それが恋だと名付いても、だからこそ苦しい 朝ごはんは早く起きたヤツが作ればいい、ということになっているのだが、何せ英士君の朝の早さはハンパないのでいつもお世話になってしまっている。でもそれにずっと甘えてるのも悪い気がする、とたまには早起きして作ってみせるのだ。しかし一番ネックなのは、潤慶がその日の朝起きて米がいいだのパンがいいだの言いやがるので事前の準備をしにくい事だ。 「ねー、たまご何がいいかなぁ」 「目玉焼きでいいんじゃない?」 「でも潤慶半熟じゃないと食べないってゆーし、私あの加減がよく判らなくて」 「いいよ、いちいちあいつの好みに合わせなくて。聞いてたらキリがない」 朝からなんて爽やかにカップ片手に新聞を読む英士君は、まるで太陽すら英士君のために光を放っている気にさせる。その英士君の隣に空いた椅子がひとつ。いつもならそこで死ぬように寝転がってる従兄様は、珍しくいなかった。 いつも波音がBGMのこの家で、唯一音を放つのが潤慶の部屋の爆音ステレオなのだけど、それがまたこの爽やかな朝に似つかわしくない陰気臭いダークな音楽なのだ。その音楽に合わさって、音を口ずさむ声がガチャリと後ろのドアの音と同時に聞こえて、そこから潤慶が現れた。石鹸の匂いと湯気を漂わせ、頭からタオルをかけて前がはだけたシャツ一枚で。(下は普通に履いてるのがせめてもの救い) 「ちゃーん、俺きょーはスクランブルがいいー」 「ひぃっ!」 そんな格好で、潤慶はフライパンを持つ私の後ろからひたりと抱きついてきた。湯上りの熱気と匂いが後ろからぞぞっと襲ってくる。 「ユン、我侭言うな」 「だって目玉よりスクランブルな気分なんだもん」 「それと無意味に抱きつかない」 「意味あるよ、お願いしてるんだもん。ねーちゃん?」 判ったから離れてよ!と背中の潤慶をひっぺ返し、目をフライパンに戻すと案の定、目玉焼きが崩れてた。こりゃあもう、要望どおりにスクランブルにしてやるしかない・・・。 「そうだ、さん古文出来る人?」 「え?」 「きのう結人が言ってたんだけど、抜き打ちでテストあったんだって。だからうちも今日あたりあるかも」 「え!マジ?うわー・・・」 「追試もあるみたいだよ」 座ってる潤慶の前にスクランブルエッグを差し出して、駄目だこりゃと追試を覚悟した。そうでなくてもここんとこ勉強なんて、全く身に入ってなかったのに。 「ちゃん、古文なんてのはね、目を閉じて昔の匂いを感じ取りそこに意識を飛ばせば自然と耳に入ってくるものだよ」 「何言ってるのかよく判らないです」 「大事なのは古き良き時代の人を尊重し現代に残された遺志を汲み取ること。さすれば歴史は向こうから語りかけてくるんだ」 「さん、急がないと遅刻するよ」 「はーい」 なんか言ってる潤慶の隣でさっさと朝食を済ませ、時計を見るとほんとにバスの時間が近づいていた。急いで片付けてカバンを掴むと、ノンキにパンにかじりつく潤慶が「ちゃん」と呼び止めてくる。何?と振り返ると潤慶は、これが間違って俺の部屋に、と私のブラジャーをヒラリと見せた。 「ギャ!間違うわけねーだろが!」 「だから歴史は判らないのサ」 「判らないのはアンタの頭ん中よ!」 「ちゃん、いってきますのチューは?」 「するかそんなもの!」 「駄目だよ、ここじゃあ絶対のルールなんだよ?俺とヨンサも毎朝してるんだよ?」 「嘘付け!!」 バシンと近くにあった雑誌を投げつけて、英士君より先に私はどしどしと家を出ていった。まぁったくアイツは、ほんとに得体が知れない!(脳内ぶっ飛びすぎ!) 「・・・なんか、いつの間にか仲いいねふたり」 「妬けちゃう?」 「いやいいことだけど。でも過剰に抱きついたりあんましないでよ」 「なんでー?羨ましい?」 「ユンがそんなだから危ないと思ったんだよ、さんがうちにくるの」 「えー?」 「まぁ仲良いいのは結構だけど。いってきます」 「いってらっしゃーい」 まだプンプンと腹を立てながらバス停に立っていると、遠くにバスが見えて家に振り返った。バスが来るのが早いか英士君が来るのか早いかな微妙な時間で、私は運転手さんにちょっと待ってくれるように言って英士君を待つ。額に汗かいてバスに乗り込んだ英士君は「こんなとき一緒に乗る人がいるっていいね」といった。その程度にでも役に立つのなら、私は何分でもバスを止めてやりたい気持ちになる。学校が近づくにつれ海は見えなくなっていくけど、英士君と肩を並べてバスに揺られてるなんて、夏休み前には想像もできないことだ。 「おはよー」 「あ、おはよーシノー」 「なんかアンタ潮クサイ」 「えっ?」 学校に着くと下駄箱でシノに会って、開口一番そんなことを言われた。自分で制服をくんくんと嗅いでみるけど自分じゃせいぜい汗のにおいくらいしかしない。 「知ってる?今日古文テストあるかもって」 「あー聞いた。ヤダなー、あたし絶対追試だよー」 日常的に同じ学校の人がいるというのは、情報交換には大変ありがたいものだ。それも英士君なら勉強だって聞けちゃう。一石二鳥どころの騒ぎじゃない。下駄箱までは隣を歩いていた英士君は、同じく下駄箱で若菜たちに会って囲まれて歩いていった。 教室でシノと教科書を広げ悪あがきをしていると、テストのことなんて気にも留めないような笑い声が窓のほうから聞こえてきた。若菜と数人の男子、その中にひそりといる英士君。やっぱり何度見てもあの騒がしい集団の中にいる英士君は、似つかわしくないなぁ。 そう思って思わず見つめていると、周りを囲んでる人たちの間から英士君と目が合って、そうすると英士君が私に首を伸ばした。 「さん、ノート貸そうか」 「え、ほんと?」 ラッキーだ。やっぱり英士君は頼れる。足取り軽く窓側の席までかけていって、机の中で探されてる英士君のノートを待った。そんな英士君の頭の後ろを見てて、思わずふっと笑ってしまった。 「ん?なに?」 「寝癖ついてる」 「え、どこ?」 「右の耳の後ろのとこ。実は朝から気になってたんだけどさ」 「言ってよ。俺あんま寝癖つかないほうなんだけど、きのうヘンな寝方したからかな」 「直毛だもんね。ヘンな寝方ってどんな寝方?」 「本読みながら寝ちゃってさ、朝背中痛いし寝坊するし」 少しだけ他の髪と方向を変えている右耳の後ろの髪を英士君はなでなでと撫ぜた。今までこの教室で見ていた英士君はカッコいいイメージが強かったけど、今は可愛く見えてしょうがない。あはは、なんて笑いながら英士君の差し出すノートを受け取ると、ふと、私たちをジーッと見ている周りの男の子たちの視線に気づいた。 なんというか、おいおいなんだよお前らいい雰囲気だな、みたいな無言の視線を感じて、でもそんなこと英士君は気にしてないようで(やっぱりどこか英士君もヘンなところ鈍感っぽい)私はそそくさとノートを持って席に戻っていったのだ。 「なんだよ郭、と仲よさげ?」 「よさげ」 「え?付き合ってるとかじゃないよな?でもいー感じじゃん」 「いいじゃん。かわいいし。付き合っちゃえ付き合っちゃえ」 「ええー、郭に付き合える女がいるとは思えないなー」 「失礼な」 そんな会話が、自分の席で英士君のノートを見ながら自然と入ってきた。(自然と。自然と。)しまった。思わず普通に過ごしてしまったけど、私は英士君とは模範的にただのクラスメートだったんだ。いきなり仲良くなっても、むしろ隣を歩くことすら違和感なんだ。気をつけねば・・・。 その日のテストは、さすがの英士君のノートで何とか追試を免れた。(神様仏様英士様)どうやら英士君はまた若菜とサッカーに行くようでさっさと学校を出て行って、私もなんの部活動もやってないからまっすぐ帰宅。一緒に帰るようなことは、しないわけだけど、同じところに帰るのにバイバイっていうのも変な感じで、細かな苦労があった。 友達とダラダラ、残暑厳しい外へ出ると同時に汗が吹き出て「どっかよってくー?」なんていつもの会話をする間も、英士君は今頃どこかなぁと考えているあたり、もう私は夏休み前の私とは、完全にどこか違っているようだ。 「あ、ちょっとアレ見て」 「なに?」 「カッコいー」 敏感な女子高生のレーダーが、校門前に私服で座り込んでる誰かに反応した。私たちはすぐそんな”カッコいい人”に目をつけては品評会みたく意見を交し合ってたワケだけど、今はもうそんなことどうでもいいほどに私は英士君のことを考えていた。 「こーんちは」 「!!?」 全く回りの会話についていかずに一人で勝手に今日の晩御飯なんかを考えていると、聞き覚えのある声にふと前を見た。するともう誰だか分からないほどに目の前に居た、潤慶が、私の頬を両手で覆って「おかえりちゃん」とにっこり笑った。その瞬間、それはもう土石流が流れるがごとく、周囲が「キャー!」とはちきれる声を上げたのだ。 「えー誰誰ー!」 「もしかして彼氏?うっそ知らなかったー!」 「いや、ちが」 「紹介してよー。カッコいいねーうちのガッコじゃないよね」 「だからちがうくてこれは」 「同じ年?どこの学校行ってんの?」 「そーだけどあのね」 「なんかお似合いー。ねー写真とろーよー」 人の話も聞かずにどんどん話が進んでいく周りについていけずカメラまで向けられて、それを何故か私たちはものすごい笑顔で写ってしまって(だっていちたすいちはー?なんてカメラ向けられたら誰だって・・・)、なに私たち「付き合って1ヶ月目のラブラブカップル〜」みたく写ってんのてかそもそもなんでこの人ここにいんの!と頭の中はこんがらがってしまって・・・。そうすると「もーみせつけちゃって、仲いークセにー」なんてどんどん周りは勘違いしてって・・・。(仲いいときましたか!!) 「だから違うんだってば、誤解だ!」 「ちゃんテレちゃってかわいいー」 「アンタが言うなぁ!!そもそもアンタがこんなとこに現れるから!!」 「いーじゃん時の流れに身をまかせだよ」 まったく構わない潤慶を見ているとイラつくどころかどっと疲れる。もうこれは無駄にここにいるより逃げるが勝ちだ、と私はみんなと別れて走り出し、その隣で何故か手をつないで潤慶は、みんなに「バイバーイ」と手なんか振っちゃってついてくる。(てかなんで手ぇつなぐんじゃコイツは!) 走り慣れてない体はよれよれで、この残暑厳しい中汗びっしょりで、なのに手を離さない潤慶は全く飄々と今日のごはんなんか考えてて、そりゃあもう気にするほうがバカバカしく感じてくるほど。 「チゲ」 「えー、暑いじゃん」 「じゃあれーメン」 「チゲの?」 「うん」 「そんなのあるの?」 「作ればある」 「それはもしかしなくても私が」 もっちろーん。と足取り軽く隣を歩く潤慶は、まるで小学生というか幼稚園児というか、むしろ犬だ。きゃいきゃい無邪気な顔して駆け回り擦り寄ってくる犬。 「冷やし中華にしようよ」 「ヤダ、チゲ」 「あたしあんま辛いの駄目だよ」 「おいしーよ、俺も手伝うー。ヨンサもダイスキ」 「え?そうなの?」 「そー」 英士君も好きなら、それもいいかもしれない。そんな安直な思いで、今日のごはんは冷やしチゲに決まった。 「今日も英士君遅いのかな」 「そーなんじゃなーい?いーじゃん先食べてよーよ」 「でも一応待ってたほーが」 「ええー、おなか減るー」 ヤダヤダ、と懇願する目をする潤慶は、その英士君と同じ瞳で訴えかける。それがなんて姑息な手かと思いつつも、こっちが折れずにはいられないのだから、私は弱いのだ。 「潤慶って女に甘える術を知ってるよね」 「人聞きわる」 「彼女とかいないの?」 「いなーい。大事な人はいる」 「へぇ、どんな人?」 「ヨンサ」 軽く言う潤慶のそれを、私はまた冗談かと思ったけど、潤慶の顔をふと見るとなんか真面目で、ああ本当に大事に思ってるんだと思った。そんなことがすっと出てくるなんて、しかも家族相手に。それはなんて、すごいことかと思う。 「俺、ヨンサがいなかったらきっと日本にもいないし」 「うん」 「ヨンサがいれば他は別にどーだっていいし」 「うん?」 潤慶の口端には笑みがあって、それは聞き様によっては暖かいものだけど、私にはどこか冷たい思いに聞こえた。 ヨンサが好きなんだ。 そう、潤慶は私の目のさらに深いところを見るように、見据えて言った。私はドキリと、胸を巣食われた様な気分になって、それでもすぐ笑って「ちゃんと同じだね」なんていう潤慶の言葉が、隠れてやわりとするどく、突き刺さった。家族を大事に思って、好きなんだー、なんていうものとは全く、別のものな気がした。 「・・・じゃあ、もしかしてあたしが家に転がり込んできて、実はものすごく、嫌だった?」 「んーまー、ヨンサが決めたことだし。しょーがない」 「・・・物分かりいーんだね」 「こないだうちにきたヨンサの友達覚えてる?」 「うん?」 「細身の背の高い、髪の茶色い女」 「・・・ああ、あの、カッコいい人」 「アレミチルってゆーんだけど、ヨンサの元彼女」 「・・・えっ」 英士君の、元、彼女・・・ 当たり前な、あってもおかしくないことだけど、なんか、考えもしなかった・・・。 「俺、アレが一番キライ」 「・・・」 ぎゅと、少し汗ばむ私たちの手の間が、窮屈になった。 私の指の関節を絡め取る潤慶の指が、見えない潤慶の目の奥を判らせるようで、それは、深い深いところにしかないもので、暗く重く私に訴えていた。 キライ。 きっと潤慶は、私のことも、少しはそう思ってたんだろう。 |