冷たい風が落ちてくる、堕ちてくる 空気がどんどん乾燥していって、朝と夜はもう寒くて堪らない。 ここにきた夏が懐かしい。この家で初めて冬を過ごすはずだったんだけど。 「さっむーい」 「うわぁっ!」 突然後ろからがばぁっと襲い抱きついてきた潤慶に押されて、鍋の中に入れるはずだった大根がコロコロと転がっていってしまった。寒い寒いとぎゅうぎゅう抱きしめてくる潤慶は冷たいフローリングに裸足のまま、でもひっついてる身体はあったかくて、また寝てたんだなと思った。よく寝るお方だ。 「こんばんはなんですか」 「寒いのでおなべです」 「・・・なべに大根とは如何に」 「おなべプラスおでんのお得セット」 「つまりは冷蔵庫の残り物を全部なべに入れただけと」 「失敬な」 いやしかしそれも否とは言えまい。確かに鍋に入れられそうな冷蔵庫の残り物は片っ端から入れた。でもないとこの細身のくせによく食べる二人のお腹は満たせられないのだもん。多少多く作ってしまったって明日のお弁当にでもしてしまえばいいのだ。 「ちゃんお弁当なんて作らないじゃん」 「たまーに作ってたよ。・・・月に数回くらい」 「俺にも作ってー」 「こんなんでいいの?」 私の肩に顎を置いて、後ろから潤慶は鍋をかき回す私の手を取りがちゃがちゃと回す。鍋の残りでお弁当なんて、せいぜい味の染みこんだたまごが主役ですよ。(肉系は残らないだろうし) 「そういや潤慶て普通に箸使えるんだね」 「箸は日本だけとお思いかいおまえさん」 「え、韓国もお箸なの?」 「うん。鉄製だけどね」 「鉄?重そう」 いつもどおり話してるけど、私、まだ潤慶に言ってない。 ここを出てくこと。 ちょっと言いにくい。 でも、英士君から聞いてるかもしれない。ここ出ても英士君とは学校で会えるし、潤慶だってまったく会えないわけじゃないしな。 「できた!わーおいしそー!」 「とても残り物には見えなーい」 「・・・。英士君、早く帰ってこないかなー」 「そういやちゃんてイビキとかしないんだね」 「え?あ、そう?そりゃよかった」 もう少しでごはんも炊けるなーと炊飯器を覗く私の、纏めていた髪を解きながら潤慶が背中から少し離れて言った。この前つい隣で寝てしまった時だ。潤慶、起きてたのか。 「でも寝言言ってた」 「うそぉ!うわーヤダ!何言ってた?」 「ユンちゃんすきすきあいしてる」 「なんだ、ウソじゃん」 「うん嘘。ほんとはえいし君って」 ぱさっ・・ 潤慶の手から離れた髪が、背中を叩いた。 「・・・」 「3回言った」 ・・・うそ カタン、と後ろで小さく聞こえた音にビクッと肩を揺らした。見えない背中の潤慶に、怖さを感じてしまった。でもその後小さく重みを伝える床の音が、静かにキッチンを出ていく潤慶を知らせた。 うそ・・・。まってよ、だって、 夢だって見なかったのに、そんな、・・・ 「ただいま」 「!」 どれだけ頭の中が真っ白になってしまっていたかわからないけど、その声が聞こえてバッと振り返ると英士君がいて、私の顔を見て「どうしたの?」と返した。 「ううん、なんでもない」 「そう?さっき、入れ替わりにユンが出てったからさ」 「え、・・・」 出ていった・・・ それを聞いて心配になってきて、でもそれよりずっと奥に、ほっと安心した思いが宿った。さっき、見えない潤慶に私は、怯えてしまった。 ・・・また、刺されるかも、と 結局夕飯は英士君とふたりで食べて、潤慶はいなくなったまま、戻ってこなかった。英士君は思い当たる友達に一応連絡して回って、「すぐに帰ってくるよ」と私に安心させるように言ってくれたけど、そんな英士君も、私も、私たちが思いつきそうな誰かのところに潤慶が行っているなんて、思わなかった。 遅い時計の針を見つめながら、でも潤慶はちっとも帰ってこなくて、たった10分が1時間くらいに思えて、ふとんの中で何度も寝返りを打って、玄関が開く音がしないかと待っていたのだけど、するのは冷たく強い風が窓を叩く音くらいで。 もう冬だよ、潤慶 寒いんだから、もう冬なんだから、早く帰っておいでよ・・・ 「・・・」 ・・・ちゃん 真っ黒の中に、白く、ぼんやりと潤慶が見えた。明かりもない世界なのにそれは、信じられないほどくっきりと見えて、ぽつんと座る潤慶が世界でたった一人ぼっちに見えて、今にも暗闇に解けていきそうだった。 「ユン・・・?」 帰ってきたの?どこにいってたの、そんなシャツ一枚で寒いに決まってるよ、こっちにおいで。 伸ばした私の手に向かって手を伸ばす潤慶の、白い指先が、闇に飲まれるように黒く染まっていった。 いや、違う。 闇じゃない。それは、黒だ。 ぽたりとしたたる、黒い液体。 高く手を上に伸ばす潤慶の指先から、つ、と腕を伝って流れていく。 ぽたりぽたりと降ってくる雫を浴びて、潤慶が黒く侵食されていく。 べろり、と腕に流れる液体を舐めて、舌が真赤に染まる。 黒じゃない 赤だ 「ユンっ・・・」 私の声に反応する。でも私に向けるその目は真っ暗で、何も感じ取れなくて、何を求めてるのかわからなくて、その目に囚われる私はなんて小さくて、閉じ込められてるみたい。 ユンがどんどん真赤に染まっていく。 したたる液体がどんどん流れて、私のほうまで、流れて、流れて、 飲み込まれる 「キャアアアッ!!・・・」 がば、と起き上がったところは、真っ暗な部屋だった。息が止まっていて、しばらくしてやっと息をしなきゃと思って狭い喉を酸素が通る。どくどくと体中を駆け巡る血液が心臓をがんがんと思い切り叩いて、次第に息が荒れていった。 「さん!?」 ばたんとドアが開いて廊下の明かりと一緒に入ってきた英士君がビックリした顔で駆けつけた。私はそんな英士君を見上げつつも声が出なくて、は、は、は、と小刻みに呼吸を繰り返す。 「どうしたの、大丈夫?すごい声したけど・・」 「ごめ、ごめん・・・、だいじょうぶ・・・」 「ほんとに?あービックリした」 冷や汗をかく英士君がふと小さく息を吐く。私の心臓はまだざわざわとうるさくて、穏やかじゃない。 「・・・ユンは?帰ってきた?」 「いや、まだ。またどこかに泊まってくるんだと思うよ。そんな心配しなくていいよ」 「・・・英士君、このあいだ、先生がいってたあれ、あれ、なに?」 「え?」 「ユンが、傷害事件とか、なんとか」 「・・・ああ、うん、傷害事件ていうか」 そういえば言ってなかったね、と英士君は私を見下ろして、静かに口を開いた。 「自殺未遂」 「・・・」 ・・・ユン、 ユン、 いま どこ・・・ |