普通でいられる、はずがないんだ






08.ファースト・キス







潤慶と二人でその日の夜ごはんを食べている時に、英士君が帰ってきた。


「ただいま。何、この暑いのにチゲ?」
「ほらー。だから暑いって言ったじゃん」
「でも食べるでしょヨンサ」
「うん」


食べるんかい。なんて突っ込みを口に出すこともなく、立ち上がって英士君の分も用意した。どうやら英士君も潤慶も、ほんとに辛いものが好きなようだ。

皿によそってテーブルについてる英士君の前に差し出すと、ちょうど電話がなった。この家に電話がかかってきても私は普通に出るようになってた。英士君が「さんが出て駄目な人なんて別にいないから」と言ったことに、私は少し、安心する。


「はい、もしもし」
『もしもし?あ、ちゃん?あたし、ミチルです』
「・・・」


”ミチル”・・・!


『こないだスイカありがとー』
「は、はい、いえ、こちらこそ」
『英士いるかな、代わってもらえる?』
「あ、はい、はい」


あの人だ。今日潤慶が言ってた、ミチル。英士君の、元、彼女。
私は内心の動悸を隠しつつ、チゲを食べている英士君に電話だと伝え、渡した。英士君はごく普通に喋りだしてるけど、そんなの友達なんだから当たり前なんだけど、でも潤慶にあんなこと聞いてしまったからもう私の頭の中は穏やかじゃなくて、だって、あの英士君に、彼女がいたことすら知らなかったのに!


「・・・ねぇ、ミチルさんだよ」
「マジ?」
「うん」


そう潤慶に伝えると、潤慶は意外に普通に「ふーん」と言ってのけた。おまえ、私にあんな敵意むき出しにしたくせに、ふーんで済むのか!


「ねぇ、さっきの話っていつ頃のこと?」
「付き合ってたの?半年くらい前かな。いやもっと前かな」
「ほんとに、ほんとにもう何もないんだよね?」


まだずっとしゃべってる英士君の背中を見ながら、私は小声でぼそぼそと喋った。もう何を話してるのかすら気になって気になって仕方ないんだ。だってあの英士君が一度は好きになったという人なんだ。気にならないわけがない!
・・・なのに電話のほうでは英士君が、「わかった。じゃー今から行くよ」なんて言ってる。うそ!今から?!


「俺今からちょっと出てくる。あとよろしくね」
「あ、はーい、いってらっしゃい・・」


うそうそぉ!今から?こんな時間に?もうどっぷり日暮れてるよ?
そんな内心半泣きの心配しまくりの私にまったく気づくこともなく英士君は「まだ着替えてなかった」と部屋に入っていってしまった。


「気になる?」
「なるよ!なるに決まってるじゃん!なんで潤慶は気になんないのっ?へーきなのっ?」


英士君の前じゃ絶対に言えないような鬱憤を、潤慶に向かってぎゃあぎゃあと吐き出した。でも潤慶のヤツはイヤミったらしく鼻で笑って「素直になったね」なんて頭をなでなでしてくる。ただでさえいらいらしてる私はそんな潤慶の首を絞めることでしかこの不安に波打つ心の中を穏やかに保てなかったのだ。

ああもう気になる気になる!
こんな時間に何をわざわざ会って話しに行くことがあるの?

そんな風に思いを引きずりまくって2階から玄関を出て行く英士君を見下ろしていた。暗い中海の横の道を歩いていく英士君はふと振り返って、窓から見下ろしてる私に気づいて笑って手を振った。英士君に笑顔で手を振られたら振り返すしかないじゃないか。(あーもー、なんであんなノンキなの!)

ああお願い神様仏様。
お願いですから、ヨリが戻るなんてこと、ありませんよーに!!









その後英士君は夜が更けても帰ってこなくて、私は英士君を見送った窓のところでずっと、外を見て待ってた。海が穏やかに月の光を映してて、その穏やかさを少し分けて欲しいと思ったくらいだ。


「・・・」


と、思っていたのだけど、私は意外に図太かったようで、気がつけば眠ってしまっていた。ふと目が覚めたときにはもう12時を回っていたけど、家の中は静かで、どうやらまだ英士君は帰ってないようだった。こんな時間まで、まだミチルさんといるのかな・・・。

そう、またどんよりと沈みかけた時、パリンッ・・・とガラスが割れる音がした。私はまた潤慶がグラスでも割ったかなと思い、音がした1階に階段を下りていって、電気もついてない暗い中で潤慶?と声をかけた。台所の奥の風呂場のドアから明かりが漏れていて、シャワーの音が聞こえていた。なんだお風呂入ってるのか。


「・・・・・・」


あれ、じゃあさっきのガラスの音は、何?
ふと落ち着いて考え出すと、廊下の奥から、きしっと何かの重みを伝える音がした。

え?あれ、英士君かな・・・?
でも、帰ってきたのなら声くらいかけるし、電気くらいつけるし・・・

・・・え?
・・・・・・え?

だんだんと胸の奥がざわざわとしてきて、すると廊下の先の足音もこっちに近づいてきた。私は静かに後ずさって、怖くて逃げるように階段を上がっていく。でもその足音が余計に暗い家の中に響いてしまって、部屋に駆け込んで戸を閉めるけど、足音が2階まで追いかけてきた。

いやだ、うそ、泥棒?変質者?
やだ怖い、怖い怖い、・・・

身体の中心から震えてきて、手まで伝染する。そんな手でドアノブを押さえてるけど、そのドアノブが向こうからガチャっと動いた。また私は大きく驚いて、そのドアから離れて奥まで逃げて、するとそのドアがやっぱり、開いたのだ。

ドアの向こうから黒い人影が、大きくて、きっと男で、のしっと床にその重みを伝えてだんだんとこっちに、近づいてきて、怖くて混乱して声も出ない私に手が伸びてきて、ぐっと、私の手を、掴んだ。


「・・・っ!」


えいし


・・・そう、心の中で叫んだ瞬間、私の手を掴んだその手が、突然ピタリと止まった。


「手、離してください」
「・・・」


小さく小さく、暗い部屋に溶け込むように低く聞こえたのは、潤慶の声だった。今の今まで気づかなかったけど、窓の外のうっすらとした光で部屋の中は少しだけ見えて、その光に照らされて、私の手を掴んで帽子を被った男もうっすらと見えて、その男の、首に、キラッと光る何かも、見えた。


「その手を離してください。じゃなきゃ刺します」


男の後ろに潤慶が見えた。
潤慶は男がもう片方の手に持ってる包丁をゆっくりと取って、男の首にナイフを突きつけたまま私の手を離させる。そのまま男の背中を押して下へ下りていって、玄関を開けた。


「帰っていいです。もううちには来ないでください。次は刺しますから」


首に沿うナイフが、少し食い込む。
潤慶が掴んでいた男の背中の服を離すと、男は慌てた足取りで一目散に逃げていった。


「・・・」


それを潤慶から少し離れたところで、呆然と見る私に、潤慶が振り返る。潤慶は頭から水を垂らして肩からタオルをかけてて、持ってるナイフをくるっと手の中で回して見せた。


「こーゆーの流行ったよね、くるくるって回すの」
「ちょ、ばか、危ない!」


ナイフで遊ぶ潤慶に怒鳴ると、潤慶はそのナイフをパチンと閉じて、私にじっと目を留めた。そしてそのまま近づいてきて、私のすぐ目の前までくると、私の頭をぽんぽんと撫ぜた。・・・その振動で、溜まっていた涙がぽたぽたっと落ちた。


「ハイハイ怖かったねー。もーへーきだからねー」


撫ぜ撫ぜ、潤慶が私を軽く抱いてその腕の中に収めて、背中をぽんぽん叩いて慰めるものだから、 私はまたぼろぼろと涙を流した。


「・・・潤慶って、どこか、時々怖い」
「怖い?」
「うん。笑ってると普通なのに、その笑ってる顔も時々、うそ臭く見える」
「えーヒッドイなぁ」
「なんでそんな、感情ないの?」


私にもたれるように抱きついていた潤慶を離させて、そう、目を見た。
潤慶は、そんなところがあるんだ。話してる時はにこにこ笑って子供みたいに無邪気なのに、ふと会話が終わると急に静かな目になったり、大人びた表情したり。
こう、一気にどこか別の場所へ行ってしまうような、急に別の人になってしまうような、・・・もともとここにいなかったような、そんな感じ。

極端なんじゃない。
もともと、感情が見えないんだ。


「人形だから」
「人形?」
「うそ。人殺しだから」
「・・・」


にこりと笑って、潤慶はまた「うそ」と軽く言った。
もう、この人は、何が本当なのか判ったものじゃない。

とりあえず部屋の電気をつけることにした私たちは、さっきの男が割った窓を見に行った。大きな窓なのに鍵の近くがごそりと割れていて、外の風がびゅうびゅうと吹き込んでいる。滅多とない(と願いたい)体験をした私たちは、ふたりで大きな破片からひとつずつ拾い集めた。


ちゃんのおにーさんてどんな人?」
「兄貴?兄貴はべつに、普通の人。あ、でも時々へんな人」
「へんって?」
「んー・・・。そういや兄貴が高校の時はこんな風によくガラス割ってさ、うるさかったなぁ」
「窓割ってたの?」
「そう。気に入らないことあるとすぐ窓とか壁とか穴開けちゃうの。でもそれって父親のせーなの。絶対そう」
「なんで?」
「酒癖悪くてさ、気まぐれにすぐぶっ叩くの。だから兄貴も絶対それを受け継いじゃってんだよ。呪われてるの。
お母さんだって呪われてるよ、父親の言いなりでさ。それで兄貴が高校出て家出るってゆーから私もついてったの」
「それで今はここにいる、と」
「・・・はい、そうです。頭上がりません」
「いやけっこう上がってるよ君」
「・・・スイマセン」


破片を拾い集めて、あとはもう細かい欠片ばっかりだから掃除機で一気に吸っちゃおうということになった。掃除機どこだっけな、と立ち上がると、その部屋の隅においてある戸棚にやけに可愛いクマのぬいぐるみを見た。


「なにこれ、潤慶の?英士君だったらかなり笑える」
「あーそれ?もらったの」
「女の子に?やっぱモテるんだ」


ぬいぐるみを手にとってかわいいね、と潤慶に見せるように差し出すと、潤慶はそのぬいぐるみに突然、ブスッと、持ってたナイフの切っ先を、刺した。


「・・・」


それにナイフを刺したまま潤慶はぬいぐるみと顔を合わせて、私に目をやる。私は何故か、自分じゃないのになんでか、胸を刺されたように身体の中心が、じわりじわり痛んだ。

そんな私の前で潤慶は、肩からかけてたタオルをすっと取って、背中を向ける。潤慶の背中にはくっきりと、古い、酷い切り傷が無数に見えた。


「おそろい」
「・・・」
「4歳のボクがあまりに泣き止まないので、そばにいた母親は大変イライラしました。
でも母親は子供を泣き止ます方法を知らず、一番手軽で手っ取り早い方法を取りました」
「・・・・・・」
「イ・ヘジュン、42歳。トリ肉アレルギー」


また、へらりと笑う。


「さ、寝よっか。あー、俺風呂入ってる途中だった。もうあとはヨンサに任せよ」
「・・・」


肩にタオルを掛けなおして、潤慶がドアに歩いていく。


「・・・私、」


ぽつりと呟いた私の、声に、潤慶は足を止めた。


「私、中学の時、自分っておかしいんだと思ってた。急に泣いたり笑ったり怒ったり、お母さんに殺される夢見たり。感情の発露がおかしくて、先生に情緒不安定ですとか言われて、普通にしなきゃって思って、がんばって、取り繕って、」


ほら、私、こんなに普通じゃんって


「・・・私は、ヘン?」


何を求めてるのか、私は潤慶に目を上げて、すると潤慶はそんな私に、ふと笑った。


「みんなどっかおかしいよ」
「・・・」
「おやすみ、ちゃん」


そう言って潤慶は、またペタペタ足を鳴らして出て行った。それに続くように私も部屋を出て、思い出すとちょっと怖いけど自分の部屋に戻って布団にくるまってベッドに寝転がった。

見上げると天窓からまん丸な月が見えて、月明かりだけで部屋の中は随分と明るかった。下からはシャワーの音が聞こえてて、その音で私は安心できているようだった。
目を閉じても、怖くなかった。









月がまた少し傾いた頃、帰ってきた英士君がただいまーと声を上げる。でもそんな時間に誰の返事があるはずもなく、英士君は静かに家の中に足を進めた。


「おかえり」
「うわっ、びっくりした潤慶、起きてたの?」
「ヨンサ、板張っといて、板」
「は?板?」


潤慶が指差した窓にはあの穴が開いていて、いまだびゅうびゅうと風が通り抜けていた。すべての事情を聞いた英士君は「なんで警察呼ばないんだ」と潤慶に説教して、軽く言い合う二人は様子を見に、声と足音を静かに2階まで上がってきて私の部屋のドアを開けた。


「ほら、寝てるじゃん」
「まぁ、何事もなかったなら良いけど、潤慶一人じゃないんだからちゃんとしてよ」
「いなかった人に言われたくないなー」


なんか、二人がそこでまた言い合いしだしたみたいなんですけど。
・・・私、実は起きてるんですけど。

足音が近づいてくるのが判って、でもきっと心配されると思ったからつい寝た振りして。すぐに出てくと思ったのになんか話し込んでるし。(ああ最初から起きてるよーとか言っとけば良かった)

そんなことを思いながらひたすら寝た振りしていると、ようやく二人が「寝ようか」と部屋を出て行った。どうやら気づかれなかったようで、私はふぅと小さく息をつく。トントンと下りていく足音を聞いた。


「・・・」


・・・あれ、ドアが閉まる音、した?
それにまだ、誰かいる気がする。

目の前に、すぐ近くにこう、人の気配を感じて、私はバチッと目を開けた。そしたら、月明かりより明るいドアから差し込む廊下の明かりを背に、間近に薄く光る目を見た。一瞬その目がどっちの目か判らなくて、じっと見つめてしまったけど、だんだんと鈍い頭がそれを潤慶だと認識した。

なに、と、口を開こうとした瞬間、その目が更に近づいてきて、口唇が降ってきた。


・・・私は、何が起こったのかよく判らなくて、瞬きすら忘れていると、少し離れてそっと目を開ける潤慶が私と目を合わせて、そしてまたぐと、口唇を落とした。


「・・・!」


ようやく頭が冴えて理解した私はガバッと起き上がり、それと同時に潤慶も身体を起こす。赤面して言葉もなく口を動かしてる私はじっと潤慶を見たまま、でも何も言えなくて。同じく何も言わない潤慶は立ち上がってドアのほうに歩いていって、部屋を出る前にまた振り返って、


「おやすみ」


にこりと笑って、バタンとドアを閉めた。


やっぱり私は、何も言葉が出なかった。















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