絡みつく匂いが、離れない 「ヨンサ」 「・・・なに」 「泣かしたね」 「・・・泣かせたよ」 泣ーかした泣ーかした。 言葉だけリズミカルに、でもからかう様でもない潤慶は冷蔵庫の中から出したレタスをビリっと破って口内に落とした。 「お腹空いた。ヨンサ、なんか作って」 「自分でやりなよ」 「えー」 「えーじゃないよ」 隣に座っていながら背を向け合っている二人は、思えば晩御飯も食べていない。気がつけば日は落ちて、電気をつけることすらどっちもしないものだから外の明かりだけで真っ暗だ。どっちかが言葉を発さなければ静かなものだから、すぐそこからの波音が部屋を包んでいる。 ざざん・・・ざざん・・・ テレビひとつついていればいつもはまったく気にならないのに、静かにしてるとまるで大きな波音が襲ってくるようだ。 夜の海は、小さな不安を大きくかきたてる。 適わない大きな何かに襲われるような気になって、穏やかじゃいられない。 「お腹空いたー」 もう駄目、と潤慶がテーブルにうつぶせる。 「・・・」 夜の海が荒れて、騒いでいるようだった。 薄い月が出てた。 ・・・そりゃたまには、泣くこともあろうに。 でも絶対声は出さなくて、ひっそりさめざめ涙を落とすだけの泣き方を覚えたのは、何歳の頃だっただろう。昔は、こっちを見て欲しくて泣いて泣いて喚いて、でも声をあげたって誰も振り返らないことが分かって。 それからだ。 兄貴と二人になって、私はこんな泣き方を覚えたんだ。 「?」 玄関が開く音がして、兄貴が帰ってきたんだと思って目が覚めた。いや、起きてはいたんだけど、あんまりにも涙が止まらないから目を開いているのも痛くて、目を閉じてればそのまま寝ていくかななんて、寝ちゃえば全部忘れて落ち着いていられるかなって、そのままなんかこの、もやもやした悲しさもなくなるかなって。 でも、まさか夢にまで出てきてまたあの台詞を吐かれるとは、何度あの人は私を痛めつければ気が済むのか。寝ることすら怖くなってしまっては、もうどうしようもない。 「、いんなら鍵閉めろ。襲われてもしらねーぞ」 「・・・」 ドン、とドアの向こう側を兄貴が叩いた。何を返す気にもならない私はまた目を閉じて、上瞼と下瞼がひっついた間の熱をじわり感じる。ただでさえ暗い部屋の中、瞼を閉じると窓から入る月明かりすら閉ざされて、いよいよ暗闇に落とされた感じになって、でもそれでも、奥から奥から、涙が湧き出ては熱い瞼の間から抜き出て頭を伏せているふとんへ沈んでいった。 ―さんのことそんな風に見てないから ・・・そんな風。 ”そんな風”に少なからず期待してた私の胸を、たったあれだけの台詞があっけなく押し潰した。あんなに自然に笑ってそんな台詞が言えるなら、本当に、私はあの人にとってどれだけ軽い存在だったんだろう。どんなに意味のない存在だったんだろう。 無、ほど、怖いものはないよ。 私は好きだった。 好きになってた。 「うー・・・」 どこか、思い切り声を上げても誰にも気づかれず、誰にも届かない場所はないものか。苦しい。溜めすぎて、溜まりすぎて、内側から決壊しそうだよ。 兄貴が帰ってくる前に、少し声を出して泣いておけばよかった。 ―カタンッ・・・ 静かで暗い部屋の中に、外から物音が響いた。きっと少しでもこの部屋に音があったなら気づかなかった程度の音なのに、それは私の耳に届いてしまったからビクリと高く肩が揺れた。そんな音を聞いてしまうと、改めてこの部屋の静かさを思い出してしまって、逆に襲う心臓の音が胸を痛く叩いた。 やだ、窓、鍵閉めたっけ・・・ 人の重みを感じる音だった。猫・・・とかじゃ、ない気がする 「・・・」 窓の外は暗い。ただ薄い月明かりだけで、それがまた余計に暗さを強調してるようで、その暗闇の中に、窓の向こうに近づいてくる人影が見えた。 「・・・・・・」 窓の鍵開いてる、やだ、どうしよう あ、兄貴・・・ 「さん」 ・・・頭の中から全てが抜け落ちて、窓へ駆け出しガラッと開けた。 「・・・え、か、」 郭君が、いる。 「え、なに、どうしたの?ていうかなんでうち・・・」 「本気で一緒に住む気、ある?」 「え?」 なに・・・ 「や、いいよ。気にしないでよ、忘れて。ごめんさっきは、ヘンなこと言って。ほんと気にしなくていいから」 「そうじゃなくて」 だって、だって・・ 「こまるんでしょ、郭君は」 「出ていきたいんでしょ」 「・・・そんな、そんなギリないのに、郭君は私なんてどうだっていいのに、」 「・・・」 「好きでもないのにそんな、」 またあんな風に思い知らされるなら 「そんな同情とか、いらないから、ほんと、さっきはどーかしてた!」 「服とかは、また今度でいいよね」 「え?」 「連れてくよ」 窓枠の向こうから私の手首を引っ張る郭君は、私を抱きかかえると肩に乗せて、ぐいっと引っ張った。 「な、ちょ、郭君っ」 なんで、なんで? 「おろして、おろしてっ」 なんで、なんで、なんでっ 「郭君っ」 私を肩に担いだまま郭君は、そのままぐるりとうちのアパートを回って玄関の呼び鈴を押した。出てきた兄貴はしばらく声も出ずに私たちを見てるようだった。(後ろ向きで見えないっ) 「こんばんは」 「・・・はぁ」 きっと煙草を咥えてる兄貴の低い声が、夜の静けさを邪魔しない程度に聞こえる。(てか、ケツ向けてるからわからんってばっ) 「夜分にすいません、郭といいます。さんいただきにあがりました」 「ちょっと郭君、なに・・」 「いいけど・・・、こいつ寝言うるさいっすよ」 「言わんわ!」 わけわかんない、バカ兄貴も、・・・郭君も! 「大事に、するんですよね?」 「はい、します」 「・・・」 はい、って、 しますって・・・ 「ガキ作んなよ、」 「バカっ!」 わかんない、わかんない、自分がどうして、・・・ 「郭君、どこ行くの、ねぇ!」 郭君は本当に私を肩に担いだまま夜道を歩き出して、 薄い月が照らす下。 「ねぇってば、家に戻ってよ!」 「なんで?」 「なんでって・・・、く、くつも履いてないし・・」 「靴捨てて海飛び込んでく人がそんなこと気にしない」 「・・・」 海の匂いがするほうへ。 明るいほうへ、明るいほうへ、歩いていく。 「ふっ」 「・・・なに」 ・・・どうしよう 「さん、野生児って感じ」 「・・・」 どうしよう、私、 この人といる時の自分が、気持ちいい。 「うん・・」 郭君と一緒にいる時の自分が、ものすごく、 好きかもしれない。 |