シンと静まり誰もいなくなった街に重い足音が響きだす。
建物の間を縫うように飛んでいった兵士達。人が押し合う門の前で誘導する兵士達。それぞれがこの巨人が入ってきた恐怖の街で任された使命を全うしようと心臓をなげうつ。
「急げ、門へ走るぞ」
「はい」
泣きじゃくる子どもを抱き抱え、は師であるウォルト医師と共に人垣の方へと走り出す。街中の住民が一斉に通り抜けるには余りに狭すぎる門。人々はまだ門を通過できずに群がっていた。
「どうしてまだこんなに……、何をしてるの?」
「門が通れないんだ、商会のヤツらが……」
「通れないって?」
人垣の最後尾についたが呟くと、その場にいた民が蒼白した顔で振り返った。
人垣は門の近くにいる人ほど荒々しい声を張り上げ何かに向かって叫んでいた。
一体何が起きているのか、は子どもを抱えながら前を覗き見るが、溢れる住民達が壁となり何も見えない。
「あんた達、今がどんな状況か分かってんのか!?」
「分かってるからこうなってんだよ! てめぇらこそ壁を出たかったら手伝え!」
「ふざけんじゃねぇよ! それ以上押し込んでもその荷台は通れねぇよ!!」
「何考えてんだ! 人を通すのが先だろ!!」
人同士の激しい喧騒が門周辺をさらに騒然とさせる。
前の景色は何も見えないが、人々が放つ怒号と人垣の上から僅かに見えた白布を被った荷台で状況が掴めてきた。
「先生、一体……」
「商会のヤツらだ、何をやっとるんだこんな時に……!」
遥か後方ではもう戦闘の声が高々しく響き、砲弾の音、建物の破壊音が絶え間なく響いているというのに、人同士の諍いで門を通れないでいる。こうしている間にも巨人に立ち向かっている兵士達が命を懸けているというのに。
まるで前進しない人垣は、前方ではやまない怒号、後方ではいつ巨人の姿が見えるかもしれない恐怖に青ざめる。……そしてその時は待ってくれない。ズシン……ズシン……遠くから近づいてくる。ズシンズシンズシン……まるで何かを見つけたかのようにそれは急速に大きくなり近づいてきた。
「せ、先生……!」
「巨人だ!! すぐそこまで来てるぞ!!」
後方の叫び声で門前の全員がピタリと怒号を止め、背後を振り返り青ざめた。
建物の間を一直線に近づいてくる一体の巨体。まだ遥か遠くなのにはっきりと分かる人型。
「今すぐ荷台を引け!」
「押し込め! 死にたくねぇやつは荷台を押せ!!」
「うわあぁぁ、どけぇぇぇ!」
地面に深い足跡をつけながら一体の巨人が恐ろしく早く近づいてくる。
その表情は恍惚しているように見え、食べられるというビジョンをリアルに想像させた。恐怖に叫び人々は押し合いとにかく門の中へ逃げ込もうとするが人と人とが邪魔し合いどこにも道がない。
「、その子どもを連れて逃げろ! 建物の裏に走れ!」
「巨人が……先生……!」
「!」
来る。目の前に来る。捕まえられる。あの大きな手で。喰われる。あの口で……。
頭の中にじわりと闇が広がった。闇は精神も言葉も動く力も蝕んで、ただ細かくブルブルと震え身を凍りつかせた。
恐怖がやってくる。逃げても逃げても伸びてくるあの闇の手が、掴もうと延びてくる。
硬直の中、は震えながら口走った。縋る願いが声となって零れた。
あの日……深い闇を照らした、延びてくる手を切り落とした、天からの光のように現れた、あの背中。―その名前。
「リヴァイさん―……」
涙し恐怖に顔を引きつらせ腰を抜かし、誰もが喰われることを脳裏に浮かべた……次の瞬間。
突然走り寄ってきた巨人の重い足音が途絶え、その巨体は前のめりに倒れドォン! と大きな音をたてながら倒れ地を響かせた。人々は青ざめ絶句しながら大きな巨人の倒れた頭を呆然と見つめる。その登頂に立つ、兵士の姿。
黒い髪、細身の身体、あの巨体を一撃で斬首した二本のスチール刀。
は巨人の上に立つその姿を見て一瞬はリヴァイかと思いを過らせた。
しかし光りの中に見えた立ち姿はリヴァイとは若干ずれた。
リヴァイよりも少し髪が長い。似たしなやかな身体をしているが首には赤いマフラーを巻いている。土埃が晴れ、こちらを見下ろしていたその兵士が地面に降り立ち近づいてくると、それは違う人だとはっきりと分かった。
子どもを抱き地面に膝を着いていたの前を通り過ぎていった兵士はまだ幼いように見えた。それもそのはず、背に掲げているマークは駐屯兵団でも調査兵団でもない、訓練兵団のもの。倒れた巨人の向こう側には駐屯兵団の精鋭といわれる部隊の数名が住民達と同じ驚いた顔つきでその光景を見ていた。精鋭部隊ですら追い付けなかったこの奇行種の巨人に、その訓練兵は追い付き一瞬で斬首したのだ。巨人の唯一の弱点といわれている後ろ首……うなじ部分を的確に殺ぎ落とした。
「何を……しているの?」
その訓練兵はカツカツと門に向かって歩を進めていく。人垣が道を空け、訓練兵は門の前で荷台を押している男たちに向かって突き進んでいった。そう大きくはなかったが、その声を聞いてその訓練兵が女であることに周囲は今一度驚いた。
「今、仲間が死んでいる……。住民の避難が完了しないから……巨人と戦って死んでいる……」
訓練兵の少女の声は静かなものだったが、その言葉には深い情念が乗っていた。
街の背後……壊された門の方を差しながら、少ない言葉で訴えた。
「それは当然だ! 住民の命や財産を守るために心臓を捧げるのがお前らの務めだろうが! タダメシ食らいが100年ぶりに役立ったからっていい気になるな!」
「……」
しかし荷台を門に押し入れようとしていた男は訓練兵を怒鳴りつける。
その威勢にも少女は歩を止めない。カツカツと強い歩で人を押しのけ男の目の前まで。
「人が人のために死ぬのが当然だと思ってるのなら……きっと理解してもらえるだろう。あなたという一人の尊い命が多くの命を救うことがあることも」
「……! やってみろ! オレはこの街の商会のボスだぞ!? お前の雇い主とも長い付き合いだ、下っ端の進退なんざ冗談で決めるぞ!?」
男はお上の栄光を笠にして力を振りかざす。
けれども少女は、男の言葉がまるで異世界の言葉だったかのように眉を顰めた。
「死体がどうやって喋るの?」
男も、その周囲の荷馬車を押していた従者たちも、少女の忌憚のない圧力に言葉を失った。
殺気すら感じた。その静かに落ち着いた光りの薄い瞳に、脅しではない本物の意思。
男は固唾を飲みこみ、従者たちに荷台を引かせた。門の向こうの光り差す大地に道が出来、人々は荷台の横から抜け通りようやく住民達はトロスト区から脱出することが出来た。
「あ、お母さん!」
「え?」
いまだ呆然としていたの腕の中で子どもが母親を見つけ手足をばたつかせはハッと気づいた。ひと気が減った門前で子どもを探していた母親はその声を聞き取って駆け寄ってくると子どもを抱き締め涙した。
「ありがとうございます、医療団の先生方……」
「いいえ、私たちは何も……」
母親によって子どもは抱き上げられ門をくぐっていった。
溜まっていた住民達が次々に門を通り、商会の男もついに荷台を置いたまま門を抜けていった。
「行くぞ、今度はこの門の中に拠点を構える」
「はい」
一度は死を思った住民達を立ち上がらせ、全員を門の中へ誘導しているとは背後で「ありがとうおねぇちゃん!」と響いた幼い声を聞いた。小さな女の子とその母親が先程の訓練兵の少女に涙ながらに礼を言っていた。少女は無言のままだったが正面を向き背筋をまっすぐにすると、左手を背後に右手を心臓にトンと付け敬礼の形を取った。その姿に嬉しくなった女の子は拙い腕で敬礼のポーズを真似る。それを見届け背を向け歩き出す少女は風に綺麗な黒髪をなびかせながら他の兵士達の元へと戻っていった。
住民全員が避難したことを確認し最後にとウォルト医師が門を抜けると、ウォール・ローゼの門は重く閉ざされ住民達に一応の安堵をもたらせた。トロスト区に再びカンカンカンカン! と鐘の音が響き渡った。それは住民の避難が完了し一時撤退せよという報せの音。だが住民達には恐怖が蘇る戦慄でしかなく、内地に入った住民達は誰もがもっと奥へ奥へと移動していった。もう門の安全性を信頼している住民は誰もいない。身一つで逃げ財産も住む場所も失った人たちの顔に色はない。
ウォルト医師を始めとする医療団は再びウォール・ローゼの門前に場所を取りケガを負った住民達の治療にあたった。門が吹き飛ばされた破片で頭から血を流す者、逃げる際に足を取られ歩けなくなった者と様々だったが、中には5年前の恐怖の再来に絶望し、ただただ青冷め動けなくなっている者もいた。
「、ひと段落したら我々ももっと奥へ避難する」
「はい……」
厚く閉ざされた壁の向こうでは何が起こっているのか分からない。
は堅い門の前で先程までいたはずの街を思った。
せっかく5年前の絶望から立ち直り始めたところだったのに……。人々は前向きに、強く逞しくあろうと明るく努めていたのに……。
派兵された兵士達は今もこの門の向こうで巨人と対峙しているはずだが、一体どれだけの兵士が生き残っているのだろうか……。そもそも、壊された門を修復しない限り巨人は延々とやってくる。何体いるかも分からない、頭を吹き飛ばそうと体を切り刻もうとものの1分ほどで修繕され復活してしまうというほぼ不死身の巨人を相手に、トロスト区の駐屯兵団と訓練を終えたばかりの若い兵士達だけでどれだけ立ち向かえるのか……それは誰しもに絶望の予感しかさせなかった。
壁外に行っている調査兵団もじきにこのトロスト区に帰ってくるはずだ。
調査兵団に門が破られた報せは届いているのだろうか。いや、門に巨人が集まっている今、その門から外へ出て報せに行けるはずがない。調査兵団がいなくては巨人の掃討も難しいはず。状況はどこまでも暗雲が立ち込めた。
身体の芯から冷えていく恐怖が止まない。心臓を痛く乱れ打つ鼓動が治まらない。
その時、けたたましい雄叫びが門の向こう側から響いてきた。
アアアアアア……!! と大地をも揺らがす咆哮。
その声を僅かに聞き取った門近くの人々は再び恐怖に立ち上がり、内地の奥へと逃げていった。また巨人がやってくる、また巨人に門を壊されると恐れおののいた。
「行くぞ!」
「……」
「!」
しかし何故だろう……はその時不意にピタリと震えが止まった。
あの大きさ、巨人の声に間違いない。それが門の中にまで響いてくるほど近くに迫っているのだからそれは耳を塞ぎたくなる恐怖でしかないのに……何故だか震えは止まった。
今も続く地響きは何のもの? まるで空に向かって吠え上がっているような、怒りを惜しげなく放出しているかのようなあの声は……何のもの……?
「……?」
門に向かって立ち尽くすをウォルト医師が呼ぶ。
住民達は逃げていきもう周囲に誰もいなくなった静かな門前。
何故だろう、涙が込み上げた。響いてくる雄叫びが頭の中で反響する。
そして震えた。冷えた怯えではない……熱を持った込み上げる興奮。
は小刻みに震える右手をゆっくりと喉元に、襟元から服の中に手を入れ首につけているペンダントを握った。くすんだ青の、泪型のペンダント。それをぎゅと握りは思い出す。
どんなに長い夜でも必ず朝はやってくる。
どんなに絶望的な今日でも必ず明日はやってくる。
人の意思はなくならない。
人類は世界を取り戻す。自由を掴み取る。夢を描き続ける。
そこには必ず、希望という名の光が降りてくるのだと。