いつもなら気づかない日常が、この極寒の中ではぬくもりだった





16.ホットコーヒー















ぷしゅー、と空気の抜ける音がすると、バスのドアから冷気が流れてきて暖かくなってた体の表面をひやりと撫ぜる。ぎゅと抱き合ったまま、そのあたたかさで頭の中がぼうっとしてきて、うとうと眠りかけてしまっていた。


「お客さん」
「・・・」
「お客さん、起きてください」
「・・・・・・ん、」


誰の声だか、傍でそんな声が聞こえてふと目を開けると、暗い窓が見えた。うつろな頭でゆっくりと声がしたほうを見上げると、バスの運転手が困った顔で私たちを見下ろしてて、その顔をまたぼんやり見ていると、終点ですよといわれ、その単語だけを何とか拾う。


「潤慶、終点だって」


私にしがみついてる目の前の潤慶に声をかけると、潤慶は嫌そうに顔をしかめて、私に抱きつく。足先で靴を探って、潤慶を起こし立たせて、ふたりでぼんやりしたままバスを降りていくと後ろで運転手さんがまた「お客さんお金!」と呼び止めてきた。

おかね・・・ああ、お金ね、お金。


「あたし何も持ってこなかった。持ってる?」
「あったけなぁ・・」


私はコートを掴んで急いで走り出てきたからお金なんて持ってなくて、潤慶が探ってるポケットの中が頼りだった。ごそごそ両ポケットや後ろポケットを探って、潤慶が「あった!」と声を上げてほっと胸を撫で下ろす。

でも、潤慶が取り出した掌に乗ってたお金はたった150円。
隣で運転手さんの重い咳払いが、痛く刺さる。


「えーと、あ、じゃあコレを。コレ結構いい時計なんです。売ればちょっとした金額になってバス賃とっても余ったお金で手土産のひとつも買えちゃうってね、よし売った!」
「え?いや、買ってない。困りますよ」


運転手さんの手に腕時計を握らせて、私たちはそそくさとバスから降りていった。後ろから運転手さんがまだ呼んでたけど、ゴメンナサイ逃げました。

バスの外はやっぱり死ぬほど寒かった。そりゃあそうだ、さっきまで雪降ってたんだもん。今はやんでるみたいだけど、それでも冬の夜中はとても生きてる心地がしないくらいに冷たい。


「寒い寒いー、なによもう、あったかいところ行くんじゃなかったのー?」
「お金がなーい」
「もー寒い寒い寒いー」
「機嫌悪いなぁ」
「寒くてなんも考えらんないの!」
「そーだね。前に飢饉に襲われた村人が死んでく人の肉をつめたい洞くつに隠し持って飢えを凌いだっていう本を読んだなぁ」
「へぐしっ!」
「あーあ。ちょっとここで待ってて」
「ええ?どこいくの?」


潤慶は私を置いてどこかへ行ってしまって、寒くて寒くて仕方ない私はうずくまって体を抱きこんだ。ほんとに、ほんとに凍えそうだ。死ぬほど寒い。もういっそ死んでしまったほうがあったかいだろコレ!ってくらいどーにも寒い!
うずくまってガタガタ震えてると、たったとコンクリートを蹴る足音が聞こえてきた。目を上げると、暗い中潤慶が戻ってきて私の前に「はい」と手を差し出す。その潤慶の手には缶コーヒーが握られていた。


「うわ、あったかーい」
「もう30円しかありませーん」
「あーーー、あったかいー。すっごいすっごいあったかいー」


たった一つの缶コーヒーが極楽のように思えた。こんなに寒いのに、ぎゅっと缶を握ってると掌は熱くて、でも手の甲が冷たくて。でもその些細な缶がすごくあったかかった。


「しあわせかーい?」
「しあわせだー」


同じように目の前にしゃがみこむ潤慶が笑って言うからついケラケラ笑って答えた。


ちゃん笑った」


にこり、潤慶が笑う。


「一緒にいよ、ちゃん」
「・・・」


潤慶の冷たい手が私の手を取って、私もその手を握って、手を繋いで歩いた。


いっしょにいよう

潤慶の手がずっとそういってた。












薄暗く世界が夜明けを迎えていく頃、やっと家に着いた。
小さいインターホンの音の後、ドアの向こうからバタバタっと足音が聞こえて、ドアが開く。


「ただいま・・・」
「・・・」


ドアが開いた早々に顔を出した英士君は何か言おうと口を開いたけど、私たちがあまりにぶるぶると震えて、まるで捨てたられた野良犬みたいだったから、英士君は呆れた様子でその口を閉じた。
おお、お願いです英士君。お説教はいくらでも聞きますから、まず中に入れてください。ここまで歩いてくる間に何度死ぬかと思ったかわかりません・・・。


「電話すれば迎えに行ったのに」
「・・・・・・あー!そーだよ潤慶、電話すりゃよかったんじゃん!」
「そーだよ」
「まったく、ふたりして・・・」


頭を抱える英士君が毛布を持ってきて、私の頭からばさりとかける。潤慶はもう眠気の最高潮だったらしく、俺もう寝る、とさっさと部屋に行ってしまった。


「何これ、冷た」


潤慶のいなくなった部屋で、英士君が毛布に包まる私の前で缶コーヒーの空き缶を手にとった。


「あったかかったの、それ」


からっぽの空き缶はただの缶で、夜の空気に晒され続けてひやりと冷たい。夜風の中ではほんとにあたたかかった。すごく。


冷たい冷たい海の隣に、ゆっくりと夜明けが訪れていた。

その日、空はよく晴れた。





さん、寝ないの?」
「うん。なんか元気だし、荷物まとめちゃおうと思って」


昼の太陽が高く上って、部屋の中ならようやくあったかい気温が保てるような時間。バタバタ物音をたてている私の部屋を英士君が覗いて、足の踏み場もない室内に驚いた。

数ヶ月住んだだけなのに荷物はやたら増えてて、カバンとダンボールにつめてもとんでもない量になってしまった。要らないものはすぐ捨てちゃう主義なのに、おかしなものだ。


「ねぇさん、俺が出てったほうがよくない?」
「え?なんで?」
「俺は家に帰ればいいだけだし、さんはここに住めばいいよ」
「だってここは英士君のご両親が借りてくれてるとこだし、そんなこと出来ないよ」
「でも、ユンがさ、さんから離れない気でしょ」
「・・・」


英士君はいつも、何でも判ってるみたいな深い目をして。
どうしてこの人はいつもそう。


「平気?」
「うん」


でももう、よりかかったりしない。


「そっか」


ほんとに、ほんとに、貴方にたくさん救われたと思う。貴方がいてよかった。貴方に出会えてよかった。

まだ恋なんて知らなかった私の心にいついた、最初の人だった。ここはとても居心地よくて、楽しくて、でもだからここには、いられないよ。


英士君


ほんとうに、ほんとうにあなたは、まぶしかったよ。












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