ウォール・マリア崩壊後、このウォール・ローゼ南端のトロスト区はもっとも巨人に狙われる街となってしまったが、巨人襲来から5年が経った今では人口も増え街にも人にも活気が戻っていた。外へと繋がる門からウォール・ローゼまで続く川沿いの街は最も盛んで、朝から野菜や果物の市場が立ち並び威勢のいい声が飛び交っている。
「お、女先生、この間はありがとうね! 医者に行ったらやっぱりそうだって言われたよ」
「そうですか、早く分かって良かったですね」
「これお礼だからいっぱい持ってって! 他の先生方にもさ」
「そんな、治療したわけでもないですし」
「なに言ってんの、ちょっと目を見ただけで分かっちまうなんて大したもんだよ。やっぱり医療団は腕が違うよなぁ、こんな若いのに。まだ若いんだろ?」
「はぁ……」
調査兵団が壁外調査に行くのは平均して月に一度のペース。
その調査のたびにこうして同行する医療団も今となってはトロスト区の住民たちに馴染んでいた。壁外調査はおよそ6〜9時間ほどで戻ってくるが、その間を始めとする医療団には仕事がないため街に出ることも多かった。医療団の人間はただでさえ白衣と医療団の腕章で目立っているが、はいつも頭をすっぽりと白い布で覆い顔の下半分はマスクで隠れているため特に目立ち、住民たちに頻繁に振り返られていた。
「じゃあ、お代払います」
「いーのいーの、先生たちタダ働きみたいなもんなんだろ? そんな先生から金とったらバチが当たるってもんだよ」
「ダメですよ、商品なんですから」
「じゃあちょっと顔見せてくれよ。美人だろ、その顔は」
「いえ……とんでもない」
「もったいぶらないでさぁ、ちょっとでいいから、な!」
「やめなさいよアンタ、先生困ってんじゃないの! ごめんねぇ先生」
リンゴを売る夫婦と雑談し、結局袋一杯のリンゴを持たされ、お金を払おうとしたが体よく追い出されてしまった。しかしそんな厚意もありがたいもの。壁外調査に同行した際、兵士の治療費はもちろん兵団からも出されるが、医療団は調査兵団に属しているわけではないため報酬はなく、医療団にかかる費用は所属する医者たちがすべて私財をなげうって賄われている。お昼ごはんだなと袋の中の真っ赤なリンゴを見つめてはテントへと戻っていった。
テントに入る際、ごおおおと大きく渦巻く風の音を聞いては空を見上げた。今日は風が強く雲が早く動いて空は綺麗に晴れていたが、街を囲っている50メートルの高い壁で半分だけしか見えていない。きっとこの壁の上からなら360度どこまでも広く続く壮大な空が見えるんだろう。だけど一般人が壁に昇ることはないため住民たちは誰も何にも邪魔されない空を見たことはなかった。
そんな壁の上に小さく動く人影が見えた。壁の上には対巨人用の固定砲が一定の間隔で設置されているという。巨人が人間を求めて壁に近付いてきた際に打ち込み撃退する固定砲。今朝会った若い兵士が言っていたように今日は整備が行われているようで、普段の見張り以上の人数が上にいるらしかった。
「イェーガー……」
今朝の少年を思い出し、はその名も思い出した。
その名前は以前、資料で見たことがあった。
それはまだウォール・マリアが壁として成り立っていた頃、最前線の街シガンシナ区で流行病が蔓延し多くの人が亡くなった。壁に囲まれているとはいえ大地は広い。最も外側の壁の、さらにその南端の街の話となるとなかなか内側の壁までは情報が入ってこないが、その流行病を治めたという「イェーガー」という医者の名は医療に携わる者には一気に広まった。
あの少年はシガンシナ区の出身で父は医者だと言っていたからには、おそらく彼の息子なのだろう。原因の分からない流行病を治めることは容易なことではない。何人もの人間が犠牲になった上で原因を解明しそれに対する免疫を探して作り実験し初めて薬と呼ばれるものが出来る。それには地道な努力と耐えまない探究心、何より強い使命感が必要となる。
「蛙の子は蛙だな」
あの少年が持っていた強い決意。確固たる信念。人を助ける優しい心。
リヴァイが戻ってきたら彼のことを話そうとはテントに入っていった―、その時だった。
ゴオオ! ……と一層強い風の音と僅かな大地の振動を感じ、は何ごとかと振り返り壁を見上げた。すると壁の上から突風に煽られるようにバランスを崩した何人かの兵士たちが吹き飛ばされ落ちてくるのが見えた。いくら風が強いとはいえ、あんな吹き飛ばされ方をするだろうか。何にせよ、落ちてくる兵士たちを見上げ下にいる駐屯兵や住民は彼らに向かって大声を上げた。しかし落ちてくる兵士たちは空中で何とか体勢を整え、それぞれが装備していた立体機動装置を使い何とか落下を防いだ。
「立体機動」とは訓練兵がまず最初に覚える兵士として最低限にして最重要の技術。腰に装着する立体機動装置にはワイヤが仕込まれており、脇のホルダーに収納されている操作装置を使ってワイヤを飛ばし、その先を建物や樹、巨人そのものに差しこませて巻きとり、全身に張り巡らされたベルトを利用し細かい体重移動をすることで空中を素早く移動する。人間の何倍もの大きさの巨人と戦闘するにあたって最も必要とされ開発・研究された技術だった。
咄嗟の判断で壁にワイヤを差しこみ落下を防いだ兵士たちだったが、落下の際にケガをした兵士は意識を失ってしまったのか、ひとりだけが身動きせずに落下してくる。しかしそれも他の兵士によって救出され、誰も地面に叩きつけられることはなかった。それを見た誰もがホッと息を吐いた。なんだ、事故か? 急に落ちてきたぞ。若い兵士がヘマでもしたんじゃないか。そんな声が飛び交ったのもつかの間……人々は言葉を失った。
落ちかけた兵士たちの上空。壁の上に、手が現れた。
「な……」
現れた手は強い力でビキビキと壁を掴み、誰もがそれを見ていながらもそれが何かを認められずにいる最中、ドォオオン!! と今度は門が爆発したように外側から破られ激しい地響きがトロスト区を襲った。
「きょ……巨人だ……」
「巨人だ……、門が壊された……!」
それも5年前なら、まだ人々は誰も認められなかったかもしれない。
しかしもう人類は知っていた。もうこの壁は、この壁の中は……完全なる平和ではないのだと。
「、何ごとだ!?」
「あ……あ……」
地響きに倒れ地面に手を着くの背後から、医療団の医者たちが駆け寄ってくる。
しかしにその言葉に答えるだけの余裕は一縷もなかった。
50メートルもの壁の、そのさらに上から顔を出した……超大型巨人。
外からの衝撃で壁もろとも門が大破し、その破片は門から一直線に延びる道沿いの街へと飛び散り、家を崩し市場を潰し人々をなぎ倒した。
「巨人だぁああ! 逃げろおおおお!!」
被害を受けなかった住民たちが一斉に大声を張り上げ血相を変えて逃げ去っていくが、はまだ呆然と立ち上がれなかった。目に焼き付いてしまった。あの大きさ、あの強さ、初めて見た巨人という人類の天敵……。
「! 早く立つんだ、避難するぞ!」
「……!」
ぐと腕を掴まれようやくは自覚する。
壊れた街、倒れた人、流れる血、叫び声。
「た、助けないと……」
「駄目だ! 避難するんだ、壁が壊された、巨人が入ってくる!」
「だ……だって……ケガをした人が……」
「駄目だ!!」
つい先ほどまでそこにいた。
活気づいた市場に溢れる人々の中に、自分も。
「わ……我々は、医療団です……人を助けることが使命です!」
「ならん!! これから駐屯兵団がじきに来る巨人と戦うことになる。ここに我々がいては邪魔なんだ!」
「巨人を倒してくれるなら時間はまだあります! 一人でも救える命があるはずです!」
「……!」
ぐと歯を食いしばり、は震える足に力を込めて立ち上がると、テントの中から医療道具を抱きかかえ岩の下敷きになっている人の元へ走った。……けどその足も、腕を掴まれ引き止められる。
「先生!」
「お前は……今まで何を見てきたんだ……! あの調査兵団が、あの精鋭たちが毎度の壁外調査で何人死んでいる! 何人が喰われている! 人類は……巨人には勝てん!!」
「……そんな……」
「我々が救える命は今ここで倒れている人々ではない! 一刻も早く避難し駐屯兵団をいたずらに戦わせないことだ! 我々がいる限り彼らはここで壁とならなくてはいけないんだぞ!!」
「……」
上空で何が起こっているのか、激しい音が絶えず空から降ってくる。
壊された壁や固定砲の残骸が落下してきて地面に叩きつけられさらに大破する。
どうして……何故……。
今日は、昨日と同じだったはずなのに。
「医療団の皆さんも早く避難を! ウォール・ローゼ内地へ、急いで!!」
「来い!!」
大きな音と巨人の姿を確認し駐屯兵団の先遣班がいち早く駆けつけた。
街中にカンカンカンカン! と警鐘が鳴り響き、人々が押し合うように内地の壁に向かって走り出した。5年前に外から逃げてきた人々にとっては悪夢の再来の音だった。
「所持する財産は最小限に! 落ち着いて避難してください!」
不運にも最も実戦経験の豊富な調査兵団は壁外調査のため出払っており、駐屯兵団のみの力で壁の修復と巨人の迎撃準備を進めなくてはならなかった。それは訓練を終えたばかりの若い兵士達も例外ではなく、真っ先に超大型巨人を発見、接触したエレン・イェーガー達訓練兵も戦場へ赴き「超大型巨人出現時の作戦」に加わることとなった。
「何やってんだ、早く進めよ!」
「いてぇな、押すな!」
「子どもは! うちの子はどこ!?」
「なんでちっとも進まねぇんだ! 早く入れてくれー!!」
トロスト区全域の住民たちはウォール・ローゼ内地へと繋がる門めがけて一斉に押し寄せ、その混乱が避難の足を止め門がまだ遥か遠い場所でも住民達が殺到した。なおも鳴り続ける鐘。いつ現れるやもしれない背後に恐れをなしながら、人々は叫び押し合い我先にと門へ押し寄せた。
「先生、あそこに子どもが!」
「なに、どこだ!?」
門へ集まる人が余りに多く進むことも出来なくなっているウォール・ローゼの手前では家の玄関を叩く子どもを見つけその方へ走っていった。泣きながらドアを叩く小さな子どもは、親とはぐれ泣きながら家まで戻ってきたようだった。
「ここは駄目なの、あっちに行かなきゃいけないの、一緒に来て」
「いやー! お母さん、開けてよー!」
「お願い、来て! きっとお母さんも門の向こうにいるから!」
「いやぁー!」
泣きじゃくり、抱き上げようとしても暴れて言うことを聞いてくれない子ども。
その時、遠く後方で砲撃音が響いた。一斉に放たれた大砲はおそらく超大型巨人によって壊された門に向かって発射されている。……ついに巨人が現れたのだ。
「来た……巨人が入ってきたぞ……」
「早く進めぇ! 喰い殺されるぞ!!」
巨人が入ってくる……。それを聞いてはドクンと心臓を強く打った。
あの壁の向こうから現れた手。覗いた目。
あれが……入ってくる……。そう思った瞬間、人が、自分が、あの大きな手に掴まれ、口の中に放り込まれる姿が容易に想像できた。
「……いや……」
それと同じくして、屋根の上を何人もの兵士たちがワイヤを放ち飛んでいった。
作戦が組まれ、部隊が構成され、兵士たちは住民の避難が完全に終了するまで巨人を迎撃せねばならない。
「リヴァイさん……」
おそらくこの兵士の大半は巨人と戦ったことなどない。
最前線の街を守る駐屯兵団ですら、壁の上から巨人を目撃することはあっても直接対峙することはない。戦闘経験があるのは5年前のウォール・マリア陥落時に戦った兵士のみだが、その時の兵士は何人も残っていない。巨人の圧倒的な強さと喰われていく仲間を目の当たりにし、自分は搾取される側だと一瞬で自覚した恐怖を植えつけられて、今も兵士として立っている者など数えるほどもいなかった。
「リヴァイさん……戻ってきて……リヴァイさん……」
ずしん……ずしん……遠くで小さな地響きが鳴る。
何発も放たれる砲弾が、じきにやむ。
前には何百人もの群がる人の壁。うしろはガランとひと気の失せた空っぽの街。
空だけ青々とした、昨日と同じ色。