心に誰か、いる 波打つ海を見ながら、郭君と並んで砂浜に座って、いろいろ話をした。 お母さん、韓国の人なの? そう、だから俺一応ハーフ。 へぇ、知らなかった。 わかんないでしょ。同じアジア人じゃそう違いないし。 知らなかった。私は本当に今こうして話しているのが不思議なほど郭君と喋ったことがなかったんだ。そんな郭君は、砂浜の果てに見えている一軒の家を指差して「あれ家」と教えてくれた。 といっても住んでるの俺と従兄弟だけだけどね。 え?なんで? 色々事情あって二人で暮らしてるんだ。ていっても近くに実家あるんだけど。 ・・・へぇ。 従兄弟と二人で暮らす事情・・・。少し気になったけど、聞かなかった。私も、家のこと聞かれると、困ってしまうから。でも聞きたい思いは多分にあって、それは郭君のことだからということ以上に、自分で考えて動いて生活してるってことが、今私が立ち止まっている境界線の向こう側のような気がして、・・・ ・・・いいね、ここ。海が近くて。 うん、それでこの辺選んだんだ。 海、好きなの? うん。 だって世界中と繋がってるしね。と、郭君は海の果ての水平線を見ながらちょっと、笑ってた。あとは、サッカーが好きだとか、でも部活には入ってないとか、私も兄貴がサッカーをしてたこととか、ちょっと喋った。 郭君はとても話しやすくて、思わず何でもかんでも言ってしまいそうになる。 本当の、本当のところは何も言わなかったけど、いつか言えたらいいとも、思った。 「・・・」 夏の部屋は熱気が篭って、なのにクーラーなんて気の効いたものはここにはなくて汗が吹き出る。扇風機がひとりでがんばってくれてるけど、窓開け放していても、蝉はうるさいほどなのに風鈴はちっとも鳴きやしない。 時計を見ると、5時。なのに空はまだまだ明るい。床に寝転げながらヒマを持て余して、窓の向こうの空を見ていた。 あーあー、ヒマだなぁ。あたしいつもこの時間、何してるっけ。枕もとの目覚まし時計を見てみるけど、さっき見た時間から3分しか経ってなかった。あーあーあー、ヒマだ。郭君は、今何してるんだろう。また海行きたいなぁ・・・ がばっと起き上がって少し考えた。 迷惑、かなぁ。でも、話がしたいなぁ・・・ ・・・うちからじゃちっとも海の匂いはしないのに、さすがに海が近づいてくるとバスの中でも潮の匂いがした。郭君はいつもこんな空気を吸って生きてるんだ。このバスに乗って生活してるんだ、いいなぁ。海の見えるバス停で降りて、あの日郭君が教えてくれた家を目指して歩いた。 外からは誰もいる気配がしないその家の前に立って、ここでいいんだよな、と少々案じながら呼び鈴を押してみた。ポーン・・・と遠くで音が響いて、すぐに波の音にかき消されるほど海が近い。でも誰の声もしなくて、気配もしなくて、誰もいないっぽかった。 なんだ、いないんだ・・・ 期待に膨らんでいた胸がしょぼぼぼ、と沈んでいく感じがした。きっとあの海に夕焼けが沈むより早く、沈んでいった。・・・まさか待ってることなんて出来ないし、仕方ないから帰ろうか・・・と未練たらしくドアの隣の窓とかを見ていると、遠くからガー、ガー、と何か迫ってくる音が聞こえて、振り返るとその瞬間にガッ!と、真正面から強く肩を掴まれた。 「!?」 「위험한, 부딪치려고 했다.」 「へっ?」 突然私の肩を掴んできた人が頭を下げたまま何か言ったけど、なんだかうまく聞き取れなかった。ふと足元を見るとその人はローラーブレードを履いていた。どうやらこれが近づいてくる音だったらしい。勢い良く私のところまで滑ってきたかと思えば私を支えにして急停止したのだ。 そしてようやく今、その顔を上げた。 「・・・え、」 結構近距離で合わせた目は、ずっと思い描いていた目だった。 ・・・郭君と同じだった。 「무엇인가 용?」 「え?」 「그렇다고 할까 누구?」 「え、え?」 やっぱり何を言ってるか判らない。というかこれって、日本語じゃない、気がする・・・。 「あの、あたし、郭君に・・・」 「아, 야、ヨンサのトモダチ?」 「え?」 ともだち。それは聞き取れた。(というか日本語)日本語喋れる人だ、と胸を撫で下ろすとその人はにこりと無邪気に笑って、郭君とはまったく別の笑い方をした。似てる。ああ、もしかしてこの人が一緒に住んでるという従兄弟かな・・・。(従兄弟ってこんなに似るものかな) 入っていいよ、とその人は鍵を開けて、ローラーブレードを履いたままがーッと家の中に入っていった。というか、玄関らしい玄関もなくて、普段から家の中でも靴で過ごしているよう。家というより一見隠れ家のような、海沿いの家、まさにそんな感じで、いいなぁ、こんな家。 「ねー僕お腹すいた」 「え?」 なんか作って? 机にひょいっと乗ってローラーブレードを脱ぎながら、その人はいきなり初対面の私に向かってそんなことを言った。私がうんともいいえとも言えない間にその人は、食料そこ、道具そこ、と勝手に場所だけ教えていく。待って、どうして私知らない家で食事を作らねばならないの?汗ダラダラかく勢いで目でそう訴えてみたが、その人はちっとも私の胸中を察してはくれないようだ。 「お願い!お腹空いて死んじゃう」 ぴょん、と私の前にやってきてすがるような目をするその人は、私の両手を取ってずいっと顔を近づけた。近いっ、近いです!腕をピンと伸ばして回避しようとするも、そのどんどんと詰め寄って来る目に身の毛がよだつ。 押されるようにどんどん後ずさっていくと、突然バコッと堅い音がして、その人が音に合わせて頭を伏せた。 その伏せた頭の向こうに、郭君が見えた。 「何してんの潤慶、バカ」 つい1時間ほど前に会いたい、と思った顔が見れたことよりも、身の危険から救ってくれたその姿に後光が差して見える。今痛みにもがいている人の頭にぶつけたんだろうカバンを下ろす郭君は、私の腕を引いてその人から離させた。 「いったぁ~!何すんのさヨンサ~!」 「こっちの台詞だよ」 「それめちゃくちゃ痛いよ、中何入ってんのー?」 「辞書と英和と資料集の三点セット」 頭を押さえ涙目で頭を上げるその人は、それを聞いてさらに痛くなってきたとテーブルに伏せてさめざめと泣き始めた。 「だってヨンサの友達だってゆーし、ヨンサの友達いっつもごはん作ってくれるじゃーん」 「この人は違うの。というか俺の友達イコール使用人じゃないんだからね」 「だってヨンサ全然帰ってこないしー、俺心配で探しに行ったんだからねー」 「たかが6時で何言ってんの。委員会あって遅かったんだよ」 「だってもしヨンサに何かあったら困るし!叔母さんになんて言えばいい?もういっそ俺が殺しましたって言えばいい?!」 「バカ」 こうして並ぶと、さっきはあんなに同じに見えた二人も全然違って見えた。 そんな二人を呆然と見ていると、郭君がそんな私に気づいて「ん?」と問いてきた。 「・・・ヨンサって、郭君のこと?」 「ああ、うん。韓国語で英士ってそういうの」 「あ、ああ!」 「こっちは潤慶。こいつは完璧韓国人」 そう郭君に紹介された人は、まだ目に涙を溜めながら私に目を上げて、何の意味かピースをした。 「というか、どうしたの?急に」 「え、あ!あの、えっとー」 「まさか来るとは思ってなかったからさ、部屋汚いな」 郭君は、うちより数段綺麗な部屋を見回して散らばった雑誌や服を拾い出した。そんな郭君の後ろで、私は必死に言い訳を考える。 「あの、夜の海も見たいなーと思って」 「でももう日が暮れるし、この辺結構危ないんだよ」 「あ、そうなの?」 「あとで送っていこうか」 「いや!いいの!全然大丈夫!」 「でも、」 「いいから!ほんと大丈夫!あたしなんか襲いたがる人は誰もいない!」 やっぱりダメだった。 何を言っていいのかわからなくて、素直に会いにきたとも言えなくて、 「じゃあ泊まってけば?」 ・・・え? 頭の中から全てが抜け落ちた感じがして、思わず郭君を見つめてしまっていると、郭君はその私を見てごめんと言った。特に意味はないただの冗談だったようで、私が怒ったと思ったようだ。 「・・・泊めてほしい」 「え?」 「泊めて欲しい。明日も、あさっても、できればずっと泊めて欲しい」 「や、どうしたの?」 「お願い、泊めてください」 あまりに必死に食い下がる私に、郭君はだんだんと焦っていった。 「ちょっと待って?そんなほかほかごはんに混ぜるだけみたいな決め方どうかと思うけど」 「ヨンサ、ヘンそれ」 「それはそれでおいしければいいと思う!」 「キミもヘン」 ここは、私の踏みとどまっていた、境界線の向こう側だ。自分で決めて、自分で踏み出すんだ。そうすればきっと、きっと何かが 「出来ることならなんでもする。ごはんだって作るし掃除だってする。ほんの少しだけ寝れる場所があればいい!」 「落ち着こうよさん、何があったの?」 うっ・・・。(見透かされてる) 「・・・ここに、いたらダメかなぁ」 「そりゃダメでしょー。いい若いモンが一つ屋根の下で、ねぇー?」 頭を悩ませて腕組みする郭君の後ろから、従兄弟さんが抱きつくように腕を回しながらひょこりと覗いた。そうだ、この人もいたんだった。 「や、俺はさんのことそんな対象で見てないからそれは大丈夫なんだけど」 だけどね?と、郭君が優しく諭すような顔を私に向けた。 柔らかく、冗談ぽく、流そうとしてる、いつも見る、表面的な綺麗な、顔。 「・・・」 「・・・・・・だから?」 そんな対象で見てないって、大丈夫って・・・ 「だから、ダメなの?」 そんな軽く笑って、言わなくてもいいのに。 鈍器で殴られたような、真綿で首を締めつけられるような。じわりじわりと、でも確実に一番無残な箇所を刺され、その上押し広げられるような。 涙を堪える術は幾つか知っていたのに、どれも、体から抜け落ちてしまって、何も考えられず、笑うことも出来ず、堪えられずに。それでも郭君の前で泣いているのは怖かったから、模られた優しさをかけられるのも、それを求めそうな自分も怖かったから、暗い海沿いの道を早足に駆けるしかなかった。 だって、とても明日のために笑ってやろうという気にはならなかった。冗談だと笑い飛ばせるほどに器用だったなら、私は今の人生をもう少し、強く生きていた気がする。 隣で激しく打つ、海の味がした。 |