10. inpulse

「いっぱい食べなさいねピスタくん、早く食べないとそのおじさんぜーんぶ食べちゃうから。いーいベジータ、その子にもちゃんと食べさせるのよ!」

廊下の果てから母さんの声が響いてくる。
ピスタが父さんの部屋に入ってしまって、すぐに追い出されるかと思っていたのに、ピスタは俺たちの食事中ずっと父さんの部屋から出てこなかった。母さんは父さんの部屋に夕飯を持っていき、ピスタを部屋から出すどころか父さんと一緒に食べさせてる。

「ねぇ、やっぱり迷惑じゃない?」
「ん?んー、大丈夫だよ。・・・たぶん・・・」

はごはんを食べながらも何度も時計を気にかけている。
時間は6時を過ぎたところで、そろそろ教会に向かわないとが言った時間に間に合わない。

「やっぱりさ、教会に連絡して、帰るの明日にしたら?」
「でも・・・」
「無理に部屋から出すのもアレだし・・・、きっと何かワケがあってここまで来たんだろうしさ・・・」
「・・・」

そんなことは、たぶんのほうが分かってるんだろう。
はそんな口ぶりだった。それでも帰れの一点張りだった。

ちゃん、いま教会に電話して、今日はピスタくん預かりますって言っといたわ」
「えっ?」

母さんは部屋に戻ってくるなりそう言って、はハシを止めた。

「心配してらしたけど了承してくれたわよ、今日は泊まっていきなさい」
「だったら、うちに連れて帰ります」
「いいのよ、あした朝イチで送っていってあげる」
「・・・はい、分かりました」

ずっと表情の冴えないは、カチャンとハシを置いて立ち上がる。

「あしたの朝に迎えにきます。それまでお願いします」
、帰んの?」
「ごちそうさまでした」

隣に置いてたカバンも手にとって、はぺこりと深く頭を下げた。

「あらダメよ、ちゃんもいなきゃ」
「いえ、私は」
「ピスタくんが出てきたときにちゃんがいなきゃかわいそうでしょ?ほらブラ、こぼさないの!ちゃん拭いてあげて」
「・・あ、はい」

の話なんて聞かない母さんが俺の隣に座ってハシをとる。
はまたイスに座って、隣のブラの口周りを拭いた。


そのあとは、食事を終えてもピスタは父さんの部屋から出てこなくて、どんどん夜は深まっていった。

は残っていた課題の論文を書いていて、それを横から覗く母さんと難しい話をあーだこーだと話す。時折俺にアンタもこのくらい分かるようになりなさいよと理不尽な文句が飛んできた。俺だって悪いほうじゃないけど、このふたりと一緒にされちゃ困る。(授業でしか勉強しない癖に、なんだその聞いたこともない単語は・・・)

それでもやっぱりは頻繁に時計を気にした。
やっぱりピスタを気にかけているのは誰よりなんだと思って、安心した。

「ねートランクス、ピスタくん寝ちゃったみたいよ。部屋に運んであげてよ」
「父さんの部屋で?」
「そーよ。部屋はちゃんがこの前使ってた部屋でいいわよね。ちゃん、ふとん持ってくから手伝ってくれない?」
「はい」

完成したらしいの論文を読んでいると、フロ上がりの母さんがそう言ってきたから俺は父さんの部屋に向かった。部屋に行くと父さんは変わらずいつもの窓辺のソファに座ってたけど、ピスタはテーブルの椅子の上で眠りこけていた。

「父さん、ピスタと何話したの?」
「何も話していない」
「へぇ・・・」

すごいな、父さんの部屋で何時間も座ってられるなんて・・・。
俺はピスタを起こさないように抱き上げて、父さんの部屋を後にした。
閉じこもってたからにはずっと泣いてたのかなと思ったけど、目を閉じてスースー寝息をたててる幼い寝顔にさして曇りは見えず、泣きはらした様子もなかった。(ほんとに何してたんだろ・・・、気になる・・・)

「そんなの気にしなくていいって言ってんのに」
「もうこれ以上こちらのお世話にはなれません・・・」

前にが使った部屋にピスタを運んで行くと、中にいるんだろう母さんとの声が聞こえてきた。ふとんを敷きながら話してる二人の声のトーンがやけに神妙で、俺はドアの手前で立ち止まった。

ちゃんは頭いいクセに、そういうとこヘタよね。人の好意はありがたくちょうだいしておけばいいのよ。もっとじょうずに生きなきゃ疲れちゃうわよ」
「はぁ・・・」
「人に頼らないで甘えないでって生きてくことが自分で生きてくってことじゃないと思うのよね。まぁうちにも似たよーなのがいるから分からないでもないんだけど」
「・・・」
「もっと言えば、トランクスなんて都合いい子がいるんだからもっと使っちゃえばいいのよ。いいわよーあの子、なんでも言うこと聞くしよく働くし」

母さん・・・(も、そこ笑うとこじゃない)

それから母さんたちの話は少しずつずれていって、もう俺が入っちゃダメなような会話はしてないんだけど、今度は入るタイミングが分からなくなってしまい、結局俺は母さんたちの話が終わるまでその場で待ってしまった。

聞こえてくるの声色はだんだん元通りになっていく。
ずっと申し訳なさそうな、冴えない表情も母さんと話すうちに消えてったみたいだ。

母さんはすごいと思う。何も考えてないようで、ちゃんと人のこと分かってて、無茶いうのに誰にも煙たがられない。どう言えばいいのか分からない、言葉が見つからないような人でも、母さんは気がつけば話をしてるような。

(じゃなきゃあの父さんと一緒になんていられないか・・・)

が言った、だったら人に頼ってないで自分で生きていきなさいよなんて言葉は、とても子供に言うせりふじゃない。けどそれは、1年前のが出した答えだったんじゃないか。15才のが一人で生きてくことを決めて、胸に刺した信念だったんだ。

いまになって、ようやく母さんが言ったことの意味がわかってきた。
俺がを分かろうとするのは、分かり合おうとするのは、難しい。

「あらトランクス、遅かったじゃない」
「あ、うん」
「じゃ、あとよろしく。おやすみー」
「おやすみ」

部屋から出てきた母さんはそのまま俺の横を通り過ぎて歩いていった。
ピスタを抱いたままだった俺はようやく部屋に入る。
は開いてる窓の外のバルコニーにいて、夜の暗さの中で風に髪を流しながら外を見ていた。窓から流れてくる風は少し冷たい。俺はピスタをベッドに寝かせて、深めにふとんをかぶせた。

、寒くないの?」

窓辺に寄っていってうしろ姿のにそう声をかけると、は少しだけ振り返って大丈夫と小さく答えた。そうは言っても夜の風、は長袖一枚で決して寒さを防げる恰好じゃない。俺は上着を脱ぎながらバルコニーに一歩踏み出し、するとその音を聞きつけたがまた何かをつぶやいた。

「え?」
「・・ごめん、来ないで」

まだ眠らない夜の街にまぎれて、あまりに小さなのくぐもった声。
手すりに腕をついて顔を覆ってるうしろ姿は、頬杖というより・・・

「・・・」

腕を引いて振り返らせると、頬を流れていた一滴がポトリと落ちた。
は俺と顔を合わせないようにうつむいて、そらすけど、涙が流れた道筋と濡れたまつ毛は残ってて・・・

は俺の掴む手から離れてまた外を向く。
なびく髪を押さえるように頬をぬぐい、音を立てずに涙を止める。
髪も、肩も、ここにある存在すべてが、夜に溶けていきそうで。

俺はその肩に上着をかぶせ、そのまま抱きしめた。
寒くなくなれば、冷たくなくなれば、哀しくなくなればいいと思った。

きつくこぶしを握って、だけど腕に力は入れないで。

力を抑えることがこんなに苦しかったのは、初めてだった。