体操服を脱ぎ、いまだ汗の流れる体をタオルで拭う。
夏の熱気の真下で動き続ければシャツもぐっしょり重い。
「おー轟、は?」
「相澤先生に言われて保健室行った」
「モロ耳に当たってたもんな……、爆豪の奴!」
みんなより遅れて更衣室に入ってきた切島は怒りを思い出し手に拳を打つ。
「爆豪は?」
「まだ寝てんよ、動けねぇって。良い薬だぜ」
「しっかしマジで爆豪がのされたんか? に?」
「おまえら惜しーことしたな、アレ見逃すなんて」
基礎訓練はそれぞれの個性や特性によりメニューが違い訓練場もそれぞれな為、主にグラウンドにいたのは接近戦闘の訓練を行っていた者だけだった。
「轟くん、期末の演習の時もさんはあんな感じだったの?」
「ああ」
「マジか、見たかったぜ。相手相澤先生だろ?」
「しかし本当驚いたな……、並みの技量じゃないよな、アレは」
「そんな凄かったの? 爆豪どうやってやられたの?」
「いや……正直俺たちもよくは」
「なんだよそれ! 見てたんだろ?」
見てたけどさ……。何も答えられず切島はロッカーを開けた。
「俺、前に、さんにさ、何か武道やってたのって聞いたことあったんだ。春にやった戦闘訓練の時のさん、凄かったからさ」
「戦闘訓練って、あん時は轟に一瞬でやられただろ」
「轟との時じゃなくて、俺たちとやった時のだろ?」
「そう、あの時も俺凄いって思った。だからそう聞いたんだけど、さんにスポーツはしてないって言われたんだ。俺、そう言われてちょっと……腹立っちゃって」
「え、なんで?」
「武道はスポーツじゃないと言いたいんだろ?」
「うん……。けど、さっきのさんの蹴り……、完璧だった」
「尾白、アレ見えたんか」
ロッカーに向いたまま俯いている尾白がネクタイをぎゅと握り締める。
轟は尾白の話で戦闘訓練の時のことを思い返した。確か泪は砂藤と口田との対戦の時にこれからというところでオールマイトに強引に止められていた。オールマイトが事前に知っていたのか咄嗟に感じ取ったのかは分からないが、今にして思えば、止めたのはあのの”悪癖”のせいだったのかと思う。
「轟、はどう言ってるんだ?」
「どうって?」
「聞かなかったのか? 何故あれだけの技術を持っているのか」
制服に着替えた轟は常闇から目を離しロッカーをパタンと閉める。
「聞けるわけねぇだろ」
まぁ……そうだよな。誰もが口を閉ざした。
みんなの事情を聞いた時、ネット上に溢れるあらゆる記事を見た。
国際情勢に触れたリアルなものから、まるでコミックのような創造も。
「保健室に寄ってくるから先に行っててくれ」
「待ってくれ轟くん、僕も行く」
「様子見てくるだけだ、大勢で行っても迷惑だろ」
急いで荷物をカバンに詰める飯田と緑谷を置いて轟は更衣室を出た。
教室とは反対側に廊下を進み奥に見えている保健室の表示に寄っていく。
失礼しますとドアを開けると、すぐ傍のデスクにかけていたリカバリーガールが「おや」と声を漏らした。
「どうしたんだい、どこか痛むのかい」
「いえ、は」
「様子見に来たのかい、いい心がけだねぇ」
よいせ、とイスから立ち上がるリカバリーガールは杖を突き、カーテンがかかっている奥のベッドへ寄っていくと境目をすいと僅かだけ開けた。リカバリーガールのうしろからカーテンの隙間を覗く轟は、ベッドの奥で壁を背に座ったまま目を閉じているを見た。
「耳は大したこと無かったよ。出血もなかったしね」
「……寝てるんですか?」
リカバリーガールの個性”治癒”は、どんなケガも治すがその原理は本人が持っている治癒能力を活性させること。治癒後は体力を削られ、あまりに大きなケガの場合は無理に治癒をすると逆に死ぬ。訓練がハードなヒーロー科には無くてはならない存在であり、轟も先の体育祭では世話になった。
「近頃この子の周りは騒がしいからねぇ、疲れてるんだろう。相澤には言っておくからこのまま寝かせといてやりな」
カーテンから手を離しリカバリーガールは元の席へ戻っていく。
教師たち同様リカバリーガールもの事情を承知している。何よりこの妙齢の女性は長きにわたり雄英に勤務し、今のプロヒーローたちの多くをこの保健室で見守ってきた雄英の屋台骨となっている人物。
「この前の試験、良かったじゃないか。体育祭の時よりずっと晴々した顔してるねあんた」
期末の演習試験をモニタリングしていたリカバリーガールは轟との試験の模様も見ていた。体育祭の時はもっと厳しく堅い顔をしていた轟がこの短期間で随分変化したことをリカバリーガールも気付いていて、体育祭の表彰台でもオールマイトに言われたが、教師……大人というのは思っているより、子どものことを見ているんだなと轟は思った。
「あの耳のケガは爆豪だって? 訓練中のことかい」
「いや……爆豪がに一方的に絡んで、不意打ちで」
「その爆豪は今どうしてんだい」
「まだグラウンドにいるらしいです。その後相澤先生が試合させてにやられたんで」
「のされちゃったかい」
ははと肩を揺らしながらリカバリーガールは急須を取り、飲みかけの湯のみにお茶を足す。
「で、あんたはあの子に興味を持ったのかい」
「そりゃあ、あれだけの力持ってますから。あいつがやる気になってりゃ体育祭だってあいつが一位だった」
「でも爆豪には撃たれた」
「あいつが避けなかっただけです」
「何故」
「やる理由がないって言ってました。何の為にやるんだって」
「そう、何の為。相澤が試合をさせたって言ったね。あの子にとって戦う理由はただ”命令”なんだよ」
「命令?」
「やりたいか、やりたくないかじゃない。やる理由があるか、ないかでもない。戦えと命令があるか、ないかだ」
もう幾分か冷えてしまっている渋いお茶をズズと口に含む。
「轟、あんたもヒーローを目指すなら、あの子という人間をよく見ておきな。それはあの子の持つ強さや過去のことだけじゃない。大きなベッドを用意されても大の字になって寝ないあの子の姿をよーく覚えておきな」
「……」
轟は陽が差し込んでいる窓辺の、奥のベッドを見る。
白いカーテンの隙間から見た、小さく身を寄せ静かに俯いていた寝姿。
そろそろ予鈴が鳴るよと言われ轟は保健室を出て教室へと向かう。
中に入るとちょうど予鈴が鳴って、もうきちんと席についているみんなが轟に振り返った。
「おお轟、は?」
「もう治ってた。大事取って休んでる」
「そっか、まぁとりあえず良かったか。こっちでも更に大事件が起こったぜ」
「大事件?」
轟が反復すると、切島が半ば笑みを噛みながら窓辺の爆豪へ目を向ける。
「爆豪くんがくんを殴ったと聞いて、葉隠くんが怒って爆豪くんを殴ってしまったんだ」
「透ちゃんはああ見えてファイターなの」
前の方の席では爆豪が不機嫌に頬杖をついていて、その前の席で葉隠もまたフンフンと肩を怒らせていた。葉隠がやってなきゃ俺が殴ってたぜ。ずっと怒り冷めやらなかった切島も落ち着きを取り戻したようだった。
放課後、すぐに席を立った爆豪を切島は「泪が戻るまで待て」と止めたがやはり爆豪は帰っていった。教室を出た爆豪に葉隠は殴ったことを謝ったが、爆豪は謝るくらいなら殴るなと吐き捨て去っていった。
夏の日は長く西陽が強く照りつけている保健室。
放課後になり多くの生徒たちが帰っていく姿を窓から見ていたリカバリーガールはカチカチと音をたてる時計を見上げた。ちょうど5時へと進んでいく秒針。そろそろかねとリカバリーガールは急須に茶葉とお湯を入れた。ふたつの湯のみにお茶が入った頃、時計は5時を回りギシッとベッドが重みを伝えカーテンの中から泪が出てきた。
「おはよう。相変わらずピッタリのお目覚めだね」
おはようと返すにリカバリーガールは湯のみをひとつコトンと差し出す。
「あんたの様子を見に轟が来てたよ」
「うん」
「分かってたのかい。休む時はちゃんと寝な。時間も気にせずにね」
飲みなと促されはソファに座り湯のみを手に取るが、熱さでパッと離した。
「友だちになったのかい」
「練習相手だ」
「どう違うんだい」
「訓練の時だけだよ」
「そりゃああんたに気を使ってるんじゃないかい。何もかも聞いちゃ悪い気がして」
「面倒なくていいよ」
「轟の奴は体育祭の時に比べて随分すっきりした顔をしてたね。何かあったのかね」
「本人に聞けよ」
「湯のみに何故カップのような取っ手がないのか知ってるかい」
「は?」
何度触っても熱い湯のみの表面。飲むどころか持つことも出来ない。
「日本茶は紅茶より適温が少し低いんだよ。この湯のみが持てる熱さになった時が一番の飲みごろなんだ」
ふーん。は触るのをやめ、立ち昇る湯気を頬に当て緑色の水面を見下ろした。
「普段何でもなく触れているものも、実はきちんとした成り立ちや試行錯誤が含まれているんだよ。歴史を知るとそのものの見方や在り方が変わらないかい?」
湯のみの中のまどろみが落ち着いた頃、何とか持てるようになった湯のみに口を付けたが、中の湯はまだ熱すぎた。
「行き急ぐんじゃないよ、猫舌なんだから」
ズズズ、と向かいでお茶をすするリカバリーガール。
西陽に照らされるオレンジ色の保健室で、熱かった舌を出すにくるくる回る扇風機の風がそよいでいた。
ひと気のない廊下に熱気を帯びた風が流れ込み、陽が傾いたとしても熱い校舎内。更衣室で頭から汗を流し、ガシガシと髪を拭いてシャツに袖を通す。袖をまくり上げながら階段を上がり、カバンを取りに教室へ向かうとA組の方からゲラゲラ笑う賑やかしい声が響いてきて、は眉を顰めた。
「おお! やっと起きたか」
「ちゃん! 耳大丈夫!? 痛くない?」
「悪い、おまえの仇は葉隠が取ったから爆豪許してやってくれよ」
扉口に立つと、窓辺にたむろっている数名の中から一番にを見つけた切島が声を張り上げ、葉隠が駆け寄ってくる。
「なんだよ、風呂上がりみたいな頭して。あーそっか、おまえ学校住んでんだった」
「しかし夏といえど髪はしっかりと乾かさないといけないぞくん!」
「夏風邪はこじらせると大変ゆうもんねぇ」
「なんでまだいるんだおまえら」
濡れた髪を指差す上鳴の前を通り過ぎは自分の席でカバンを取った。
「轟におまえたちの演習試験の内容を聞いてたんだ」
「相澤先生と素手で渡り合ったってマジかよ、すげぇな! そりゃあ俺が一発も当てらんなかったわけだよ」
「つかあの爆豪をのしたってのが俺いまだに信じらんねーんだけど」
「だから尾白が説明したろ、こー、上段の、廻し蹴りで……」
「足ぜんぜん上がってねーよ上鳴」
はカバンを取りすぐに出ていこうとしたが、目の前を障子や砂藤、瀬呂といった大きい奴らに囲まれ出られなくなった。するとその合間から緑谷が割りこみ顔を出した。
「さん、轟くんからさんの個性聞いたんだけど、実際に見てみたいんだ。見せてもらえないかな」
「俺も見たい。おまえの”同化”」
緑谷の頼みに常闇も便乗し、全員の視線が注がれ、はため息ついて頬を掻く。
その右手を自身の胸にト、と着くと、注目していた全員の視界からは姿を消した。
の個性の力は試験の時に見ていた轟も驚き席を立った。
「もういいか。ハラ減ってんだ」
全員が背後から聞こえたの声に振り返る。
「、どういうことだ!?」
「轟の話じゃ、人に触るとその個性が使えるって」
扉に向かって歩き出すもまた掴み止められる。
空腹も手伝って次第に苛立ってきた。
「人に触ればそれと同化するが、基本は触れてる環境に同化するものだ。今なら空気。私はそこからここへ歩いただけで、おまえらにもちょっと風が流れたくらいの話だ」
「空気って……、無敵かよ!」
「なんかもうスゲェな! スゴ過ぎてワケわかんねぇ!」
「もう行くぞ。メシの時間が過ぎる」
「待て待て! メシってもしかしてもしかしなくてもランチラッシュか!?」
「俺も食いてェ! ランチラッシュのディナー!」
「さん私もご一緒していいでしょうか……!」
「麗日さんが一番本気だ」
「麗日くんは自活だからな、死活問題だ」
が教室を出ていくとそれに続いてみんなカバンを掴み駆け出ていく。
「無敵の個性か……、皮肉だな」
切島たちの明るい声が遠ざかっていくのを聞きながら、カバンを肩に担ぐ轟の隣で常闇が呟いた。以前轟もの個性を目の当たりにした時に思ったその言葉。
「やぁ、遅かったな、片付けちゃうところだったよ」
「ランチラッシュだー!」
「昼メシん時もなかなか会えないもんな忙しそーで!」
「どうしたのこんな大勢で」
「知らん」
いつもは大勢で賑わっているのに今は誰もいないだだっ広い大食堂で、はランチラッシュが用意していたシチューが乗ったトレイを受け取りテーブルへ向かっていった。
「ランチラッシュ、俺らも食える!?」
「いいけど、全員?」
「食う奴ー!」
はーい! 教室に残っていた全員が食堂に移動しみんな手を上げた。
「いいよ、今日の昼の残りだけどね」
「やったー!」
一人ずつシチューを受け取り、のテーブルに一人また一人と増えていく。ランチラッシュは明日の昼食用に仕込んでおいたカラアゲも出してやろうと油を温めると、壁の内線電話を手に取り電話をかけた。
「あ、相澤くん? 悪いんだけど今すぐ食堂に来てくれない?」
電話を切り、ランチラッシュは冷蔵庫からトレイを取りだしタレに漬け込んだ肉を取り出しひとつずつ揚げていく。残り物の肉じゃがも捏ねて衣を付け油に投入した。
「んま! 三食ランチラッシュのメシとかぜーたく過ぎんだろ!!」
「私もガッコー住みたーい!」
「はい、これもあまりものだから食べちゃって」
「ランチラッシュ最高ー!」
「コロッケんまーい!」
どんとテーブルに食べ物が増え、みんな身を乗り出し箸を延ばす。
「、食わねーのか、なくなんぞ」
「いい」
「なー、明日の基礎学俺も混ぜてくれよ」
「あ、俺も俺も、あの爆豪のした蹴り教えてくれよ」
「嫌だ」
「なんでだよ、轟とはやってんのに」
しゃべりながらもひとつ、またひとつと大皿のコロッケがなくなっていく。
はそれらには手を出さず、シチューのニンジンをスプーンに取った。
「私は何を教えてるつもりもない。おまえたちはヒーローを目指してて、ここはヒーローを育成する最高機関だろ。ならおまえらはここの教育で学べよ。私のは所詮おまえらの言うヴィランの教えだ」
すと賑やかだった空気が落ちていく。
これまで頭の奥にあっても、誰も口に出せずにいたこと。
けれどもその静まった空気を、カーン! と小気味のいい音が切り裂いた。
「ってぇ……!」
「仲間は持ちつ持たれつ、ケチくさいこと言うんじゃないよ」
「ランチラッシュ……、オタマは痛ェよオタマは」
の頭に振り下ろされたオタマを構えているランチラッシュ。
人の頭気安く殴り過ぎだろ……
ぼやいたの小さな声を唯一聞き取った隣の轟は、試験の時にも相澤に殴られていたことを思い出した。
「はい、」
オタマを腰紐にひっかけ箸を取り出したランチラッシュは、の持つスプーンを取り代わりに箸を持たせた。
「みんな、は箸が嫌いでね、ヘタクソで使いたがらないから教えてやってよ」
「やめろ」
「マジか! マジか!」
「おまえそれでさっきからコロッケ食わねーのか!」
「こう持ってこことここで」
「だまれ、教えんな」
「ネクタイの次は箸かよ! 覚えることいっぱいで大変だなちゃーん!」
広い食堂のほんの一部だけにしかない声が食堂中に響き渡った。
追加されるカラアゲにまた方々からたくさんの箸が延び、食べないの前でこれ見よがしにみんなの口へと運ばれていった。
「ランチラッシュ」
「やあ、忙しいとこ呼び出してごめんね」
「いえ、こちらこそあいつらがすいません」
「なんのなんの」
食堂に現れた相澤はまっさきに中央のテーブルで騒ぐ生徒たちを見つけた。その中にいるにも。ランチラッシュがこんな時間に自分を食堂に呼び出す理由などのことしかないと思ってはいた相澤だけど、その光景を見て真意を理解し、調理室から賑やかな食卓を眺めているランチラッシュに寄っていった。
「たった1年ちょっとなんだけど、長く感じたなぁ。この年になって1年を長く感じるなんてある?」
「毎年あっという間ですね」
「だろ? たった1年。1年かかって……やっと見られたよ」
カラアゲを取り合って大騒ぎ。に箸を持たせて大笑い。
これまでものの5分足らずで終えていたはずのの食事が、もうどれだけの時間がかかっているか。
「気付いた? あの子の髪きれいになっただろ? 肌とか爪とかもさ。食べ物変わるとあんなに変わるんだよ、若いから早いよね、羨ましいよね。出来ればもう少し健康的に太っていってほしいんだけどね、あの子の運動量に追い付かないんだよね」
「はぁ……」
「食事で変わってくれるのは料理人冥利に尽きるけど、あんな風に、楽しい食卓の中でごはんを食べていられれば、あの子はもっと、あっという間にかわいくなっていくんだ。これからもっともっとね」
ランチラッシュは初めて会った時のを思い返していた。
まるで食べてくれなかったあの頃。
「嬉しいね。やっぱり大事なのは仲間だね」
相澤にも気付かず、うまいうまいと食べ騒ぐ生徒たち。
西陽が陰りだした広い食堂の中央。
まだぜんぜん、混ざり合ってはいないけど。端に引っ掛かっているだけだけど。
待ち望んだ景色だった。
猫舌と書いてヘタクソと読みます。