暗がりの地獄の門をくぐり進んでいくと、行く先から光が滲んできました。
抜けたそこは、空、山、森、滝、泉と、一面風光明媚な景色が広がる、まさしく天国。絵に描いたようなその美しさは眼が洗われるようでした。
「すごい、素敵、綺麗! 天国みたい!」
「天国よ」
ふふと後ろで微笑むお香さんの言葉も聞かず、私は美しい野の原を駆け出しました。まるでふわふわと綿帽子の上を駆けているかのような芝の柔らかさ。たわわな木の実。どこからともなく流れてくる花々の甘い香り。地獄に幽閉されて幾ばく。まさかちょっと行けばこんな美しいところがあるなど、これまで知らせずにいた鬼灯を心の底から恨めしく思いました。
「それはそうとさん、鬼灯様がよく許してくださったわね」
「あ……」
「もしかして、黙って出てきたの?」
「はい……」
今日は珍しく休みの鬼灯がまだ寝ているのをいいことに、私はこそこそと身支度を整え部屋から忍び足で抜け出てきたのです。鬼灯はああ見えてちょっとやそっとじゃ起きない性質なので、熟睡している時は多少の物音じゃ目をさましません。私じゃ開けられない重すぎるあの扉も、朝から鬼灯の部屋を訪れるようにお願いしていた鬼さんの力で開き、私はこうしてお香さんと天国へ来ることが出来たのでした。
「でも、きっと大丈夫です。休日の鬼灯なんてヘタしたら一日中寝てますから」
「それはそれで心配ね」
「休日にやることといったら金魚草の世話くらいです。近くにこんな素敵な所があるのに。私なら毎日でも来ちゃいます。ああーステキ! 鬼灯のことなんて忘れて楽しもーっと」
「じゃあ行きましょうか。あっちよ」
美しい景色につられあっちにフラフラこっちにフラフラとする私は、目的地へと歩き出すお香さんを追いかけ緑を踏み締めました。さらさらと流れる川は空の青を綺麗に反映し、道並みに広がる樹木には桃色の果実がたわわに生って、黄色い花々の傍を蝶々がひらひらと飛び交い、白くもふもふしたうさぎが至る所で飛び跳ねている。なんて素敵なところでしょう。右を見ても左を見ても、上を見ても下を見てもここは地獄とは大違いでした。
「ここよ」
「うさぎ漢方……」
行き着いた先は「うさぎ漢方 極楽満月」と看板のかかったお店。
お香さん御用達の漢方薬局、中国神獣の白澤様という方がいるところ。
「御免下さいな」
お香さんが声をかけながら引き戸を開ける。中は椅子と机があり異国の様相で、棚にはたくさんの薬瓶が並び、大きなお鍋が洗って乾かされている。お薬の匂いがするけど鬼灯の部屋の薬とはまた違うような。けれども中には誰もおらず、お香さんはおかしいわねと奥へ入っていきました。
「わ、かわいいーうさぎがほっかむりしてる」
「うさぎより君のほうがずーっとかわいいよ」
お店にいた、頭に布を被ったうさぎがあまりに可愛くて抱き上げた私の肩に、ポンと白い手がおかれ、優しい声がしました。振り返ると私のすぐうしろに、色白な肌に黒髪が映える細目の綺麗な殿方がいらっしゃいました。
「あら白澤様、外にいらっしゃったの」
「お香ちゃん、ひさしぶり。こちらの可愛らしい子は?」
「はじめまして、私、と申します」
私の肩に手を回したままニコニコと優しい笑みを向けるそのお方こそ、中国神獣の白澤様。見た瞬間、その涼しげな眼もとはどこか……鬼灯っぽくも見えましたが、お優しそうな笑みと柔らかな口調は似ても似つきません。
「ちゃんかぁ、名前まで可愛いね。ボクは白澤。困ったことがあったら何でもボクに言ってね、ボクが体の隅々まで診てピッタリのお薬をあげるから。何なら今から診てあげようか」
「は、はぁ……」
どこか鬼灯に……と思ったのも束の間、その方からペラペラと出てくる軽口は鬼灯からは絶対に出てこない甘く軽快なものばかりで、鬼灯とはまさに天と地の差。手を取りすりすり、距離もどんどん縮まって、なんだろう、この柔らかい物腰なのにものすごい押しの強さ……。
「お香ちゃんのとこの新人? 久々に遊びに行っちゃおうかなー」
「いいえ、さんは鬼灯様の助手よ」
「は……?」
ニコニコと笑みを絶やさない、優しく美しい白澤様。
だけどそのお顔が、突然ピタリと動きを止めました。
「鬼灯、の……?」
「はい。鬼灯をご存じなのですか?」
にこやかな笑顔なのに、ピタリと止まられると……何故か肝がヒヤリと冷えるような寒気を感じました。私の手をようやく離し、白澤様はお腹の底から深い深い息を吐きだしながら、突然苦虫を噛んだように口を歪めてしまったのです。
「鬼灯……ああ鬼灯ね……嫌な名前を思い出しちゃったよ。気分台無しだ」
「え?」
「あの鬼の手伝いなんて君も不運だね、どうしてそんなことになったの? あいつなんて人遣い荒いし口より先に手が出るし鬼の形相で命令口調で自分の意見ゴリ押しするし暴力が服着て歩いてるようなものでしょ」
「そう……そうなんです、私なんて初対面で金棒ぶつけられました!」
「でしょー? 人にモノ頼むにも偉そうな態度だし、謝る時でさえ上から目線だし、何かにつけて暴力で解決しようとするし、意味の分からない持論押しつけてくるし」
「そうなんですー! ほんっと冷血で無茶なことばっかり言うんです! 鬼ですあの人は!」
「鬼の中の鬼だよ、冷血で傍若無人な鬼の神様だねアイツは」
そうそうそう! と私と白澤様は手を取り合い何度も頷き合って意気投合しました。まさか、まさかこんなにも同じ意見の方と出会えるなんて! あの鬼灯の真実をこんなにも理解してくださる方がいるだなんて!
「鬼の神様は間違いないけど、そんな言い方したら鬼灯様がお気を悪くするわ」
苦笑いするお香さんが水を差すけれど、あいつがそんなこと気にするわけない! と私と白澤様は声を重ね、さらに心を通わせました。
あの世に来ておよそ百年……ようやく私の心の内を理解してくれる人に出会うことが出来ました。地獄の者はどの鬼も妖怪も一様に鬼灯様鬼灯様と、あいつを神や仏のように崇め奉る人ばかりで、私がどんなに鬼灯の非道や恐怖政治を訴えてもみんなお茶菓子程度にしか受け取ってくれず、私はいつも口惜しい思いをしてきたのです。初めてです、こんなに意気投合できる人。
「ほんっと死んだカメみたいな顔して、女の子に褒め言葉のひとつも言えないんだよアイツは。とんだ朴念仁だよね、男として終わってる。もう枯れちゃってるだよ」
「そうなんです! ん……? そこはべつに……」
「ちょっと長生きしてるくらいで鬼神とか呼ばれちゃって、ボクに比べればあんなの赤ん坊みたいなものなのにさ、まったく可愛げってもんがないよ。そんな顔してアイツものっすごいむっつりスケベだから。真面目一徹な顔して女の子の乳回りなんてピシャリと言い当てちゃうから。鉄仮面の中でどんな下卑たこと考えてるか分かったもんじゃないよ、ちゃんも気をつけなよー」
「いえ、鬼灯は、そういうことは……」
「それでいてすっごい負けず嫌いだから何やかんやイチャモン付けて、ゼッタイ自分の負けを認めない意固地なヤツでさ、自分の都合の悪いことは金棒でへし折るんだよ。ほんっとムカつくヤツだよアイツは」
ケラケラ笑いながら雑言が止まらない白澤様は熱が止まらなくなり、私はだんだんとその勢いについていけなくなってしまいました。
「でも鬼灯は、仕事は、きちんとやってます。毎日寝る時間も惜しんで」
「へーだからあんな絞殺されたヘビみたいな顔になっちゃったんだね、カワイソウにププ。あれじゃ女の子も寄ってこないよ。絶対アイツって本性知られて、なんか思ってたのとちがーうとか言われるタイプだよね。ちゃん、あんなヤツの助手なんてしてないでボクのとこに来なよ、その方が楽しいよー?」
「え……?」
「地獄なんかにずっといたら体にも心にも良くないよ。ここならボクが手取り足取り教えてあげるから、いろいろとね」
また白澤様のお話が方向性を変え、再びその白い手が私の肩に乗りぐっと距離を縮めてきたから、私は思わずぐぐっと仰け反りました。
「ダメよ白澤様。さんは鬼灯様の大事な方なんだから」
「え?」
「な、なに言ってるんですかお香さん、私はちっとも大事にされてなんか!」
「あー、もしかして、君があの時の子?」
白澤様が零した言葉に、私は振り返りました。
「あの時のって……?」
「あれ、違うの? 百年くらい前にアイツが現世から浚ってきて罰くらった件の」
「罰……?」
白澤様、とお香さんが白澤様の口を止める。
私が振り向くとお香さんはさりげに笑って誤魔化した。
「罰って、なんですか?」
「何でもないの、気になさらないで」
「そんな、気になります。教えてください、罰ってなんなんですか?」
問い詰められるお香さんは困り顔。
だけど私はそんなお香さんを想いやることも出来ずさらに詰め寄って、困り果てたお香さんは「きちんと鬼灯様ともお話してね」と言い置いて、話しだした。
「あの世の者が現世の人間を連れ去ってくるなんて本来なら許されることじゃないわ。だから当時、まだ生きてる貴方を地獄に連れてきた鬼灯様は、閻魔大王補佐官の職を辞する話も出たくらいよ。けどあの頃は現世も荒れていて、鬼灯様を外すわけにはいかなくて、懲罰を受けることで落ち着いたの」
「懲罰……?」
「ここ、天国で働くことだよ。あの鬼にとっちゃとんでもない苦役で恥だったろうね。こっちだっていい迷惑だよ、田畑を耕すどころか大地割っちゃうし、芝刈りさせれば焼け野原にしちゃうし、桃はすぐ握り潰すし。あいつが通るだけで花は散って川の水が枯れてくようだったね」
思い出すだけで息苦しくなる白澤様の隣で、私はあの世に来たばかりの頃のことを蘇らせていました。
私が地獄に連れてこられ、鬼灯の部屋に閉じ込められた生活を強いられていた時、鬼灯は毎日仕事に出かけては数日戻らず、帰ってきたかと思えば疲労困憊で顔色悪く眠るだけの生活を繰り返していた。そう、あの時の鬼灯は確かに「別の場所で仕事をしている」と言っていた。今の閻魔大王の補佐をしている様子とはまるで違った。毎日くたくたなのは同じでも、もっと苦しく厳しく、精神的に参っているようだった。
「鬼灯は……どうして、そんなことをしてまで、私を……」
「どんな事情や経緯があったのかは私も聞いていないわ。それこそ、さんと鬼灯様が話すべきことじゃないかしら」
「……」
話す、と言ったって、鬼灯は時折、私が余計なところに踏み込もうとすると、急に私を遠ざけて何事も無かったかのような顔をするのです。別の場所で仕事をしてると話してくれた時も、別の場所って? と聞くと冷たくあしらわれた。天国に行きたいと言ったときだってそう。急に怖い顔をして駄目だと言い聞かせた。
私は鬼灯のそういうところを、決して分かりあえない部分なのだと。私と鬼灯はやはり人と鬼。高く立ちはだかる烈火山のごとく、大地を切り裂く深い谷のごとく、別次元の生き物なのだと、思い知らされた。
「ボクは分からなくもないけどー? ボクだってちゃんとなら地獄の果てだって行っちゃうよー」
「お前は一人で八寒地獄に堕ちろ」
私の肩を明るく抱いた白澤様の背後が突然常闇となり、地を這うようなドス低い声の鬼灯が白澤様の首根っこを鬼の手で掴み上げました。
「まったく……もしかしてと思って来てみれば」
「いででで! やめろ、痛い! 折れる!!」
悶絶する白澤様の後ろ首を握り潰す勢いで掴み上げている鬼灯は、鬼の形相。痛がる白澤様は当然のことながら、私も、お香さんまでもが、噴火前の富士山のごとく目の据わった鬼灯に青褪めました。
パッと白澤様の手を離し、鬼灯はゆっくり私を見下ろす。
どう見ても心の底から怒っているその顔に私は心底プルプル恐れおののきました。
「帰りますよ、さん」
またとんでもないお叱りを受けるかと身を固くする私に鬼灯は手を伸ばす。
けれども鬼灯は、思った以上に痛くない手で私の背を押し出しました。
さっさとお店を出される私は鬼灯に引きずられるように連れ去られていきます。あまりに怖くて涙目でお香さんに助けを求めるも、冷や汗をかいて微笑んでいるお香さんは頑張ってというように手を振って、私と鬼の形相の鬼灯は二人きり、そぐわない天国の道を歩いていったのです。
「驚いた……。あんなお顔の鬼灯様、久しぶりに見たわ」
「何言ってんのお香ちゃん。分かっててあの子連れてきたんでしょ」
「あら」
「どういうつもり? 仲違させてやろうって?」
「まさか。そんなことするわけがないわ。ただ……あんまりあの子が何も知らないから」
「それってヤキモチ?」
あんなに輝いて見えた空も山も森も滝も泉も、隠れてしまったよう。
目の前で揺れている赤提灯がすべての美しい景色を過去にして、私を地獄へ誘導していきます。
「そんなんじゃないわ。ただ、百年なんてあっという間じゃない」
前を歩く草履の音と、カラコロついていく下駄の音。
もう周りの景色なんて見えなくなってしまって、私はただ鬼灯のうしろをついてあるく。
「私たちには、あんまり短すぎるじゃない」
長い長い門までの道を歩いていく重ならない足音。
地獄に行き着く数分前のことでした。