荒れてもないのに夜の海は、静かに狂って襲い来る








10.カオス











ただいまーと玄関をくぐると、そこには女物の靴があった。
誰のだろう、と中に入ってみるけど誰もいなくて、だとすると潤慶の部屋しか思い当たらなくて、階段を上がっていく。


「ユーン?」


まだ落ち込んでるかな、とか多少気にして静かにドアを開けると、目の前のソファに金髪の女の人が寝ていて心底ビビッてこけそうになった。(しかも裸!胸見えてるし!!)何事かと頭の中がすっこ抜けて思わず金髪美女の姿をじっと見つめてしまって、するとその女の人が目を覚ましてガバッと起き上がって「OH!」とか何とか言った。
その人は何か英語でべらべら喋ってたけど何を言ってるのかさっぱりわからなくて、まだ呆然と見つめる私の前で服を着たり化粧を整えたりし始める。

・・・これは、なんだ。
・・・事後ですか。


「あの、えーと・・」
「あ、ワタシあやしくない。ユンのフレンド」
「フレンド・・・。あ、友達」
「はい。ユン今日休んだだから見に来た。そしたら寝てた」
「はぁ・・」


当の潤慶は、窓辺の床でぐーすか寝てる。(ええと、事後では、なさそうだ)


「ユンこないとみんな心配」
「・・・人望あるんだ」
「ジンボ?」
「えっと、人気者?」
「はい、ユン人気者。みんな仲良しだしいっぱい話聞いてくれる」
「へー、なんか、意外」
「ナゼ?ユンいい人、仲間大事にしてくれる。日本来たばかりの子とても助かる」


その人が帰るというから潤慶を起こそうとしたのだけど、一度寝入った潤慶はまず起きなくて、その人は「明日はちゃんと来るように言っておいて」と言い残しそのまま帰っていった。

みんなの前では大人でいい人。(だから身内の前じゃこんな壊れてんのか?)
だとするとなんだ。私は幸か不幸か、身内と定められたのだろうか。うれしいやら、うれしくないやら。
床でぐーぐー子供のように寝入る潤慶の傍に、はさみが落ちてて、私はなんとなくそれを拾って、机の引き出しに入れた。
はさみなんてどの家にも部屋にもあるものだけど、けど、潤慶の傍には置いていたくなかったから。

パタン、と引き出しを閉めて部屋を出て行こうとすると、その音を聞いてか潤慶が目を開けてむくりと起きてしまった。


「あ、おはよ」
「・・・」
「おなかすいてる?もうごはんの時間だし」


寝起きの潤慶に言葉を理解する脳みそがあるのかは激しく疑問だけど、なんとなく言葉を並べ立ててみた。
すると潤慶はやっぱり返事は出来なかったけど、眠そうな目で私をじっと見上げて少しずつ頭を覚まして、


「おかえり、ちゃん」


へらりと笑って私の腰に飛びついてきた。


「ぎゃあっ、ちょっと!」
「ごはんなにー?」
「何ってまだ決めてないけど、何がいい?てか買い物行かなきゃなんもないよ」
「俺も行くー」


解こうとしても解けない潤慶の腕をそのままに、部屋から無理やり出るとずるずると潤慶もついてきた。
英士君から預かってるお金を持って外に出ると、外はもう日が暮れかけていて風が冷たくなっていて、木の葉が舞い散っている。日が照っているときと同じ格好のまま外に出るのはもう寒い季節になっているのか、肌寒かった。


「さむ、潤慶、なんか着てこようよ」
ちゃんすきっ!」
「ぎゃっ」


潤慶もシャツ一枚できっと寒いだろうと思い家に戻ろうとすると、潤慶は後ろからまた抱きついてきてぎゅうっと身体を締め付ける。また性懲りも無く・・・と思ったのだけど、とりあえず朝見たあの、しゅんとした顔はもう見えなくて、私は潤慶の腕をそのままにしてやったのだ。


「歩きにくい潤慶」
「三歩進んで二歩下がる〜」
「意味わかんないし。おかず何にするか決めたの?」
「女体盛り〜」
「アホかっ」


後ろから重たくひっつき回る潤慶とふらふら、暗くなっていく道をスーパーへと歩いていく。
日が沈む速さはなんて早く、見上げれば薄い月が立派に光を宿して見えていた。


「あ」


電信柱の明かりの下にふたつ人影が見えて、「あ」と英士君の声がした。私と潤慶はその声が届くより先にそのふたつの影に気づいていたのだけど、英士君が私たちに気づいて振り返った、その前には、ミチルさんもいた。
私はドキッと、痛く心臓が叩いたのを感じた。


「ふたりでどこ行くの?」
「買い物」
「今から?俺たち今から食べに行くんだけど」
「あ、じゃあ一緒に行こうよー。あっちのパスタ屋行くの。ね」


夜だからかな。明かりの下だからかな。
英士君とミチルさんは、やけに近くに、寄り添って見えた。
明るく誘ってくれるミチルさんの言葉に、何故か私はうまく「うん」の言葉が出なくて、笑ってはいられるのに。
だって、・・・


「いやだよね、ちゃん」


私にまだ後ろから腕を回してる潤慶が、顔の横でにこりと笑いながら言った。


「いやだよねって、かわいくないな」
「あんたのその目がイヤだってさ」


呆れるように言った英士君の言葉すら無視して、潤慶が次々に言葉を吐く。
どんどん日が沈んでいく。暗闇が深くなって、電灯が光を増して、・・・


「優越感隠すのうまいよね。でも心ん中じゃほくそ笑んでんでしょ」
「・・・なにが?」
「だって確かめにきたじゃん、ヨンサと暮らす女がどんな女なのか」


近くの海の、波の音がする。
なのに私たちの周りはシンと冷たくて、痛いくらい静かで、誰の顔からも、笑いが消えて、・・・

やめてよ、潤慶・・・


「・・・そうよ」


ミチルさんの声が、私には夜の海より怖かった。


「気になって、知りたくてしょうがなかった。どんな子なのか、英士がどう思ってるのか」
「ミチル」
ちゃんが英士のことどう思ってるのか、知りたかった」


何か大きくて、重たくて、真っ黒なものが襲ってきて、
息が詰まって、立っていられなくて、


「あ、あたし」


怖い


「先、帰る・・・」


だから逃げ出した。
そこにいられなくて、泣き出したい気持ちだけ抑えて、足早に。

だって、だって、そんなこと、言われなくたって、判ってた。
でも私は・・






さん!」
「・・・」


たたた、と波音の合間に足音が混ざって、その声が私を止めた。
振り返ると英士君が息を切らして、慌ててるような焦ってるような、顔をしてた。


「・・・そんな顔しなくても」
「だって、なんか思いつめた顔していなくなるから・・」
「何もしないよ」
「そう、良かった」
「ちょっと泳ぎに行くだけ」
「は?」


ぽかんと口を開けた英士君の前からまた歩き出して、沿岸沿いの道からコンクリートの階段を下りて砂浜に下りた。


「うわ、やっぱり夜の海って真っ黒」
さん、やめなよ?」
「波も高くないっぽいね」


サンダルをぽいと脱ぎ捨てて、波打ち際に足を踏み込む。ひやっと冷たい海水は夜の風に煽られて身体につんと走って、それでもざざんと打ち寄せる波の奥へ、服も脱いで、後ろでなんか言ってる英士君の声が遠くなるのを感じながら、黒の中へ。


「馬鹿、死ぬよ!そうでなくても肺炎起こすか、風邪引くよ!」
「うん」
「助けないよ!」
「うんっ」


英士君の心配もよそに、海へざぶざぶ潜った。冷たくて、身体に染みて、痛いほど。
波に流されたら逆らうなよ、横に泳げよ。
英士君がまだ叫んでる。そんな遠くに行くわけないのに。


さん、返事しなよ!真っ暗で何も見えないんだよ!」


水面も海の底も、空も、本当にまっくろだ。


っ!!」
「!」


ぶくっ!!・・・
波の下を漂うように浮かんでいたら急に水面に引き出されて息が漏れて、腕を掴まれた。
その先に服を着たままの英士君が、怒ってるような呆れてるような顔で息を切らして、私を見下ろしてた。
そのまま浜に引き上げられて、海の中と変わらず真っ暗な砂の上に濡れた身体を晒すとそりゃあもう、
うっ、寒っ・・・!!


「今、何月だと思ってんのっ」
「9月。もうすぐ10月」
「そう!秋!季節は秋!!次は冬!!」
「でも英士君まで濡れることないのに」
「あのね!」
「あ待って、まだこっち向かないで」


脱ぎ捨てた服を着ても骨まで冷えた身体は氷のようだ。
歯も指もがちがち震えて、まだ怒ってる英士君が「寒いでしょ」というから、「うん」と答えると英士君は大きなため息を吐いて、私の頭をぐいと引き寄せて、あったかいその胸に私を引き寄せた。

・・・あったかい。


「・・・私、人に触られるのってすごい嫌いだった」
「ん?」
「父親に触られるのが一番イヤだった。他人みたいで、すごい寒気して」
「ユンなんてもっと酷かったよ」
「ユン?」
「ここ最近だよ、あんなふうに人に懐いてんのって。カウンセラーの人にも絶対触らせなかったし、まぁそこは2・3回しか行かなかったけど、今だって限られた人にしか触らせないし」


判る。すごい判る。
今だって私、英士君じゃなかったら、指一本だって触れられたくない。

ぐしゅっ!・・
ぶるっと身体の中心からくしゃみが出た。
奥底から冷えてってるのが判る。


「あーあ、早速きたね。早く帰ろ」
「・・・さっき、あたしミチルさんから逃げた」


ズッ・・と鼻水を押さえながら、家へ急ごうとする英士君の隣で、その腕の暖かさにほだされるように、漏れた。


「怖かった。勝ち目ないって思った」


英士君の隣にいるあの人が
あの人の隣にいる英士君が


「英士君が、すき」
「・・・」


言った・・・


「・・・さんは、かわいいと思ってるよ」
「・・・」
「大事だよ」
「・・・最低、兄貴みたい」
「うん。だから俺、さんのこと抱いたら、罪悪感、感じる」


寒い、寒い、寒い。

くろにのまれればよかった。









・・・熱いシャワーを浴びて、身体を温めても骨がドンドン体温を奪っていく。
毛布に包まっても、うずくまるように身体を抱いても、寒い、寒い、寒い。


「ユン」
「なに?」
さん、熱出るかもしれないからあったかくしてやって。暑くしすぎないでね、頭と脇の下冷やして」
「どっか行くの?」
「うん、ちょっとね。頼んだよ」


玄関が開いて、閉まる音が聞こえた。
海沿いのこの家はいろんなところが潮で錆びて、音がよく響く。


っくしゅ!・・・
くしゃみが止まらずにいると背中から光が差し込んで、振り返ると廊下の明かりで、その中に、潤慶がいた。


「・・・英士君は?」
「ミチルのとこ行った。たぶんだけど」
「・・・」


寒い、寒いよ、英士君、寒い・・・


ひたりとフローリングの床に足を滑らせて近づいてくる潤慶は、私の前にしゃがむと、顔を近づけた。
私の目は何を映しているのか、とにかく、潤慶は見えなかった。

潤慶の息が、口に、ふとかかる。
温度を持った口唇が、口先に触れて、柔らかい感触をもたらせた。


―私が、英士君とキスしたとしても、英士君の心は誰かのものなのかな


「英士君て、正直すぎて嫌い」


潤慶の手は冷たいのに、今は、あたたかい。
それ以下に、私の頬が冷たいんだ。


「私を見てくれない。嘘もついてくれない」
ちゃん」
「無理なのかなぁ」
「やめろよ、今ここにいんの俺だよ。ちゃんに触れてんのは俺だよ」
「・・・触っても、キスしても、それ以上のことしても、もう無理なのかなぁ。振り向いてくれないのかなぁ」
「いい加減にしろよ」


ぐ、と、私の髪を掴む潤慶の手がきつく締まって、私の目にキラリと、白い光が見えた。
喉にちくりと、切っ先が当たる。


「ユン・・・」
「・・・」


ユンの周りに刃物は置いておかないようにしたのに


「ユン、そんな顔しないでよ・・・」


そんな、情けない、寂しい、悲しい、痛い目を、私に向けないで・・・


困るよ、私

困るよ・・・









「・・・」
「・・・」


ゆっくり目を開けると天井が広がって、どくんどくん、血液が全身を急速に流れている衝撃を感じた。
横に潤慶がいた。
白いシーツに包まれて、私をその胸に抱いて、ぎゅっと髪を掴んで。


「・・・・・・ユン」


潤慶の手が、くろかった。
私の手も、くろかった。


「ユン、腕が痛い・・・」


薄暗い部屋の中で、点々と、月明かりが黒を照らして、深い深い赤を見せる。


「腕が、動かない・・・動けない・・・・・・」
「うん」


つと、涙が出た。



「刺しちゃった」



冷たく硬いフローリングにふたり、粗大ゴミみたいに転がって
細い月が照らす下、床と、シーツと、ナイフと、涙と、腕と、

私と、潤慶と、

「・・・・・・」


でも、私、心地よかった。
髪を掴んでぎゅっと抱きしめる潤慶の腕が、心地よかった。


なんでか私、しあわせだった。












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