Discomfort index



玄関のカギが開く音と、のただいまと呟く程度の声が聞こえた。それを聞いて母さんは、やっと帰ってきたとパタパタ玄関に向かっていく。あの後まっすぐ家まで自転車をこいできた俺は今頃やっとメシにありついていて、でもそのが帰ってきた音を聞いて急ぎごはんを口に詰め込んで、お茶で口の中のものを胃に流し込んだ。


、もう少し早く帰ってきてちょうだい、もう10時半じゃないの」
「うーん」
「外暗いんだからひとりで歩かないでよ、今日は送ってもらったの?」
「うーん」


母さんの小言を聞いてるようないないような生返事でリビングに入ってくるは、もちろん俺にも目もくれずにカバンの中から空っぽの弁当箱を出してテーブルの上に置いた。送ってもらったというなら、神さんは今からやっと家に帰れるのか。こんな時間まで引っ張り回されて、神さんが気の毒で仕方ない。


「ノブ、あんたもお弁当箱出しなさい」
「カバンの中」


そのままは俺に気を留めることもなく、テレビの前のソファに座っていた。俺はそのまったくの無視っぷりにじわりと腹を立て、イスから立ち上がると床に転がるカバンを足で指し示してリビングを出ていった。


「何あの子急に。、またケンカしたの?」
「知らない」
「やーね、反抗期かしら。あの子反抗期らしい反抗期、なかったから」
「今頃?迷惑なやつ」
「あなたが悪いのよ、本当なら反抗期になる時期に、あなたがあの子に心配ばかりかけるから」
「は?何それ」


テレビのリモコンを一通りいじるけど、何も面白い番組がなかったは立ち上がりテーブルについた。神さんとメシ食ってきてハラは空いてないはずなのに、皿の上のポテトサラダをつまむ。


「あなたが中学の時、遅くまで帰ってこないとあの子ずっと起きて待ってたのよ」
「・・・うそぉ」
「ほんとよ、お父さんが玄関のカギ締めても見つからないように開けておいてあげたり、自分のごはん半分とっておいてあげたり。夜中こっそりおにぎり作ってたこともあったわねぇ」
「あれ、お母さんじゃなかったの」
「ノブよ。あの子は小さい時からいつもお姉ちゃんのあとくっついてくような子だったのに、あの頃のあなたは遅くまでフラフラ遊び歩いて帰ってこないから、あの時のノブの寂しそうな顔はお母さん忘れられないわぁ」
「・・・へぇ」
「ノブは反抗期もなくていい子に育ってねぇー、なのにあなたときたら・・」
「あー、あたし、お風呂入ろっかなぁー・・」


耳が痛くなってきたは立ち上がり、指を舐めながらそそくさとリビングを出ていった。母さんの小言は止むことなく、がパタンとドアを閉めてもまだその向こう側からぶつぶつと聞こえていた。


時計の針がふたつともてっぺんで重なろうとした頃、2階に上がっくる足音が聞こえて俺はベッドの下に転がっていたデッキのリモコンを手に取った。手探りで音量のボタンを触り、ピピピと音量を上げると二つの大きなスピーカーからドンと大きな音が流れ出す。
部屋の手前にある俺の部屋の、扉の前を通り過ぎようとしたはその音を聞きつけてドアを開けた。たぶん一度ノックくらいしたんだろうけど、俺は枕に顔面を埋めてベッドに伏せているし、この音だからノックなんて音聞こえなかった。


「ノブ、音大きい」


ドアを開けると、一層大きな音が耳に飛び込んできては眉をひそめた。
だけど俺は顔を上げない。音も下げない。


「ノブ」
「・・・」
「ノブってば」


大きな音楽の中、そう大きくないの声はかき消されてうまく届かなかった。
けど俺には第一声から聞こえていた。
けど起き上がらなかった。

すると、が中まで入ってきたのか、ベッド下にぶら下げていた俺の手からリモコンを奪い取り大音量で流れる音楽を止めた。


「なんだよ、勝手に止めんなよ!」


軽く握っていたプラスチックの感覚が奪い取られ、俺はやっと顔を上げておそらくすぐそこにいるだろうに向かって怒鳴った。

けど、その顔を上げた瞬間にポトッと、何かが頬に当たって思わず目を閉じた。
咄嗟に拭いながら頬に落ちたものを確かめると、ただの水だった。
の髪先から落ちてきた、冷たい水。


「・・・」
「耳悪くなるよ。悪くなるのは頭だけにしときな」


風呂から上がったばかりらしいは肩からタオルを提げ、濡れた髪から落ちる雫がぽたぽたとシャツや肌を濡らしていた。

風呂あがりの湿気と、シャンプーのにおいが居慣れた部屋に充満してる。
俺は不意に、寝転がってた体を起こして壁にドンと背をつけた。


「いって・・」
「あとお風呂入りな、そんな汗だくの体でよく寝てられるね」
「い、いいだろ別に・・、早く出てけよ!」
「別にいいけど、寝るなら電気消しな。あと私も寝るからもう音楽流さないでね」
「分かったから、早く出てけ!」


壁に背をつけたまま、脚にかかったタオルケットごと足をばたつかせて追い払おうとした。


「何怒ってんの」
「べつに、怒ってねーよ、いいからさっさと出てけってば!」


あまりに焦って部屋から追い出そうとする俺を、はおかしく思ったのか、何か隠してるのかとジロジロ俺のことを見てくる。またポツポツッと俺のベッドにの髪から落ちる雫がシミを作って、なんかそこからもの匂いがするかのようで、俺はベッドから立ち上がってを部屋から押し出した。

バン!と締めたドアの向こうで、が「本当に反抗期かな」と呟きながら遠ざかっていった。奥の部屋のドアが閉まる音を聞いて、俺はぐしゃぐしゃ頭を掻きながらドアに背を付いてズルズルとしゃがみ込んだ。


「なんなんだよ、ちきしょー・・・」


さっきはあんなに不機嫌だったくせに、今はそんなのさっぱり忘れてるみたいに普通だ。そんなの身勝手はいつものことなのに、何でだかそれがどうしようもなく腹立った。

すぐ出て行ったのに、部屋には風呂の匂いが残っていて、でも俺の部屋の匂いもちゃんとあって、そのふたつが混ざり合ってるみたいだ。匂いが腹の底でぐるぐるして、ものすごく気持ち悪くなって、ぎゅっと腹を抱きしめ息を止めた。


「・・・っ」


が、この家にいることも、風呂あがりにフラフラしてることも、俺に触れるのも、今まで当たり前にあったことなのに、なんで今じゃこんなに、気持ち悪さを感じるんだろう。

気持ち悪さ・・・?
不快なような、居心地悪いような、でも吐き気がするわけじゃない。
なんだかよく分からない。とにかく、じわじわと腹の底が落ち着かない感覚。

が、本当に、血のつながりもない他人だったとしたら・・・

そう思うと、今までずっと普通だったものが、普通じゃなかった気がして、全部が違和感だったんだ。が俺に声をかけるのも、傍にいるのも、触れるのも、全部がいちいち気に障って、胃が痛くなる・・・。

が離れて行こうとすると、つなぎ止めようとする幼い俺がいて、なのに、こんな風にが俺の傍にくると背を向けたくなる今の俺がいる。


なんで、はうちにいるんだ?
他人なのに、なんで姉として当たり前にこの家にいるんだよ。
ここんとこ毎日そんなことで頭を悩ませて、心臓を痛めて、胃を苦しくさせて、考えたくなんてないのに、頭から絶対に離れない。

俺の傍からいなくなってくれればいい。
そう思うくらい、どうにかなりそうだった。
でも頭の奥の、奥の、どこかの部分では、小さな俺がを探してて・・・

吐きそうなくらい、泣きだしたかった。