トロスト区住民のウォール・ローゼ内地への避難が完了し門は施錠され、超大型巨人出現時の作戦に出陣していた駐屯兵団と訓練兵団の兵士達は壁を登り撤退を始めた。しかし依然として壊された門は穴が空いたまま。水門近くにある大岩で穴を塞ぐという作戦は立てられたものの、その大きすぎる岩を掘り出す作業すら進んでいなかった。
真っ先に駆けつけた先遣班、街の前衛を守っていた兵士達は全滅した。
中衛を任された訓練兵団にも多くの死者が出て、それでもなお壊れた門からは続々と巨人が街に入り込み兵士は喰い尽くされようとしていた。
「先生、もう一人お願いします!」
「こっちへ。酷いな、何をした?」
「砲弾に巻き込まれて火傷を、その後瓦礫の下敷きに……」
「呼吸が薄いな。背中から脚にかけて広範囲の熱傷、右上腕部の骨折、右側頭部座礁。奥の8番へ寝かせて」
「は、はい!」
巨人と対峙した兵士のほとんどはそのまま喰われ無残な肉塊となったが、寸でのところで救助された幾人かの兵士は壁を超え内地へと運ばれてきた。最も実戦経験に長けている調査兵団の不在は不運だったが、それに同行しトロスト区まで来ていた医療団がいたことはささやかな幸運だった。
内地へ避難した医療団は水門近くの兵士用の食堂を治療場にし運ばれてきた兵士の治療にあたった。初めて巨人を目の当たりにし動揺を隠せないのは医療団の医師達も同じだったが、血にまみれる兵士の治療を行うことで冷静さを取り戻すことが出来た。巨人の大きすぎる力による重度の負傷ほど見慣れていた。その光景はまさに惨状であったが、この5年間医師達はそんな地獄を見続けてきた。
「、5番で嘔吐!」
「はい。レイズ、こっちもお願い」
「ああ!」
「、こっち消毒終了!」
「ガイ、包帯を足首に3周、かかとを回ってふくらはぎの裂傷部分へ巻きあげて」
「は、はい!」
治療しても治療しても次々と患者が運ばれてくる室内は人で溢れ返った。
運ばれてくる負傷者はウォルト医師の初期診断により重・軽傷別に振り分けられ、奥のテーブルで白衣を赤く染めるは今にも命の灯火を消そうとする兵士の治療にあたり、それと同時に隣の軽傷患者を若い医師に指示しながら治療させた。巨人の脅威にさらされ続けた5年間で培われた医療の形態だった。
「終了です、運んでください。次お願いします」
「はい!」
傷口を縫合し糸を切り患者の安定を確認すると次の患者を運ばせる。
真っ赤な手袋を外し手を洗うはポケットの懐中時計を確認し、新しいものを装着して次の患者の治療にあたった。運ばれてきた時にすでに息のない者もいた。息があっても助かりようのない者も、治療が一分一秒遅れれば命が危ぶまれる者もいた。床も机も流れ落ちる血液でドロドロと黒ずんでいく。どんな強い武器を持とうとどんな巧妙な技を得ようとただの戯れにすぎなかったのか……結局人類は巨人に弄ばれるだけの存在なのか。そんな畏怖が心の奥から滲み出てくるのを手を動かすことで必死で蓋をした。
人で溢れかえる治療場に荒々しい声と足音が交錯する。
そんな騒々しい場が、ドォン! ……という音と地響きで一瞬静まった。
「なんだ、今の!?」
「砲弾の音? こんな近くで!?」
「まさか……内地の門が……!?」
一瞬静まった場内は騒然とし、治療の手伝いにあたっていた兵士達がバタバタと外へ出て行き門の方を見上げた。水門近くのそこからは建物に阻まれ直接門は見えなかったが、それとは別に……すぐ目の前に恐ろしいものを見た。土埃と立ち込める白煙で何が起きているのかも分からない情景の中、水門の壁際に浮かび上がった、異物―。
「なっ……巨人!?」
「なんだって!?」
見上げながら呆然とする兵士達の声で医療団もビクリと手を止めた。
「手を止めないで、集中してください」
誰かが外へと走りだそうとした時、の声が場内に響き渡りその足を止めさせた。
「だって……今巨人って言ったぞ!?」
「避難が必要なら彼らがそう指示します。治療を続けてください。ガイ、次」
「あ……8番、背中から脚に広範囲のね……熱傷、右上腕部の骨折と、右側頭部の挫傷、嘔吐なし」
戸口の外では兵士たちが今にも逃げ出しそうな弱腰で水門の方を見上げている。
それでもは治療の手を止めなかった。
心の中は不安が膨らみきって、治療する手も目の当たりにした巨人の残像で小さく震えていたが、赤く染まるマスクの下で口唇を噛み締め治療を続けた。
瓦礫に押し潰されている人の横を走り去ってきた。血を流し倒れている人を置いて避難してきた。助けられる力を持ちながら、助けずに見捨ててきた命がいくつもあった。いくら戦う兵士を助けようとしても壁外にまでついていけるわけではない。門が壊された街に居座ることは出来ない。医者でありながら、一番負傷者が多い戦いの最前線には赴けない。
だがここは戦場ではない。門が壊されない限り、ここが医療の最前線。
今も兵士達は命を賭して戦っている。逃げ出すわけにはいかない。
動かないに倣って、他の医師も恐れを飲みこみ再び治療に戻った。
外では何が起こっているのか、戦いの音は聞こえてはこない。巨人の足音や、前に門前で聞いたようなけたたましい咆哮も聞こえてこない。ただ治療場にいた兵士達はほとんど外へと出ていってしまい、遠くの方で誰かが何か訴えかけるような叫び声の切れ端を耳にした。状況が分からない。戦況が見えない。それでもはやるべきことに徹した。
は待っていた。調査兵団の帰りを待っていた。
でなければ、きっと立ってもいられない。
「医療団の皆さん、すぐ東の隣街へ移動してください!」
外が静かになった頃、兵士の一人が治療場へ駆けこんできて叫んだ。
「やはり巨人が!?」
「いえ、ここに巨人は入ってきていません。しかしじきにトロスト区の奪還作戦が行使されます。ここでは危険です」
「奪還だと……本気で言ってるのか!?」
「フザけるな! 巨人の巣窟になってる街に人を向かわせると言うのか! 無謀な戦いを挑むのは英雄とは言わんぞ、無駄死にだ!」
「これはピクシス司令の命令です! 従ってください!!」
「ピクシス……司令?」
その名前を聞いて誰もが感情を抑えた。
ドット・ピクシス司令。トロスト区を含む南側領土を束ねる最高責任者であり、人類最重要区防衛の全権を託された人物。
「だが……どうやって? 門を塞ぐことも出来ないのに巨人から街を奪還するなんて……」
「作戦は極秘事項です。お教えすることはできません。皆さんはいち早く隣町へ移動してください」
「仕方ない……移動しよう。動ける患者は馬車に乗って、動けない患者にはみんな手を貸せ」
「はい」
ウォルト医師の指示により治療場にいる医師と患者は荷馬車に乗り再び移動を始めた。
「あの……調査兵団の帰還は……?」
「まだです。作戦実行までに戻ってくれると心強いんですが……、伝令も出せないので調査兵団がこちらの不穏に気づかない限り早々に戻ってくることは困難かと……」
「そう……ですか」
「とにかく早急に移動を。おそらくまた……死傷者が山ほど出ますので、医療団の皆さんにもまだ救援を願います」
「はい」
伝令に来た兵士が門の方へと戻っていくと、も室内に戻り動くことの出来ない重症患者の手助けに向かった。医療団の荷馬車が東へと走り出す最中、一本隣のメインロードではトロスト区から一時撤退した兵士達が再び集められ作戦実行の時を待機しており、トロスト区奪還作戦は調査兵団もいないままに始まるようだった。
「、どうした……?」
荷馬車に揺られながら患者の様子を見ていた医療団の医師、レイズが塞ぎこむの様子を案じて声をかけた。頭を覆っている布とマスクで表情のほとんども見えないだけど、ウォルト医師の一番弟子であるレイズはにとっての兄弟子であり、付き合いも長くその異変はマスクの下でも見てとれた。
はまた街の最前線から離れることを悔やんでいた。
もともと壁外調査に向かう調査兵団に同行するために今日はトロスト区にいたのだ。
その前線からも離れることになり、今も壁外にいるだろう調査兵団からも距離を取るばかり。
調査兵団は誰も死んでいないだろうか……。怪我を負った兵士がやっとの思いで帰還したのにその街が巨人に占領されていたなんて絶望に近い。……リヴァイは、リヴァイは無事だろうか。ちゃんと……いつも通り、帰って来てくれるのだろうか……
「」
「!」
肩を強く掴まれはハッと目を覚ました。
目の前にはマスクをつけた赤髪のレイズが見え、そのうしろには同じように自分を凝視しているガイも見えた。
「どうした、大丈夫か?」
「う……うん……」
「……マスクを交換しよう。そんな汚れたマスク付けてると余計な事ばかり考える」
「うん……」
レイズは傍らのカバンの中から新しいマスクを取りだして差し出し、はそれを受け取ると赤く汚れたマスクを外した。ガタガタ揺れる荷馬車の上で感じたのは草の匂い。穏やかな風が吹いていることも今さら気づき、一息大きく深呼吸をした。壁の向こう側とはまるで別世界の平和な大地。空も澄んでいた。
「大丈夫か、しっかりしてくれよ」
「そうだよ、がいなくなったら医療団もヤバいんだからな!」
「大げさ」
不安そうな表情をするレイズに笑み返しはマスクをつけ直す。
血が肌に貼りつくような不快感がなくなり曇った頭の中にも爽やかな風が吹いた。
これから隣町でまた新しく拠点を作り、少しでも医療道具を集め後に運ばれてくるだろう多くの負傷者達を迎える準備を整える。やるべきことはいつも同じ。一人でも多くの無事を願い帰還を待つ。命の灯火を絶やさず帰還した兵士達を一人でも多く繋ぎとめる。はマスクの下で今一度堅く口を引き締めた。
その後、残った駐屯兵団と訓練兵団によるトロスト区奪還作戦が敢行された。
その内容は作戦実行にあたった兵士達以外知る由もなかったが、医療団が隣町に移動し即席のテントを張った数時間後、負傷した大量の兵士が続々と担ぎこまれ医療団はまた慌ただしく治療にあたった。
「見ろよこの負傷者の数……、この様子じゃ死人がどれだけいることか。やはり奪還作戦など無謀だったんだ」
「やめろ、今は治療し続けるしかない」
人類はこれまで巨人に勝てたことなど無い。100年前にはほとんどの人間が死滅し、5年前は再び現れた巨人によりウォール・マリアが陥落し残った人類の2割が滅んだ。巨人が侵攻すれば人類は後退を余儀なくされ、壁の中へ押し込められる人々は限られた敷地の中で満足な食料も得られず争いは絶えなかった。
それでも人類は諦めなかった。生き残るために、自由を取り戻すために戦いを挑み続けた。その度何百人もの死を目の当たりにし、何万人もが絶望し、それでも諦めずに進み続けた者だけが生き残った。
「おい、これ以上抱えきれないぞ、負傷者が多すぎる!」
「なんだ、なんでこんなに……!?」
「包帯がないぞ! シーツでも何でもいい、住民達からかき集めろ!」
医療団が移動した街には広く場所を取れる建物がなく、白い布で囲っただけの即席のテントはすぐに負傷者でいっぱいになった。腕を噛み切られ血を流し、踏みつぶされ骨を粉々にし、巨人の強さを目の当たりにした兵士の一体何人が再び顔を上げることが出来るだろう。人類は巨人には勝てない。それがこの世の道理。この世界の通説。命を賭す覚悟をした兵士でさえ恐怖に身を震わせ涙にうつ伏せる者が少なくはなかった。
「お願いします、これで最後です!」
「最後……?」
怪我人で充満した陰暗なテント内に足を怪我した兵士を肩に担ぎ駆けこんできた女性兵士が声を張り上げた。テント内のすべての医師と起き上がれない兵士達が女性兵士を見る。女性兵士はこれまで溜めこんできた涙をついに零し、歪めた表情を少しずつ解きながら敬礼の姿勢を取った。
「トロスト区の門を塞ぎました! 奪還作戦、成功です!!」
「……」
「成……功……?」
誰もが言葉を失った。動きひとつ出来なかった。
これまで何度もそんなことはあったが、そのどれもが絶望によるものだった。
けど今は違う。
「本当か……? 本当に、そんなことが……」
「人類が……初めて……巨人の侵攻をくいとめました! 初めて、人類が勝ちました!!」
「……」
陽の光が降り注いでいた。のどかな風が吹いていた。
そんな、当たり前だった昨日までの景色が、今やっと戻ってくる。
「まさか、そんなことが……」
「奇跡だ……」
「ああ……これで、死んでいったヤツらが初めて、報われたっ……!」
わぁっ! と声を張り上げるテント内は陰暗な空気を蹴散らし生気に満ち溢れた。
もう巨人は襲ってこない、生き残った、人類が勝った、生きている、家に帰れる、生きて家族に会える。血も悲愴も絶望も、溢れる涙で洗い流し、誰もが声を張り上げ涙した。
「……さぁ、みんな仕事に戻れ! まだ我々の戦いは終わっていないぞ!」
「おお!」
歓喜に盛り上がるテント内を粛清し、安堵したい気持ちを今一度引き締め直したウォルト医師は周囲の医師達を叱咤し治療を再開させた。その一番奥で、力を無くし返事をしなくなった兵士の治療にあたっていたは兵士の弱い手を握り顔を近づけた。
「聞こえましたか、奪還作戦が成功しました。あなた方がやったんです」
「……ああ……」
「必ず助けます。生きて家に帰りましょう」
「ああ……ああ……」
今にも消えていこうとしていた命たちが、沸き上がる歓喜の声で呼び戻され力を取り戻す。動かなかったはずの手で涙を覆い、消えようとしていた声を絞り出して泣いた。
「、こっちを頼む」
「……はい」
しかしその被害はやはり甚大だった。が必ず助けると励ましても、全身のほとんどを複雑骨折し、体内で内臓を破損した体を治療することは不可能だった。
けれども涙で洗われた顔はどこか清々しく、穏やかな顔で息絶えていた。
それも、悲しんでいる暇はない。すぐうしろに血を流し続けている患者が待っていた。
は血に染まった手袋を外し手を洗うと新しい手袋をして次の患者に取りかかった。
「眩暈や吐き気はないですか?」
「いや、大丈夫だ」
「問題ないでしょう。すぐに歩けるようになりますよ」
「ああ、ありがとう」
気がつけば空を横断していた太陽が右から左へ流れていき夕暮れになっていた。
テント内に淀んでいた呻き声は落ち着き手当てされた兵士達は穏やかに静まっていった。
そのテントに近づいてくる馬の足音。鳴き声を上げテントの前で止まった馬から飛び降り地に着いた影はすぐさまテントに近付いていき、張られた白い布の合間をバサッとはねのけ中を見渡した。中では隙間なく傷ついた兵士が座り込んではいたが、過渡期は越えたのだろう、切迫した空気もなく穏やかなものだった。その兵士達の中に点々と白衣の医師達が細かな治療を続けている。その中心で兵士に話しかけているの姿を確認した。
「兵長……リヴァイ兵士長だ!」
「おお、リヴァイ兵士長!」
入口付近にいた兵士がテントに入ってきたリヴァイに気づき声を上げると、それを聞きつけた他の兵士も一斉に顔を上げた。再び歓声が沸き上がる中心では立ち上がり、兵士達の隙間から遠くのリヴァイを見るとまっすぐこちらを向いているリヴァイと目を合わせた。その瞬間はようやく全身の力が抜けるほど安堵した。
リヴァイは無言のまま、すぐに身体を翻しテントを出ると馬に飛び乗り来た道を戻っていった。歓喜した兵士達は一体何だったのかと唖然としたが、その中心に立つは滲んだ涙が溢れ出るのを堪え、深く息を吸い口から吐き出して気を紛らわせ、また診療に戻った。
そうしてトロスト区の壊れた門は駐屯兵団と訓練兵団の決死の行動により塞がれ、その後急きょ駆けつけた調査兵団と駐屯兵団工兵部の活躍によりウォール・ローゼは巨人の侵入を阻んだ。それは人類が巨人の侵攻を初めて阻止した快挙であったが、それに歓喜するには失った人々の数はあまりにも多すぎた。
しかし……それは確かな一歩だった。これまでに失った命を見ればあまりに小さな一歩だったが、人類にとって限りなく偉大な躍進だった。