濯ものが、どうして箱の中でぐるぐると回って乾くと思いますか。
「まぁ現世の科学の発展は、特に近年は目を見張るものがありますからね。ちょっと目を離せばすぐについていけなくなります。しかし時代が変われば犯罪も変わりますから、我々鬼は現世の情勢には敏感ですよ。ちなみに大正時代はとっくに終わってます」
「ええ! 天皇様亡くなられたの!?」
「とっくです。大正はものの数年で終わり、その後は昭和、今では平成と年号を変えています」
「へいせい!?」
その聞き慣れないへんてこな言葉たちに、私は目を回しそうでした。
忙しさにかまけていたら、思いのほか時間は流れ過ぎていたようで、言われてみれば周囲は見知らぬ機械が充実し、鬼たちの誰もがそれらに素早く順応して楽しんでさえいました。私も生前は流行に敏感で、外国のものや新しいものには真っ先に飛び付く性質だったというのに、知らぬ間に時代遅れも甚だしい人間となっていたのです。なんということでしょう。
「知らなかった。でもすごいわね、何でも勝手に出来ちゃうのね」
「今じゃ洗濯も風呂焚きも皿洗いさえも自動で出来ますが、必ずしも良い結果ばかりではありませんよ。便利になるということは、人間が動かなくてもよくなっていくということです。楽を覚えると人間は堕落していくものですよ」
「いいじゃない。洗濯ってすごく大変なのよ。手も荒れるし」
ほら、と鬼灯に私の荒れた指先を見せると、立ち上がった鬼灯は棚から小さな壺を手に取り戻ってきて、また布団の上に座ると私を手招き座らせました。そしてその壺から塗り薬を指先に取り、私の乾いた手にぬりぬりとすり込み始めたのです。
「私は貴方が着物を手洗いするのはいいことだと思いますがね。乾燥も、やはり陽の光で乾かすほうが心地よいですし」
「それはそうよね。お布団だってお日様の匂いがするほうが気持ちよく眠れるものね」
「ええ。だから貴方は今のままで良いのですよ」
「嫌よ、あんな便利なものがあるのに使わないなんてそれこそ勿体ないわ。ねぇ、私にもその電話、頂戴」
「必要ありません」
「いいじゃない、頂戴よ!」
「貴方はいつも私の傍にいるでしょう」
「ケチ!」
暴れてもこの鬼の力の前では簡単に押さえつけられ、もういいわと離れていこうとしても強い力で引き止められる。私がか弱き人間であることをいいことに、鬼灯は生かすも殺すもその手中であることを愉しんでいるかのように私を見下すのです。鬼というのは本当に、何と性悪なことでしょう。地獄に落ちてしまえばいいのに。ああ、地獄では鬼灯は悦んでしまうでしょうから、天国に行ってしまえばいいんだわ。
「……そういえば、私、天国って行ったことがないわ」
「なんです、突然に」
「行けるのよね、亡者だって中には天国に行く人いるものね?」
「まぁ、そうですが」
「天国ってどんなところ? やっぱり、極楽って感じ?」
「それこそ惰性の極みです。罪も罰も外敵も無く、人々はただのほほんと暮らすだけ。あんなところではものの数日で体が鈍ってカビが生えます。現世の比ではありません」
「鬼の貴方にはそうでも、私には違うかもしれないじゃない。行ってみたいわ、連れていってよ」
「駄目です」
突然……鬼灯は緩やかだった表情をきつく引き締め、刺すように私を見つめた。
その眼は普段から冷ややかではあるけど、その時の鬼灯はそれこそ……鬼という存在そのもののような、臓腑を凍りつかせてしまうかのような、冷酷さと厳しさを放ったのです。
「時間です。仕事に行きますよ」
「はい……」
そうして立ち上がった鬼灯は、声色こそ普段通りにはなったものの、着替えて支度をして仕事部屋へ移動する間も、書類に目を通し閻魔大王の傍に就き部下の教育をする間も、私に振り向きもせずに黙々とこなしていったのでした。
「さん、これの直しをお願いします」
「はい」
「終わったら昼休憩に行っていいですよ」
「え……鬼灯は?」
「私は八寒地獄へ行ってきます。遅くなるので先に行ってください」
「え、じゃあ私も……」
「一人で結構です」
ぴしゃりと言い置いて、鬼灯は出ていってしまった。
な、何だって言うの? 私はそれほど悪いことを言った?
背中の赤提灯の絵柄ばかりを見せる鬼灯に、私は悶々とした疑問を通り越し、ついには沸々と怒りが込み上げてきた。そうでなくともあっちは鬼、力では一切敵わない鬼。睨まれるだけで怖いし機嫌を損ねられるとこっちは生きた心地がしないというのに……!
「もう生きてませんけど!」
「あら、誰が?」
ガシャン、と昼食のおうどんが乗ったお盆を荒々しく机に置くと、すぐ傍で落ち着いた綺麗な声が聞こえて、この声は、と私は怒りを消し振り向きました。そこには思った通り、いつも色彩鮮やかなお着物と艶やかで麗しいお香さんがおうどんを持って微笑んでいました。
「お香さん、お久しぶりです。お元気でした?」
「ええ変わりなく。さんも相変わらずお元気で」
「はい、私は元気です。あ、鬼灯はまだ八寒地獄で仕事を」
「そう。じゃあご一緒していいかしら」
「はい!」
お香さんは私が外に出るようになってからもたまにこうして一緒にごはんを食べたり、仕事上がりにお湯屋へ連れていってくれる。鬼は大きい、怖いという存在でしかなかったけど、前に一度衆合地獄へ連れていってもらった時に会った女獄卒たちはどの方も綺麗で、その中でもお香さんは一番美しく、それでいて官職にも就いているという才色兼備な方で、私はとても尊敬しているのです。
「天国? もちろん行ったことあるけど」
「どんな所なのですか?」
「それはもう綺麗な所よ。私がよく行くのは桃源郷なのだけど、あの世絶景百選にも選ばれている観光名所だしね」
「わぁ、いいなぁ、行ってみたい」
「鬼灯様に連れていって頂いたら? 門をくぐればすぐよ」
「それが、鬼灯はダメだって。それからずっと機嫌悪くなっちゃって……なんなのよ」
「ああ……そうね、鬼灯様は嫌がるかもしれないわね」
「何故ですか?」
「うーん……」
そう、お香さんは困った表情をする。
「お香さんまで、いったい何だというんですか? 天国というからには、悪いことなんて何もないんでしょう?」
「悪いことはないけれど、でもねぇ……。鬼灯様がおっしゃることは聞かないと」
「もう、お香さんまで。ここの方たちはまるで鬼灯が神様みたいに。あんなに無茶苦茶なのに。閻魔大王様にだって酷いですよ鬼灯って」
「それは信頼関係がきちんと成り立っているからよ。鬼灯様は鬼の中では尊敬に値する方だしね。生まれやお育ちが優遇されていたわけでもないのに官職にまで上り詰めて、今や閻魔大王補佐官だもの。とても有能で信頼できる方よ」
「生まれって、鬼灯はいつ生まれたんですか?」
「そうねぇ、もう何千年経つかしら」
「な、何千年!?」
「私も鬼灯様も、元は人間だったのよ。さんと同じ」
「人間? うそ!」
まさか。鬼灯もお香さんも、元は人間だったなんて。
「その……、人だった頃のことは、覚えているのですか?」
「鬼灯様は分からないけど、私はもう。ここでの時間に比べれば、人だった時間はあまりに短かいものだったしね」
死のない地獄で何千年という年月は、一体どれほどのものか私には到底理解できないけれど、鬼灯は今や立派な鬼の中の鬼。人であったことなど、もう今は昔なのだろうか。鬼として生きるうちに、人であった心は消えてなくなってしまったのだろうか。
「どうして、鬼なのかしら」
「え?」
「どうして地獄なのかしら。天国には、いけなかったの?」
「……」
私も、お香さんにはっきりと問いかけたわけではなかったけれど。
おうどんを口に入れるお香さんは、私の問いに答えることはなかった。
「天国、行ってみる?」
「え?」
「私も近々行こうと思っていたの。良いお薬屋さんがあってね、桃源郷に」
「お薬って、お身体どこか悪いのですか?」
「違うわ、生理痛のお薬よ。漢方で生理痛や冷え症なんかに効くお薬をくれるのよ」
「ああ……なんだ、ビックリした」
「どうする?」
「……」
あんなに行きたかったのに、いざ問われると、とても迷った。
天国へ行くなどと言ったら、鬼灯はまたあんな眼をするのだろうか。
またあの眼を見るのは怖かった。
「い、いきます」
「鬼灯様にはお話するの?」
「え……と、話した方が、いいですかね……」
「それはさんが決めることよ。貴方と鬼灯様のことだもの」
「はい……」
違う……、そうではなくて、あの眼を見ると、鬼灯はやっぱり紛れも無く鬼なのだということを、否が応でも思い知らされるから、私はどうしても、怖くなってしまう。どうしたって鬼灯と私は、やっぱり、異なるものだから。
「でも……いきます」
人であった頃のことを、鬼灯は覚えていないのか、話したくないのか。
けれども、人である私には、それは鬼灯との唯一の、共通点のように思え。
分かり合うなど到底無理と知りながら、それでも私は……鬼灯を、鬼灯のことを、知りたいと、思ったのです。