850年。トロスト区南端の壁が超大型巨人によって壊され、人類は再び巨人の侵攻を許した。トロスト区の住民が避難する間、壁となり巨人と戦った駐屯兵団、並びに訓練兵団の多くは巨人の力に敵わず殉死。100以上の犠牲者を出した。
訓練兵団所属、エレン・イェーガーもまた巨人の餌食となった。
戦況は絶望的に思われたが、突然現れた「巨人を倒す巨人」の存在により状況は一変。その巨人は通常ではないはずの知識と意思と技術を持って動き、20体以上の巨人を倒す。そしてその巨人の中から姿を現したのが、エレン・イェーガーだった。
戦いの中で巨人化したエレン・イェーガーの力に目をつけた南側領土最高責任者ドット・ピクシスはある奇策を実行に移す決断を下した。それは「巨人化した彼が大岩を持ち上げ破壊された扉まで運び穴を塞ぐ」というもの。不安と疑心とまた何百もの犠牲を経て、作戦通り巨人化したエレン・イェーガーは大岩を持ち上げ穴を塞ぐことに成功。トロスト区内に閉じ込めた巨人の掃討戦には丸一日が費やされ、その間壁上固定砲は絶えず火を吹き続けた。壁に群がった巨人のほとんどが榴弾によって死滅し、僅かに残った巨人も主に調査兵団によって掃討された。人類は一度は奪われた領土を奪還。初めて巨人の侵攻を食い止めた快挙となった。
……最も内側の壁、ウォール・シーナ内の住民達は5年前のように混乱した。
二重の壁の外の話である巨人侵略の内容は回紙でしか得る情報はなく、5年前にウォール・マリアが陥落した際に多くの難民が内地に押し寄せた時の混乱を思い出した。領土が減って最も危惧されるのが食糧問題。二重の壁内だけの領土では養える民には限りがあった。
「あ、おかえりレイズ」
「ただいま。やっぱり街中大騒ぎだよ。みんな回紙に振り回されてる」
「そりゃそうだろうな。オレ達だってあの近くにいたけどいまだに信じられないよ」
ウォール・シーナ内中央、王都の南側の街にあるウォルト医師の病院兼自宅。
買い物を済ませ戻ってきたレイズは荷物を机に下ろすと帽子を取り短い赤髪をわしわしと撫ぜる。内地に配られた回紙を見ていたガイはそれを机に置き、レイズが下ろした荷物の中身を包帯、ガーゼ、消毒液と振り分けた。
「でもあの壁の穴を塞いだって、どうやったんだろうな。俺達がいたテントの裏にあったあの大岩だろ? とても人が運べる大きさじゃなかったよな」
「それが……こんなものも街に出回ってたよ」
「なに?」
レイズはまだ手に持っていた丸めた紙を机の上に広げガイと一緒に覗いた。
それは王政ではなく商会が発表した回紙。
「商会の情報だから本当かどうか疑わしいものだけど……」
「……え!? 巨人が岩を持ち上げて壁を塞いだって!?」
「信じられないよな、やっぱり……。これじゃあまるで……巨人が人に味方したみたいじゃないか」
「オレ達避難するのに必死であの後トロスト区で何があったかなんて気にしてる場合じゃなかったもんな。その後も治療でそれどころじゃなかったし。でもこれが本当だとしたら……」
「ああ……オレ達には知らせられないようなことが起きてる。きっとが朝から調査兵団に呼び出されていったのも、このせいなんじゃないかな……」
ある者は「巨人化する少年」を破滅に導く悪魔と呼び、またある者は希望へと導く救世主と呼ぶ。巨人再来と巨人化する少年の話は内地の民衆に多大な不安と混乱を及ぼした。
当事者であるエレン・イェーガーは巨人となって大岩で穴を塞いだ後、巨人の体内から救出されたがそのまま昏睡状態となった。三日後にようやく目覚めたエレンは王都中央にある審議所で今後の動向を審議され、エレンの存在を脅威とする憲兵団はエレンの人体を徹底的に調べ上げた後に処分すべきと提案し、調査兵団はエレンを正式な団員として迎え入れ巨人の力を利用しウォール・マリア奪還を提案した。
審議は揉めに揉めたが、調査兵団13代団長エルヴィン・スミスが次の壁外調査でエレンを同行させエレンが人類にとって有意義であることを証明すると宣言し、尚且つ万が一エレン暴走時には速やかに処分すべく最も力を持つ兵士、リヴァイ兵士長をエレンの監視役としてつくことを確約し、ついにエレンの身柄は調査兵団に委ねられる決定が下されたのだった。
……それより数時間後の、太陽が天頂に上がった午後。
食糧や水、生活用品などの物資を乗せた荷馬車がガタガタ揺れながら平地を走っていた。
「こんなところに昔の調査兵団の本部が?」
「兵団が結成した当初の話だ。壁からも川からも離れてるから結局そう長いことは使われなかったようだがな。古城を改装したものだから見てくれだけは立派なものだぞ。ほら、見えてきた」
荷馬車を運転する兵士が前方の空を指差すと、伸びっ放しの草木とうっそうとした木々の奥に古ぼけた城の塔が見えてきた。調査兵団への配属が決定したエレンは、リヴァイを筆頭にした計5名の「特別作戦班」の監視下の元、この郊外にある旧調査兵団本部へと連れてこられている。
「でも、お前も大変な役目を言いつけられたな。化け物の体調管理なんて」
「化け物って……普段は危険はないんでしょう?」
「ないもんか。巨人化するガキなんて、人類史上最悪の兵器じゃねぇか。なんだってエルヴィン団長もリヴァイ兵長もあんなガキの世話を買って出たんだか……」
「……」
近づくにつれその古く壮大な城の全貌が現れる。
城の入口横では6頭の馬が小屋に入っており、その手前には井戸がある。
長年使われていない城だがその井戸はまだ使えるようだった。
「お疲れ様です、特別作戦班一ヶ月分の物資を運搬に来ました!」
「ああ、ご苦労さん」
荷馬車を運転してきた兵士が中まで荷を運んでいくと、それを出迎えたグンタと長い髪をうしろで束ね直すエルドが荷運びを手伝おうと外へ出ていった。その後からも荷物を持って入ってくると、特別作戦班唯一の女性兵士ぺトラが驚き声を上げた。
「、どうして貴方まで?」
「リヴァイ兵長から依頼を受けました」
「さすがリヴァイ兵長だ。他の医者じゃまず引き受けねぇだろうが、オレも認めたお前ならたとえ火の中水の中だからな……」
ぺトラのうしろで窓を拭くオルオが首を振り舌を巻きながら呟く。
そのオルオの様子にはきょとんと目を丸くしてぺトラに近付いた。
「オルオさん……どうかされたんですか?」
「もう……説明するのもバカバカしいよ。今朝からずっとああなの。この班に選ばれたことが相当嬉しいらしい」
「どういうことですか?」
「アレ、リヴァイ兵長の真似よ。似ても似つかないけど」
「ああ……」
ああ……と納得しつつも、ぺトラが言う通りオルオにまるでリヴァイとの共通点は見当たらない。本人は口調だけでなく前髪の分け方や後頭部の刈り上げまで真似したようだが、その薄茶色のクセ毛ではやはり似ても似つかない。
「で、そのご本人はどちらに」
「上の階にいるわ。さっき掃除をやり直させてたから」
「じゃあご挨拶に行きます」
「うん」
荷物を置きがその部屋から出ても、いつまでもリヴァイの真似をやめないオルオとそれにそこはかとない苛立ちを発揮するぺトラの言い合いが響いていた。街はどこも巨人の恐怖と巨人化の少年の噂で少なからず鬱屈していたのに、街から外れたここでは穏やかな空気が漂っていることには安心感を覚えた。
「そもそもお前は手順がなっていない。床から掃除してどうする。掃除は上からだ」
「は、はい!」
石畳の階段を上がっていくと聞き慣れた低い声が反響してくる。
そしてそれに呼応したのがおそらく、エレン・イェーガー。
巨人化しトロスト区の壊された門を塞いだ少年。
階段を上りきったは入口の前でひとつ息を吐き、ぐと口に力を込めてから口端を上げた。
「お疲れ様です、リヴァイさん」
「来たか」
一度振り向いたリヴァイは中に向かって「おいエレン」と呼びかけた。
緊張感のある返事をして入口まで急ぎ駆け寄ってくる足音。
は先日トロスト区で出会った訓練兵の少年を思い描いた。
「こんにちは。エレン?」
「あ……はい」
リヴァイの前から顔を出したエレンは、先日会った時よりも若干痩せた印象を受けた。
何ごとかと顔を覗かせただろうエレンはを見て少し目を丸くする。新兵では頭から白い布を被り顔もマスクで半分以上が隠れているの姿は目新しいものだった。
「こいつは医者だ。しばらくお前の体調を管理する」
「医療団のです」
「よろしくお願いします。あの、前にトロスト区で……」
「覚えてくれてた?」
「はい。医療団で女の人って珍しいなって思ったので」
「そうか。じゃあ私は君に二度も助けられたんだ」
「そんな、」
なんの話だと口を挟んだリヴァイにはふふと笑い含んだ。
「あんまり顔色がよくないね。眠れてない? 食事は?」
「どちらも、あまり……」
「じゃあ少し診せてもらってもいい? リヴァイさん、私にも一室くださいな」
「自分で掃除しろよ」
「お、オレが掃除します」
「エレンの部屋はどこ?」
「オレは……地下です」
「地下?」
「オレは自分の力を自分でも掌握できていないので、万が一突然巨人になっても、すぐに拘束できるようにと……」
「ふん……随分と厳しいんですね」
「当たり前だ。上で寝られて知らん間に潰されたんじゃ溜まったもんじゃない」
「じゃあ診療室も地下ですか?」
「診療室は一階と元来決まっている」
「あら、初耳です」
歩きだし階段を下りていくリヴァイにクスクス笑いながらはついていく。エレンがその二人の背を見たまま歩きださずにいると、が階段を一段下りたところで振り返り「エレン」と呼んだ。それでようやくついていかなければいけないことを認識したエレンはふたりを追いかけ階段を下りていった。
城の入口近くの一室を診療室とし、まだ手つかずのその部屋が掃除されるまでは食堂で診察を始めた。時計を見ながら脈拍を数え体温を計り、心音を聞いたり目の下を押さえたり骨格を確かめた。
「やっぱり少し貧血気味ね。食欲は?」
「今は腹減ってます」
「じゃあ今晩はたくさん食べて、良く休んで。体温計置いていくから毎朝起きたら体温を計ってね」
「さんはここに住まないんですか?」
「でいいよ。私は他にも患者を抱えているからここにずっといることは難しいの。でも極力来るから、気になってることや不安に思ってることは何でも言ってね」
「不安……ですか」
採血させてねとがカバンから小箱を取りだすと、エレンは袖を上げ右腕を机の上に差し出した。はエレンの右手の親指を握りこませて二の腕を縛り、浮き上がった血管に消毒液をつける。
「普段の貴方の体調を診るくらいなら兵団の医療班で良かったと思うのよね。でもリヴァイさんは私を貴方の主治医に付けた。それはきっと、兵団の方じゃないほうが貴方が気を使わないと思ったからじゃないかしら」
「リヴァイ兵長が……」
「でも私も貴方のことはよく分かっていないから、いろいろ教えてね」
「でも……オレも自分のことなのに何も分かってないんです。なんで巨人になんてなったのかも、本当にその力がきちんと使えるのかも……」
注射筒に針をつけその先端を消毒部分に添わせるとエレンは少し身構え痛みを待った。けれども針は痛みを感じることなくすんなりと皮膚を通り、筒内に赤い血を溜めていった。幼い頃は注射器といえば怖いものでしかなかったのに、あまりの呆気なさに気が抜けてしまうほど。
「……貴方のその力に関する報告書は私も見せていただいたけど、それはいいの」
「いい、って……?」
「だって私は巨人の研究家じゃないし、人体のことしか分からないもの。私が診るのは貴方の力についてじゃなくて、貴方自身。貴方が元の元気を取り戻して、力を蓄える手助けをすることが私の役目」
「……怖く、ないんですか」
「うん?」
二度採血して傷口を綿で押さえ、腕を縛っていたゴム管を取り外し綿をテープで留める。
これまで何度も繰り返してきたんだろう、流れるような手際の良さ。
「巨人になるなんて……普通じゃないですよ。いつ、どんな時になるかも分からないのに、こんなとこで俺とふたりでいて……怖くないんですか」
エレンは三日間の昏睡状態に陥った後、目覚めた時には地下牢にいた。
腕には重い手錠がはめられ、鉄格子の中、何人も見張りがついて……。
審議所の中でも大勢の人の真ん中で跪かされ、化け物だ、即刻処分すべきだと怒号を浴びた。
誰もが怯えた目で自分を見ていた。武器を向け、近寄りもせず、巨人だ、悪魔だ、殺せ、殺せと……。
「エレン、手を貸して」
「は、はい」
一度は下げた右腕をエレンは再びに差し出した。するとは腕ではなく手を握り「そっちの手も」と左手も要求し同じように握った。目の前に座るが両手を包むように握りエレンは僅かに動揺する。
「随分冷えてるね。緊張してる?」
「え? あ、いえ……はい」
「緊張してるとこんな風に手が冷たくなるの。目を閉じて深呼吸してみて」
よく分からないままに、エレンは言われた通り目を閉じ大きく息を吸い込む。
腹の底から長く吐き出して、また吸い込んで、それをまたゆっくり吐き出して。
「私の手の温度が分かる?」
「はい……温かいです」
「そう。深く息を吸って、ゆっくり吐き出して。体の中を血液が巡っているイメージをしてみて。手の先から心臓に、心臓からまた全身に流れていくイメージ」
何度も何度も繰り返す。目いっぱい吸って、ゆっくり吐いて。
それを繰り返すうちに、僅かに感じていた疑問が手の冷たさと一緒に溶けていった。
心臓の鼓動で押し出される血液が体中を巡り、冷えた手が少しずつ温度を取り戻す。
ふたつの手の温かさが混ざり合って、小さいのに大きかった鼓動が静まって、腹の底に溜まっていた不快感も和らいで。
「当たり前のことだけど、息をするというのはとても大事なことよ。ほら、温まってきた」
体の中が落ち着くと、次第に頭の中も冴えてきた。
埃臭さと、肌触りの悪い湿気。瞼の裏の暗闇と、遠くの話し声。握っている手の温度。
「大丈夫よ、エレン。医学的に見ても、貴方はちゃんと人間だから」
「……」
手が温まる。全身を血が巡る。固まっていた心が解けて、瞼が熱くなる。
思わずまつ毛が濡れて、エレンはぐと息を止めた。
「おい」
ガチャ、と扉が開く音と共に低い声がエレンをビクリと驚かせた。
扉に振り向くとリヴァイが冷えた眼で静かにこちらを見ていて、エレンは即座にの手を離し立ち上がった。
「いつまでやってる。終わったら掃除に戻れ」
「は、はい!」
エレンはに「もういいですか?」と伺い、笑って頷いたに礼を言うと逃げ腰にリヴァイの横を走り抜けていった。カツカツと石畳を叩くブーツの音が遠ざかっていくのを聞いて、はマスクの下でふと息を吐きだす。
「彼には十分な休息が必要だと思います。それ以外は特に酷い異常は見られませんでしたので、私もこれで失礼します」
端的に報告しながらは道具を片づけカバンに入れる。
それを持って立ち上がるとリヴァイの前で頭を下げ、扉を出ていった。
「」
遠くでエレンと他の班員達との会話が小さく聞こえる以外、静かな城内。
四角い石が敷き詰められた床と壁は日暮れと共に温度を下げていく。
大きな城と大きな静寂。その中であまりに小さなリヴァイの声だが、はきちんと聞き取り足を止めた。
リヴァイは変わらず、静かな目でを見る。
けどは足を止めはしたものの、リヴァイを見返すことはせずに言葉を待った。
「……明日にでもハンジがあいつを実験するだろう。立ち会え」
「はい。ではまた明日」
リヴァイに向き直し、は再び深く頭を下げ出口に向かっていった。
途中、足音を聞き付け通路に顔を出したぺトラが「一緒に食事していったら?」と声をかけたが、乗ってきた荷馬車に乗らなければ帰れないからと断り城を出ていった。
荷馬車が走りだし、見えなくなると再び静かな夕暮れの古城。
冷えた石畳に囲まれた薄暗い通路でリヴァイの舌打ちが小さく響いた。