余計なものが入らないように。早く傷が、癒えるように。 外はまだ朝日が足踏みしているような白けた空で、空気も穏やか海も穏やか。 私の心は荒れ放題。 ガチャリ・・・ そっとドアを開けて、物音すら聞こえない静かな廊下にそっと足をつけて階段を下りた。実は今日から制服も長袖で冬支度。まだぎりぎり9月だけどうだるような暑さは、もう過去のこと。ひたりひたりとフローリングを靴下で歩き、静かに静かに、歩く。なんでそんな静かに歩くかっていうと、・・・ 「おはよう」 静かな廊下に見合う澄んだ声が届き、その直後にゴッ!・・・と聞きがたい鈍い音がした。 「・・・大丈夫?すごい音した」 「え、えいしく・・・、おは、おはよう」 キッチンに入る手前の壁で思いっきり頭を打ち込んで、額がへこんだんじゃないかというほど痛みが走った。早起きな英士君でさえ今起きてきた様子で、寝巻き代わりのシャツと少し寝癖のついた頭で私の額を心配する。 急に声をかけられて慌ててしまったけど(この従兄弟は声まで似てやがる)、英士君で心底ホッとした。 そうだ、当たり前じゃないか。ヤツはありえないほどの低血圧。こんな時間に起きてくるはずがない。大丈夫、このままヤツと会わないうちに、学校へ・・・ 「おはよ〜〜〜〜〜・・・」 と思ったのもつかの間、英士君の後ろからぐでんぐでんの潤慶が英士君にもたれるようにして現れた。 「暑苦しい潤慶」 「おれはやおきしたのー・・・、ほめてほめてー・・・ぐー」 「寝てるし」 英士君に払われてそのままテーブルに流れ込んだ潤慶は、机に頭を伏せてやっぱり寝起きの悪い頭をゴリゴリとこすりつける。なんでこいつ、今日に限ってこんな早起きなのっ? 「ユン寝るなー、寝たら死ぬぞー」 「いえー・・・」 「ユン、韓国の大統領は?」 「トーテンポール・・・」 「ラッパのマークの」 「どすこいぱんだ・・・」 「イイクニつくろう」 「ホトトギス・・・」 「さん遊ぶなら今だよ」 「ううん、いい」 英士君はそんな潤慶の上に本を乗せたり輪ゴムでちょんまげ結って遊んだり何かしてるけど、私は何とか平常心を取り戻してわたわたとかばんに教科書をつめコーヒー飲んで歯を磨いて出発の準備をした。これはチャンスなのだ。ヤツの意識がないうちに、さっさと学校へ行ってしまわないと。 そう、秋の風より清々しくひらりと家を出て行こうとした。 いってきまぁす!と、それはそれは颯爽と英士君に振り返った、ら、 「いっておいでハニー」 ゴッ!・・・ 振り返った目前に潤慶のヤツがいて、今日二回目の壁打ちをした。(しかも同じとこ・・っ) 「ダメだよ女の子が顔に傷なんて作っちゃ。はいバンソーコー」 「あ、ああ、ありがと・・・」 こいつ、ちゃんと起きてやがるっ!どこまでもイケ好かないヤツだ! 潤慶はまだ重たい目で、でもしっかりと見下ろしまっすぐにその瞳に私を映す。でも私は、額に汗かいてさり気に目線を外すことで精一杯だ。だって、きのうは、こいつとキスなんて、してしまったんだ。 「いってきますのチューする?」 「するかっ」 口を近づけてくる潤慶に手を差し伸ばして逃げる。 こいつはもう、ちっともわかってない! 「な、なんなのきのうの、アレはっ」 「あれ?」 「ちゃんと説明してよね」 「説明たって、万物が創造された世紀から格付けされた人間という生物間で起こる衝動的かつ流動的な・・」 「黙れっ!」 ふざけてるとしか思えないこの潤慶の行いに、平常心でいられる人がいるなら見てみたい。英士君はよくもこんなヤツとずっと一緒に暮らしてきたもんだ! 「あんなのは、反則。はっきりいって、ゲンメツしたっ」 奥のキッチンで朝食の用意をしている英士君の背中は、潤慶で見えなかった。見えなくて良かったんだ。だからこんなにも叫びたい気持ちを抑えて吐き出してるんだから。そう、せめてもの仕返しのつもりで言葉を吐いて、潤慶に目を上げると、潤慶はいきなり、静かに口を閉じた。 きゅんと悲しい目をして、痛そうな瞳で私を見下ろす。私が完璧に悪いみたいだ。あまりの切なげな顔に、何故かちくりと良心が痛む。 「ゴメンよハニー」 「ひっ!・・・」 そんな私の良心の呵責を見事に無視して、こいつはまた性懲りもなくほっぺにちゅーなんぞしやがった!この無駄な口にバンソーコーをべっと貼り付けて、いそいで潤慶のテリトリーから離れる。 「とにかくっ!あたし使ってふざけないでよね!」 そう潤慶に言い捨て、玄関を走り出て冷たい空気の中、誰もいない海岸沿いの道をひた走っていった。 ちゃりんと財布から転がり出てきた小銭は、しめて210円。 「うう、昼飯はひもじいな・・・」 「うわーアンタビンボー。かわいそーだからめぐんであげる」 そう、軽い小銭の音を聞いてシノが惨めそうに言った。昼休みの教室、そこら中からいろんなランチの匂いが立ち込めているというのに私の腹はきゅるると鳴くばかりで、やっぱりどうしても貧乏な今の生活に、余裕なんてちっともない。そんな日は慈悲深いシノに後光が差して見える。 「やったーきょー朝ごはん抜きだったんだー」 「最近へん」 「へ・・・?」 「こないだの彼氏元気?」 「かっ・・・?」 何のことを言ってるのかしらシノさん。なんて笑顔を見せつつも、シノは笑ってなかったから、私の笑顔も凍りついた。なんだか今日は真剣に、じっとまっすぐ私を見つめてくる。 「洗いざらい吐くがいい」 「うう・・・」 言おう言おうとは、思っていたのです。ただやっぱり、言い出しにくかったというか、言いそびれてたというか・・・。 そうして私は数日前の成り行きをシノに話し、真正面に座るシノは最初ふんふんと聞いていたのだけど、次第にその顔を固めさせて、ついに私が「今は英士君んちに住んでる」ともごもご言うと、やっぱり驚いて「なにおう!?」と発狂した。 「郭んち住んでるって、え、じゃあ何、今日も郭んちから来たわけぇ?」 「ハイ・・・」 「しかも親いない?!じゃあなに、二人で?!」 「いや、英士君の従兄弟がいて、3人・・・」 「・・・はぁー。どーりで最近みょーに郭と話すなぁと思ってたけど、なーるほどねぇー」 「ウン・・・」 「じゃあこないだの人は」 「ああうん、あれが英士君の従兄」 「へぇー。でもゴメン。どーしてもヤラシイ想像しちゃう」 シノの、ごくごく当たり前な発言に私は、なけなしの金で買ったジュースをぶっと吐き出してしまった。 「な、ないない!そーゆーのはまったく全然・・・」 ・・・・・・ない? 「・・・」 「・・・なんかあったのね」 「だ、だってあんなの、あんなのがファーストキスなんていやだぁぁああ!!」 そうして私はまた、きのうの一件を洗いざらいシノに喋りあの、潤慶の奇行も話した。 そう!そーなの! 私これでもはじめてのキスだったんです!!ヤダもーありえなーい!! 「ふぅん。で、ショックなのは別として、それってヤだったの?」 「・・・」 どんなネタにもいつもクールに受け止めるシノはやっぱりクールに私の話を聞いて、そう返した。 そりゃ、あんな、私の意志を無視した仕方なんて、誰が喜んだりするものか。 でも、なんで、とは何度も何度も思いつつも、ヤだったと聞かれると・・・ ・・・どっちにしたって、あんなやり方は卑怯だ。 「さん」 がやがやと教室に入ってきたクラスの男子たちから外れて、英士君が私たちに近づいてきた。そして私の顔をまたジッと見て、「ああやっぱり赤いね」と、私の前に冷えピタを差し出したのだ。 「これは・・・・?」 「朝思いっきり頭ぶつけてたから傷残ってないかと思って。しかも2回打ったんだって?」 「・・・潤慶、何か言ってた?」 「なんか、ふざけてなんかないのにーとか何とかモゴモゴ言ってたけど。口にバンソーコーつけて」 「ああ・・・(ずっとつけてたのかアイツ・・・)。えと、これありがとう。わざわざ持ってきてくれたの?」 「カバンに入ってた。たぶん前にミチルにもらったやつだ」 「・・・ミチル、さん」 そうだ。私ってばすっかり忘れてた。 強盗と、潤慶の背中の傷と、・・・アレの、度重なるびっくり体験のおかげで。 「きのうは、ミチルさんのとこに行ったの?」 「うん、今度試合するらしくて。結人とかみんなでガヤガヤと」 ”みんなで” そう聞いて、私の胸はホっと静まった。 「ねぇ潤慶と何かあった?」 「えっ、なんでっ?」 「今日潤慶学校休むって言い出してさ。あいつがはっきり休むって言い切るときって、結構精神的にダメージきてるとき多いから」 「・・・」 ヤバ・・・私のせいかな・・・ 「ま、帰ったらやさしくしてやってよ」 「・・・」 綺麗ににこりと笑う英士君は、ほんと、つくづく余裕のある人だ。 「うん・・・」 そして、誰も憎みきれない私は、中途半端な人間だ。 やさしさも思いやりも、怒りも憎しみも、全部。 今日の晩ごはんは潤慶の好きなものを作ってやろうとか思ってる私は、 どこまでいっても、ハンパ者だ。 |