ウォール・ローゼ南端、トロスト区。
巨人は南からやってくるという説に準じると、ウォール・マリア陥落後、今最も巨人に近いとされる最前線の街。
「街が随分賑わってると思ったら、今日は訓練兵団の解散式なんですって」
「ふん……何人残ったことやらだな」
「去年とおととしはやっぱり、かなり少なかったですものね」
5年前、ウォール・マリアが巨人により突破されいくつもの町や村が死滅したことは当然ウォール・ローゼ、ウォール・シーナの内地にまで一瞬で知れ渡り人々を恐怖のどん底へと陥れた。王都に多く集まる「保守派」と呼ばれる者たちは門さえも無くし壁を一縷の隙もなく覆うべきだと主張を強めたが、外への道を断つことは人類の復権をも断つことと同義とする「革新派」と相容れず、互いの距離は変わらぬ平行線のままだった。
巨人の脅威と悲劇を目の当たりにしてそれでも兵士になろうとする若者はかなり減少した。それほどまでに文献でしか知らなかった巨人の恐怖は人々に根深い傷を与えた。しかしもともと兵士を目指す若者は年々減少していた。壁に守られ平和になった世界でわざわざ過酷な兵士を目指す必要性が薄まっていたからだ。しかし巨人の襲来後、世論は一転「12歳を迎えて生産者に回る者は臆した腰抜けだ」という風潮が強まり近年はまた訓練兵は増えていた。
「チッ、世間体で兵士になったようなガキ共が何の役に立つ。邪魔なだけだ」
「でも今年は優秀な子が多いそうですよ。あんな出来事を目の当たりにしても兵士を目指したような子たちは貴重な人材でしょう。調査兵団志願者がいるといいですね」
「どこから聞いた」
「訓練教官の方から。最近よくいらっしゃるんですよ。訓練兵の卒業が近いと肩の荷が下りたような気になるとおっしゃって」
「あのハゲジジイか」
「またそんな言い方。はい、うしろを向いてください」
薄い日の光が射しこむ部屋で向かい合って座っていた男は指示通り女に背を向け、女は「失礼します」と服をめくり聴診器を背中にあてた。腹も胸も背も筋肉で固められた体躯の中で確かに刻む鼓動をしばらく耳にして、問題ないですねと服を元通りにする。
「あら、どうしたんですかその手」
「何でもない」
「見せてください」
「大したことない」
再度向き合い服を直した男の左手に女は擦り傷のような赤い跡を見つけ手を差し出した。何でもないと言っても女は差し出した手を引っ込めず、男は舌を打ちながら渋々左手を女に献上する。何気に見つからないようにしていた苦労が水の泡だった。
「何なさったんですか」
「ちょっと噛まれただけだ」
「今度は誰に酷いことしたんです?」
「バカ言え。俺が人に噛まれるか。馬だ」
「あら、もっとバカですね」
「あ?」
女は傍らのカートを引き寄せピンセットで瓶の中から綿をひとつ取ると、消毒液をつけ赤く腫れた傷跡に点々と塗った。傷はごく浅いもので本人が言うように大したことないものだったが、少しの傷も放っておけない。
「包帯の位置がずれるだけで気になるっておっしゃってたじゃないですか。駄目ですよこんなケガ放置したまま調査に行っちゃ。何が命に係わるか分からないんですから」
「あの馬鹿馬に乗る方がよっぽど命に係わる」
「馬は賢い生き物だと聞きますよ、仲良くしてください。調査兵団の兵士長様ともあろう方が落馬でもしたら威厳が損なわれますよ」
そう言われるだろうことが予測できたから見つからないようにしていたのだ。
男はフンと不貞腐れるように鼻を鳴らした。
巨人を恐れず壁外への進出を試みる「調査兵団」は、壁外の探索活動により巨人せん滅、人類繁栄の道を探るまさに人類の英知の結晶であった。しかしウォール・マリア陥落後は、来る二回目のウォール・マリア奪還作戦のための道慣らしに力を入れており、壁を破壊されたシガンシナ区へ大部隊が向かえるよう、途中に点在する廃墟と化した町や村に補給物資をあらかじめ設置し大部隊が移動する順路を作成することが急務となっていた。
「壁外に物資を置いて巨人に荒らされたりしないんですか?」
「巨人は人間の食い物なんかに興味はない。ヤツらが食うのは人間だけだ。そんなことも知らねぇのか」
「私巨人の趣味趣向には詳しくないもので。人の食生活には興味ありますよ。朝食は取られました?」
「そんなことじゃ巨人に攻められたら真っ先に死ぬぞお前」
「巨人に入られたら食べられるのは私だけじゃありませんよ。そんな可弱い民を守ってくださるのが兵士長様でしょう。ちゃんと食べないと調子よく動けませんよ」
他のどの兵団よりも精鋭揃い……そして変人揃いと言われる調査兵団は、実行部隊のトップ・エルヴィン団長を筆頭に、兵士長・リヴァイ、その他数名の分隊長とその下に付く精鋭部隊で成り立っている。中でも人類最強の兵士と名高いこのリヴァイ兵士長は「彼なくして人類の反撃は不可能」と言われるほどの実力者で、事実リヴァイが兵士になってからのここ数年の調査兵団の生存率は飛躍的に向上していた。
それでもなお巨人の領域への派兵には毎回3割を超す損害が伴う。
それほど人類と巨人の間には歴然とした「力」の差があった。
それでいていまだ巨人の解明は何ひとつ進んでおらず、民の中には税の無駄使い、いたずらに巨人を肥やす自殺集団とまで罵る者もいた。
「はい、終わりです。お疲れ様でした」
「何も疲れちゃいねぇよ」
手の治療を終え、壁外調査の事前に行われる問診と身体検査を済ませるとリヴァイは立ち上がり椅子の背にかけていた上着に袖を通した。その背には、ふたつの翼が折り重なった調査兵団のマーク「自由の翼」が、まさに飛び立つ鳥のように舞った。
「ご武運を」
「いつもの調査だ」
「今回もいつも通りとは限らないでしょう」
「いつも通りだ。行って帰ったらフロに入って寝る」
揺るがない目線も淡々とした口調も、すべていつもの彼のまま。
真っ白い朝の光の中で不安を消し嬉しそうにじわりと微笑んだ女の前で、リヴァイは目線だけを下げたまま、傾いていく陽光ほどにゆっくりと、近づいた。
「!」
「!」
突然部屋に駆けこんできた足音と声が部屋の中のに届くと同時に、無愛想なしかめっ面のリヴァイがドア口にドンと立ちはだかった。
「わ! アレ、リヴァイいたの。ゴメーン、寝坊しちゃった」
「いいえ、大丈夫です」
目の前に立ちはだかるリヴァイの上からひょいと、調査兵団の分隊長・ハンジが奥にいるを覗いた。肩にかかる髪をハーフアップに縛り眼鏡をかけたハンジに楽々と頭の上から奥を覗かせるほどリヴァイはそう背が高いわけではない。
はハンジが突然現れ慌てて外していたマスクをつけ直しハンジをどうぞと椅子に招き、それと同時にリヴァイは診療室を出て行くとハンジは邪魔しちゃったかなと軽い口調で見送った。
「もしかして私が最後?」
「はい。皆さんもういらっしゃいましたから」
「じゃあ一緒に朝食どう? 危うく食べ損ねるとこだったよ」
「私はもう済ませましたから。リヴァイ兵長はまだのようなので、一緒に行かれては?」
「そ、じゃーリヴァイと行こうかな。リヴァイの調子はどう? ヘンな病気とか持ってなかった?」
「ええ」
明るい雑談の中、検診を終えたハンジも診療室を後にすると静かな朝の空気だけが残った。
窓の外には朝食も済ませた兵士たちが各々に体を動かし、明日早朝に出発する壁外調査に備え士気を高めていた。
光りの射しこむ窓辺で頭につけている白い布を外すと、ハラリと真黒い艶髪が肩に落ちる。
診療中はもちろん、外を歩く時はいつもつけている薄紅の花の刺繍が入った白い布。
今朝も昨日と変わらず夜が明け、太陽が天高く昇っていく。
壁に囲まれたまるい空の、一日の始まり。