Strawberry
喉が裂けて血が溢れ出たみたいな味を、うまく出てこない荒い呼吸の中で感じ取った。普通に歩く足すらもつれ、体育館の端に行き着くとどさりと座り込む。いや、座り込む力もなく倒れて仰向けに寝転がった。これを休憩以外で、つまり練習中にすると即刻体育館から追い出されるんだから、必死だ。
高い天井はぼんやり揺れて、光ってる電球が白くて眩しい。息をするために空気を吸い込むのもしんどくて、息って勝手にされるものじゃなくてやっぱ自分でするもんなんだなぁとどうでもいいことが頭をよぎった。
「大丈夫か清田」
目の前に広がる天井の前に、神さんが顔を覗かせた。日焼けなんてしなさそうな白い顔にいっぱい汗をたらしてるけど、何でかその顔は疲れ知らずに見える。神さんは俺の横に座ってホラとドリンクを俺の顔の横に置くけど、俺はそんな神さんに礼を言う余裕もなく全力でうつぶせに寝返った。
「しぬ・・・、ハンパないっすね・・・」
「慣れるまでが大変なだけさ。よくついてきてるよ」
「そー、っすかね・・・」
吐きそうになりながらも、口の中の唾液がマズくてドリンクを飲み込んだ。中学のときもそれなりにきつい練習量をこなしてきたはずなのに、あんなの何もしてなかったと同じくらいここの練習はハードで、そろそろ1ヶ月が経とうとしてるのにまだ慣れずに何とかギリギリケツにひっついていってる感じだった。
「どうした清田、限界か?」
硬い床に額をごり押して死ぬように寝そべっているとそんな声が降ってきた。重くて体は動かないはずなのに、その声に俺はすぐにガバッと顔を上げ声のほうを向く。そこにはドリンク片手に肩からタオルをかける牧さんが余裕な笑顔で俺を見下ろしてて、俺は力を振り絞って体を起こした。
「ぜんぜん、へーきっす」
「そうか?いつまでもそんなバテバテじゃ次のメニューに進ませないからな」
「大丈夫っす、早く続きしましょーよ」
どっからどう見てもただの強がりな俺の台詞に牧さんはフと笑って去っていった。牧さんといい神さんといい、同じ練習量をこなしていてもこんなに余裕を見せてる。俺も早くそのくらいにならないと、スタメンなんて夢のまた夢だ。
「くそぉ、死んでも生き残ってやる」
べっとり汗の滲んだ手でドリンクを掴みぐいっと煽る。ボトル半分くらい入ってた中身をごきゅごきゅと全部飲み干すと、隣で静かに笑ってた神さんも同じようにドリンクを口にして、また集合のかかったフロアの真ん中に向かって俺たちは歩いていった。
ガチン、と重い時計の針が8時を差した頃、体育館のドアを開け「終わったー!!」と両腕を突き上げ叫んだ。全身から汗は流れ落ちて足はくたくたなのに、終わったとなると急に元気になるから不思議なものだ。
部室の水道に頭をバシャバシャと突っ込んで、ガバッと頭を上げ水を振るい飛ばすと傍にいた神さんが飛ばすなとタオルを押しつけてきた。それでガシガシと頭を拭き、さっぱりした頭をまた振るうと後ろから「なぁ清田」と呼ばれ、振り返ると2年の先輩がいた。
「お前って清田の弟なの?」
「え?はぁ、そうっすけど」
「マジで?知らなかったー」
いつもこの部室は和気藹々というよりみんな黙々とすべきことをする、といった感じで、それは同じ仲間でありながらたった5人という少ないスタメン枠を争うライバルであることを物語っているようだった。でも今そんな話を振ってきた先輩たちはいつもの堅い空気なんて感じず、クラスメートかってくらいの軽いノリ。というか、姉の名前を男の口から聞くというのは、なんとも慣れないものだ。
「清田と姉弟ってどんな感じ?」
「どんなって言われても、フツーっすけど」
「家に清田がいるんだぜ?うちの姉貴なんてヒデーよ、うちは家畜小屋じゃねーっつーの」
「うわヒッデーお前」
「だってどーせ毎日見るならかわいーほーがいいに決まってんじゃん」
「そりゃそーだけどさ」
俺に話しかけてるのか自分たちだけで盛り上がってるのかよく分からない空気が目の前に広がっていて、俺は特に何も言えずに途中まで袖を通していたシャツを被った。家にがいるのは当たり前だ。姉弟なんだから。それの何がいいのか。
「俺清田に入れたもん、人気投票」
「あ、俺も」
「・・・はいっ?」
あまりに俺をほっぽって話が進むから聞き流していたけど、そこだけは聞き捨てならずに思わず振り返った。
「人気投票って、あの?姉ちゃんに?マジっすか?!」
「ああ、なんで?悪い?」
「いや、べつに悪かないっすけど、もっと他にいるんじゃないっすかねぇー」
「そーか?かわいーじゃん。2年の中じゃトップとってもおかしくないよな?」
「いつも見てるからわかんないんだろ。アレ基準にすると相当レベル高くなるぞ?」
「はぁ、そんなもんっすかねぇ・・」
そりゃ別に、を悪いとは思わない。客観的に見れば(そしてあの性格を抜かせば)かわいい部類に入る、かもしれない。
でもなぁー、なんだかなぁー・・・。
「私生活に清田がいるんだもんな。風呂上りとか寝起きとか普通だろ?」
「でも姉貴は姉貴っすから。しかもアイツ寝起き最悪!起こそうもんなら命がけ!俺本気でハラに蹴り入れられたことあるんすよ、あん時はもう朝メシ食う気も起きなかったくらいに・・」
「っあー、そーゆーのがいーんだよ!オイシーなおまえ!」
いーやアンタらは分かってない!あいつの蹴りの威力はハンパない!意識ないから手加減まるでナシで、その上それを起きたときに覚えていないんだから余計にタチが悪い!
「いーよなぁ。俺だったら絶対ヤリたくなっちゃうな」
「・・・バッ」
「バカ言うなっ」
頭の中が一瞬止まって、口だけが先走ろうとした。
けど、そんな俺よりもっと早くにそう叫んだは後ろで静かに着替えてた神さんで、突然怒鳴られたことも、それが神さんだってことにもみんな驚いて部室の中はシンと静まった。みんな神さんを見てぽかんとしてて、当の本人である神さんもなんだか驚いてるような顔をして。
「どーした、神」
「や、悪い・・・」
「なんだよ神、実はお前も清田姉ファンか?」
「いや、そんなんじゃないけど、」
「神にゃ刺激が強すぎたか?ドーテーだから」
「言ってろよ」
会話のうちに神さんの顔は次第に元に戻っていった。いつも通り周りの会話にさらりと笑って、差し支えなく答えている。神さんのあんな声を聞いたのはみんな初めてだろうに、その後の神さんがあまりにいつも通りだから気を止めることなく流されていった。
俺も、神さんが声を荒げることなんてあるんだなぁくらいに思いながらからかわれてる神さんを見ていた。すると神さんが不意に俺に目を寄越して、バチリと視線がかち合った。そのときの神さんの表情がいつも俺を見るような、周りを見てるような目とは違って、どこか不安気な、様子を伺うような目だった。
部室から暗い夜道へ出てみんなが帰っていき、俺もカバンを担いで校門を出て行った。同じ方向の神さんといつも通り一緒に歩いてたけど、俺も神さんもお互いに妙な気を使ってるような変な感じで、会話らしい会話も出来ずに暗い中をテクテク歩いてた。いつもなら何も考えなくてもどうでもいい話題が出てきたのに、なぜか今は考えても何も思い浮かばない。でも黙って歩き続けてるのもなんかヘンだ。というか空気が重い!
「ごめん、清田」
「・・・えっ?」
必死に何か会話会話と考えてた俺は考えすぎていて、突然切り出した神さんの声に一瞬気づかなかった。
「あいつら調子乗っていろいろ言ってたけど、姉弟のことそんな風に見られるの気分よくないよな。あいつらも悪気あってじゃないから許してやって」
「ああ、いや、あんなのぜんぜん平気っすよ」
「そう、それならいいけど」
突然何を謝るのかと思ったら、俺はすでにそんなこともう忘れてたんだけど神さんは丁寧に人の分を謝った。でも神さんはまだなんだか歯切れが悪く、もっと言いたいけど踏ん切りがつかず口ごもってるような、困ってるような顔をしてる。
「えーっと・・、もしかして神さん、姉ちゃんのこと・・・、すき、なんですか?」
神さんは俺に目をパチリと合わせ、俺の言葉に少し驚いてから目線を外してまた困った顔をした。
「いや、そう、はっきり思ってるわけじゃなくて、・・・いや、んー・・・」
「・・・」
きっと今の神さんの頭の中はいろんな思いが回りに回って、でもその思いを全部俺に出すのはためらってるんだろう。自分の中でも定まっていない思いを、その相手の弟である俺になんて、きっと気が引けてるんだ。そんな神さんの渦巻く思考の断片がその拙い口からポロポロ毀れ出てきて、・・・なぜか俺はこの人を心からかわいい人だと思ってしまった。
「いーんすよ、俺に気ぃ使わなくて。俺それ知っても別になんも変わんないっすから」
「・・・悪い」
「何謝ってんすか、謝ることなんて何もないっすから!いや、でもなぁ、むしろなんで神さんほどの人があんな・・・。あれ、でも神さんって今年初めて姉ちゃんと同じクラスになったんすよね。いつ好きになったんすか?」
「や、ほんと自分でもよくわかんなくて、ほんとにそういう、すき、とかいうものなのかも」
「んーでも、先輩たちにあーいう風に言われてムカついたわけだから、やっぱ好きなんじゃないっすかねぇ。てか神さんが怒鳴ったトコなんて初めて見たし!」
「ん、アレはなぁ・・・」
まずったよなぁ。
ずっと口元に手をやって困ったような照れたような落ち着かない気持ちを表す神さんは、ただ分からないだけで、認められないだけで、傍から見れば十分ハマってしまっているように見える。それは恐ろしく純粋なものに見え、清らかなものに見え。でもその相手というのがだというのがやっぱり、俺にはどーも納得いかないもので・・・。
「あ」
慣れない会話をしながら駅に向かっていた俺たちは、目先の自動販売機の前に「あ」と声をもらしてしまう姿を見た。暗い中でぼんやり辺り一帯を明るくしている自動販売機の明かり。その中にいたのはで、対峙している男は誰だか知らないが同じ学校の制服を着てた。暗い中で一部だけ明るくなってる場所にいるせいか、ふたりはきっと昼間に見るより寄り添っているように見え、でもそのふたりがかもし出している微妙な雰囲気は夜のせいだけじゃないようだった。
男の前では小さく頭を下げた。それで男は表情のトーンを落とし、粘るように話しかけてるようだったけど、またが頭を下げるとどうしようもなく気を沈ませた。落ちていく空気を無理に上げて、一部だけ明るい世界にを残して男は暗い夜へ出ていった。
どう見てもアレは、告白シーンだっただろう。たった一節しか見ていないけど、まるでひとつの物語が始まりそして終わったような場面。その場に残されたはため息をつくようにドンと自販機に背もたれる。俺は神さんとまた一度目を合わせ、その場にひとり居残っているに向かってひょいと足を進ませた。
「あーあ、フッちゃって」
突然傍から聞こえた声にはビクッと体を揺らして振り返った。きっとめちゃくちゃ気を抜いていたんだろう、聞こえた声が瞬間的に俺だと判別出来てなかったみたいだ。
「なによ、見てたの?」
「今の誰?3年?かわいそーになぁ本性も知らずに・・・。あ、そのほうがまだ幸せか」
「黙って見てないでよ気持ち悪い」
「てかこんな夜道でふたりっきりでさ、期待させといてゴメンナサイはないんじゃないのー?」
「うるっさいな、さっきまでみんないたん・・・なんでアンタにそんなこと説明しなきゃいけないのよっ」
べしっと俺の腕を叩くとは自販機の明かりの前から月明かりの下へ歩き出した。
「いってぇ。神さん、これがコイツのホンショーですからね、よーく見といてくださいよ」
の後ろを歩き出しながら神さんにそう言うと、神さんは少しだけたどたどしくでもいつも通りに軽く笑った。それを聞いてか、前を歩くが振り返り神さんを見る。どうやら夜の暗さと俺の死角で、俺と一緒に神さんがいることに気づいてなかったみたいで、でもは神さんを認識しただけで特に何も反応せず前を向きそのまま歩いた。そりゃないよ、もう少し何か反応してあげてよお姉さん。
「なー、なんでフッたの?」
「べつに理由なんてない」
「理由なくフラれたらたまったもんじゃねーって」
「理由があったら付き合うの、ないから付き合わないの」
「けどそーゆーのはこー、付き合ってみたら分かるってもんもあってだな」
「あんた何様」
「知らないな?俺様の中3のときの人気っぷりを」
「知らない」
俺と姉ちゃんと神さん。そんな思えば不思議な取り合わせで歩く俺たちは駅に着き改札をくぐった。ずっと俺とがしゃべるばかりで神さんはまるで話さない。まぁ普段でも俺がベラベラしゃべるばかりで聞き役の神さんは合間に(的確な)口を挟むというのがほとんどだけど、今はそんなんじゃなく、ただを前にして何もいえないだけな気がする。(ああもうなんてかわいい人なのだろう)
しょうがない。ここはひとつ俺が、尊敬する先輩のためにキッカケというものになってやろう。
と俺はひとつ咳払いをした。
「そこでだね、」
「お姉ちゃん」
「うるせーな黙って聞け。お前はワガママだから何でもでっかく受け止められる人がいーんだよ。そこでこの俺イチオシ!王者・海南で2年にして堂々のスタメンをとり神奈川ナンバーワンシューターとの異名を持つ偉人、顔良し・頭良し・性格さらに良しの大先輩、神宗一郎さんをご紹介しよう!」
「清田ッ」
薄々嫌な予感がしてたのか、ぐいと神さんをの前に引っ張り出すと神さんは焦って俺の腕を掴んだ。はといえば、なんとも冷ややかな声で俺に向かって「アンタ何」と言い放つ。(確かに自分でもまるで通信販売に出てくる男みたいだと思った)
「神さんはいーぞー?やさしーし心広いしカッコいーし根性あるし」
「何が言いたいの」
「だからおススメしてんじゃん。これから俺がお前の本性をトクと語ってやるから後々ウンザリされる可能性も低い!おーぶねに乗ったつもりで・・」
バコッ!・・・とカバンを俺の後頭部にぶちかまし、は流れ込んできた電車に歩いていった。
「ってぇ〜・・・!ほらね、あいつと付き合ってると体がいくつあってもたりないんすよ!アレのどこがいーんすか、やめるなら今のうちっすよ!」
「清田が悪いと思うよ」
「あ、ひっでぇ!」
そう言い残し、神さんもドアを開ける電車に歩いていった。
みんなのためを思ってがんばってるのに!
全てから見放された俺は、響く発車のベルに負けじと痛む後頭部を押さえながら叫んだ。