LESSON34 - Drop

 晴れゆく爆煙の中に佇む細身の体に顎まで裂けた口から牙を光らせる男。その顔はこれまでヒーローなら何度も相対してきた、悪意ある敵そのものの眼をしていて相澤は苦く表情を歪めた。
 正門のセキュリティが発動し職員室に警報が鳴り響き、相澤を始めとする教師陣が咄嗟に窓に駆け寄り正門を見下ろした時、緑谷が職員室へ駆けこんできて侵入者が門を破ったことを報せた。そしてその犯人は、飯田曰く合宿所でを連れ去ろうとした男だということも。いち早く窓から飛び出て正門に駆け付けた相澤は爆豪の頭上からその男を捕縛したが……

「下がれ爆豪!」
「!」

 軽く地面を蹴った牙顎が相澤との距離を瞬間詰めて大きく開いた口で襲いかかり、相澤は爆豪をうしろへ押し出すと自分も飛び上がり回避しながらグと捕縛を引き寄せた。空を噛んだ牙顎が爆豪の寸前で捕縛に引き止められる。が、爆豪からはふいと眼を離し捕縛の先を見やった。

「俺は眼中にねぇだと……? クソ牙野郎……!」
「爆豪!」

 ブチブチと脳内に音をたて爆破を構える爆豪をエクトプラズムが掴みうしろへ匿う。雄英の敷地内、個性の使用は許されても敵と戦わせるわけにはいかない。

 捕縛しているのに、そんなこと物ともせずにひたひたと詰め寄ってくる。本来捕縛すれば近づいていくのは自分の方なのに。相澤は間合いを保ち下がった。
 相澤は思い出していた。余暇などなく的確に急所のみを狙い一撃必殺で仕留めにくる戦闘術。この国に氾濫した、力を持て余す敵たちとは存在理由が違う。殺しが脅しでない……ただひとつの目的である戦い方。それは……と一番最初に相対した時と同じ戦慄―。

「深鋭牙顎だな」
「……」

 だからこそ……骨身が痛んだ。ただの子どもだったはずなのに、この代わり果てた様相。だって最初はこんな眼をしていた。けどその比ではない。もう元には戻すことは出来ないと思わせる牙顎の狂気の顔。
 と一緒に浚われた子ども。ずっとと行動を共にしていたのかもしれない。を保護したこの国を、雄英を恨んでいるかもしれない。だとしたら……牙顎をこんな風にしてしまったのは……自分たちだ。敵連合に同行し、雄英に侵入し、それはもう敵と言わざるを得ない存在。けど彼はと同じ……個性拉致被害者。

「目的は何だ。事によっては、聞けることもある」
「……」
をどうしたい。どこへ連れていく気なんだ」

 相澤はこちらに向かってくる牙顎越しに、昇降口前にいるA組生徒たち、その中にいるを見た。飯田に引き止められてはいるが今にもこちらに駆け出してきそう。相澤は牙顎を見据えながら、早くを連れて立ち去れと強く念じた。牙顎は暴れたいわけでも誰かれ構わず襲いたいわけでもない。目的はただひとつ、にある。何故を連れ去ろうとしているのかは定かではないが、そうさせるわけにはいかない。

…………」

 相澤の握る捕縛にブルブルと振動が伝わる。

…………っ、……!」
「!」

 交渉はおろか言葉すら通じない。
 牙を剥き出しに、人ひとり丸呑みにするほどの口を開き牙顎が相澤に襲いかかる。飛び退いて牙を回避する相澤を執拗に追いかけ食いつこうとする牙顎。エクトプラズムが分身を吐きだし加勢し、セメントスがコンクリートを操作し相澤が追い詰められないよう逃げ道を作った。相澤の捕縛が牙顎の手足を巻き取り、ブンと回し投げられると牙顎はコンクリートの壁に叩きつけられようとしたが、その壁にすら噛みつく牙顎はコンクリートをバキバキと噛み砕いた。

「なんだあいつ、一人か? ヴィラン連合なのか?」
「なんでさっさと捕まえねぇんだよ、あんなにヒーローがいるのに……!」
「……!」

 牙顎の恐怖を覚えている飯田が愕然と戦況を見つめていると、飯田を払いのけが走り出した。
 コンクリートの波が牙顎を覆い隠そうとするが身軽に飛び上がり捉えられない。エクトプラズムの分身が牙顎を取り囲み掴み上げようとしたがそれすら牙顎に片端から丸呑みにされ、これでは埒が明かないと相澤は捕縛を引きよせ牙顎目がけ蹴りを繰り出したが、間に牙顎の牙を押し止めるが現れ相澤の蹴りも左腕でガードした。

……!」
「やめろ……、こいつに手を出すな」

 息を切らすが牙顎を背にかばい相澤を止める。
 爆豪の位置まで駆け寄った生徒たちは、が何故敵をかばい相澤を制止しようとするのか分からなかった。だが飯田は「まただ」と思った。何故かはあの男を攻撃しようとしない。許しもしない。

……」

 か細い声が牙の隙間から零れる。
 の小さな頭が両側から枝のように細長い牙顎の指に包まれ、の視界からみんなが消えると、の背でカパッと牙顎が口を開いた。

「くっ……!」
!」

 相澤は瞬時に捕縛を引き、轟は氷結を走らせ牙顎を凍てつかせようとした。しかしそのどれよりも早くに飯田がレシプロバーストをふかし、を抱き掴み走り去った。誰よりも飯田が分かっていた。牙顎は何としてもを連れ去ろうとする。絶対に傍に置いておいてはいけない。勢い余ってコンクリート壁にぶつかった飯田はそれでも腕の中にちゃんと抱いているに安堵の息を吐いた。

……」

 ザリ……乾いた地面を踏み近づいてくる牙顎。駆け抜けた飯田に引っぱられ相澤の手から離れてしまった捕縛が風にひらひらと揺れる。ついに牙顎がを見つけてしまった。

「飯田」
「駄目だ、絶対に行かせないぞ……!」

 飯田は今度こそ離しはしないとをしっかりと抱き締める。
 二人の元へ駆けつけた轟と切島が牙顎に立ち向かい構えた。
 相澤が再び捕縛を引っ張り構え、牙顎を取り囲む。

「やめろ……やめろ! 誰もそいつに手を出すな!」
……?」
「出ていけ牙顎、ここには来るな!」

 轟も見たことの無い酷い焦燥にまみれた。一体この男は何だというんだ。
 の言葉が届いたのか、近づいてこなくなった牙顎の静けさに周囲のヒーローたちが間合いを計りそれぞれに近付いていく。……すると牙顎の細い身体がビクンと振動し、誰もが異様さを感じ取り足を止めた。更に牙顎の腹がべこっとへこみ、ベッと何かを吐きだした。

「……」

 ベチャっと地面に落ちた緑色の何か。

「な……んで……」

 緑色の何か。けど轟は、飯田は、それが何かすぐに分かった。
 轟は咄嗟に背後のに振り返る。敵から眼を逸らすことになろうと見ずにはいられなかった。

「……ジョー……」

 の口から洩れて、切島もハッと気づいた。

「牙顎……おまえ……っ」

 陽炎のように沸き上がる殺気に飯田は抱き掴む力を強めた。
 だがどうしてかすり抜けるように飯田の腕から離れたは、轟と切島が動き出すより先に二人の間も吹き抜け牙顎に向かっていった。

 三人はの動きを眼で追うのがやっとで止めることすら敵わないでいた。が、の殺気が牙顎へと辿りつこうとした寸前……相澤がの行く手を阻み、身体を掴み止めると地面へ押しつけ暴れるを抑えつけた。相澤もすぐに分かっていた。緑色の、ジョーのキャップ。

「離せッ! あああっ……!」
「ッ……、落ちつけっ…………!」

 我を忘れ瞳孔を開き地面に爪を立てるを全身で押さえつけながら、けれども相澤は落ちつける訳が無いことは分かっていた。自分も心底動揺していた。がいなければ自分が襲いかかっていたかもしれないほど。

 相澤はの身体を抑えながら、何よりの右手を強く掴み地面に押しつけた。今は失われたとしても、激情が肉体を凌駕し力を呼び起こすかもしれない。に消えられたらもう誰にも止められない。

「牙顎っ! あああっ!」
……っ」
「来るな轟、他も、発動系は寄るな!」
「離せぁああああああっ!! ……」

 暴れもがき地面に血をこすりつけるを目下に、轟は食堂でに掴まれ炎を使われたことを思い出した。こんな惨状を目の前にして、こんなを目の前にして、自分は……止めるどころか傍に寄ることも出来ないなんて―

「ッ……!!」

 折れかけた心を掴み止め、轟は牙顎に向かう。
 炎を巻き上げ牙顎を囲むように放ち頭上まで覆い逃げ道を無くすと、地を這う氷結で牙顎を足元から凍てつかせ動きを封じた。

「大人しく捕まってくれ……!」

 ビキビキと足元から昇る氷結は牙顎の細い身体を飲み込みやがて全身を覆い尽くす。ごうごうと荒れ狂った赤黒い炎が高く昇っている空とは裏腹に、静かに冷たく騒動を凍てつかせる氷結はまるで今の轟の心中を如実に描き出すようだった。

ちゃん……?」

 状況も掴めないまま、ミッドナイトに足止めされ近付けなかったクラスメイトたちが駆け寄ってくる。凍てついた牙顎を見て暴れる力を失ったはただ呆然とし、相澤はを起こすと押さえつけていた手を離した。葉隠はの前に手を着き様子を覗きこむも、血の気を失くし瞳孔を開いたままのから零れくる静かで確かな殺気にビクリと淀んだ。

 セメントスが高い壁を解き、凍った牙顎を分厚い壁に閉じ込める。
 風が砂埃や熱波を晴らし、夏らしい眩い光が地面の氷に反射した。

「おい…………?」
ちゃん……」

 皆が声をかけてもまるで動かないを見つめ、轟は地面に左手を着くとじわじわと氷を溶かしていった。今度は激情に駆られ温度調整を誤ることなどないよう、ゆっくりゆっくり氷を溶かし……濡れた緑色のキャップを手に取った。皆それを見て、合宿中ずっとそれを被っていたと、先日を学校へ送り届けたジョーという男が被っていたそれとを合致させた。

「相澤さん、警察は……」
「通報は待ってくれ。他にセキュリティーを突破されたところがないか確認だ。セメントスは門の修繕を頼む。おまえたちは寮に戻って待機」
「はい……」
ちゃん……」

 指先はどこか恐れていたけど、葉隠はに手を伸ばし肩に触れた。

「……もう嫌だ……」

 風が高い空へと昇っていくようにから殺気が消えゆくと、心の奥底から別のものを引きずり出す。ポタポタと落ちる雫がコンクリートに染みつき、葉隠の手にその悲愴を伝えた。

「もういやだ……もういやだ……」

 持てる力を無くし、カチカチ音を鳴らす歯の隙間から零れるその声は掠れ、途切れ、まるで響かないのに、誰の耳にも伝わり、縛りつけた。
 もういやだ。
 そのたった5文字に詰め込まれたの全ての時間。全ての不幸。想像つくはずもないの踏みにじられかき消され埋め込まれたこれまでを、同情するには自分たちは絶対的に足りなかった。知っている不幸をどれだけ膨らましても、持っている言葉をどれだけ組み立てても、抱いたことのある悲しみや痛みをどれだけ思い返しても、足りなかった。

ちゃん……」

 あまりに小さな存在であるを抱き締め、葉隠は心を近付けようとした。
 そうすることに何の意味があるのか。この腕に何か力があるのか。
 分からなかったけど、そうせずにはいられなかった。
 共有も理解も同情も救済も出来ない自分に出来ることなど。

「ミッドナイト」
「……ええ」

 誰も動き出せない中、相澤に促されミッドナイトが傍に寄り、葉隠の代わりにを抱き寄せた。ミッドナイトから漂う香りが無機質な涙を落とすの身体に染み入り、眠りの世界へ落とした。強く造られたの精神は折れない。痛みから逃げる為、壊れる心を守る為、身体を癒す為に「眠る」という人に備わった最低限であり最重要でもある自己防衛手段が、ただ強靭であるよう叩き上げ造られた身体からは消失していた。

 眠ったをミッドナイトが抱き上げると、力なく傾いたの頬から最後の涙が落ちていった。血の気の無い白い顔、強いのに細い身体、力を失くした右手、離れていった個性。
 ようやく傍に寄ることのできる轟はの手元にキャップを置こうとしたが、やめた。ずっとの傍にあったこのキャップは、今のに癒しを与えはしない。

「轟、寮戻ろうぜ」

 が校舎内へ連れて行かれ、A組生徒たちも寮へと歩き出す。
 唯一動き出さない轟に切島が声をかけ、飯田と緑谷、八百万も足を止めた。

「なんて言やいいんだ……」
「轟……?」
が目ェ覚ました時……あいつになんて言やいいんだよ……、ジョーが……、ジョーがいなくなるなんて、駄目なんだよ、あいつには……!」
「……」
「なんも思い浮かばねぇッ……!! くそぉ……!!」

 今にも炎上しそうな激情と、キャップを握り締める悲愴が入り混じった轟に、切島もまた苦く顔を歪めた。血にまみれ過去と現在の狭間でもがき苦しむの姿を二人は知っている。底の無い泥沼のような痛みから引っ張りだしたのは、あの人だった。自分たちでは叶わない、を照らし道はこっちだといざなう光を与えていたのは、ジョーだった。

 暗い中に閉じ込められた牙顎と、この世にただ残された緑色のキャップ。
 過去と、今が、引っ張りあって、壊してしまった。
 やっと皆の前でも垣間見えたのに。
 あまりに密やか過ぎた素顔は露のように落ちていった。









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