現在の壁外調査の目的は来る第二回ウォール・マリア奪還作戦のための行路を作ることにある。しかしエレンの登場により今後はそれに加え、エレンが父から託されたという「鍵」の秘密を探るべくエレンの生家があるシガンシナ区の奪還が最大の目標となった。
 今回の壁外調査にはエレンを始め、第104期調査兵団新兵も参加することとなった。入団したばかりの新兵がいきなり壁外遠征に同行することは珍しいことだったが、そのために新兵達は調査決行日までの一ヶ月間で巨人の巣窟である壁外を進撃するための陣形練習に勤しむこととなった。エルヴィンが考案した布陣はこれまでの壁外調査の成功と犠牲を経て培われたまさに英知の結晶。その陣形を組織することで調査兵団の生存率は飛躍的に伸びたと言われている。

「何をしてるんだ俺は……壁外調査前にこんな……」
「軽い捻挫ですよ。調査までには良くなります」
「なぁ……俺は緊張してるのか?」
「そうですね、いつもより表情が堅いです。きっと馬に緊張がうつってしまったんでしょう」
「ああ、駄目だな俺は……。そもそも、班長なんて器じゃないんだ」
「今回は新兵も多く参加していますし、期待されているんですよ」
「やめてくれ、余計にビビっちまうよ……」

 日に日に近づく壁外調査は訓練の熟練度が上がると共に現実味を増していく。
 あらゆる危険とあらゆる危機的状況を想定し、これまで目の当たりにしてきた巨人の脅威を思い返し、失ってきた兵士達の志を無碍にしないためにも残った兵士達は作戦を練り直し訓練を繰り返しまた壁外に行く。それは一概に、勇ましいから出来ていることではない。

「本当に俺に班を率いることなんて出来るのか? 一番巨人にビビってる俺が、新兵に恐れるなと言ってるんだぞ。自分で笑っちまうよ……。俺は隊長達のような特別な人間じゃない。一介の兵士だ。自分の実力は自分が一番分かってるよ。きっとそういうヤツから……いなくなっていくんだろうな」

 調査兵団に属する兵士だろうと、何度も壁外へ行って帰ってきた兵士だろうと、だからといって恐れがないわけではない。またあの場所へ行くのかと思うと震えが止まらない。巨人に襲われる夢ばかり見る。喰われる感触を肌で感じる。体の真ん中を氷が落ちていくような。骨の髄からゾッとする寒気に襲われる。

 頭を抱えている兵士の前で、は兵士のほんのり赤く腫れた左の手首に氷袋を当てていた。処置をするほどでもない些細な怪我だけど、過敏になっている兵士にとって心を巣食うには十分な重症だ。

「状況を想定することは大事なことです。でもその中には、いいことも含まないといけません。ローラントさんはこれまで何度も壁外に行って、帰ってきたのですから、今回も同じです。今度もきちんと帰ってこれます」
「これまでだって……俺はいつも助けられてばかりだ。俺が失敗したせいで喰われたヤツもいた……俺が逃げたせいで助からなかったヤツもいた……。俺は強くない……俺には隊長達や、リヴァイ兵長のような……」
「ローラントさんに隊長さん達が強く見えているなら、それはつまり、ローラントさんも同じだということです」
「同じ……?」
「新兵にとってローラントさんはとても強く見えています。何度も壁外を経験し帰ってきた先輩は精神的な支えになります。同じように隊長さん達や、リヴァイ兵長だって、恐れはあります。誰も特別じゃありません。ローラントさんと同じ……ひとりの兵士です」
「まさか、そんなことは……。リヴァイ兵長なんて、あの人の強さは尋常じゃない」
「そうですね……リヴァイ兵長は別かもしれません。あの方は小さな巨人ですから」
「はは……それ聞かれたら怒られるぞ」
「大変。内緒にしてください」
「はは」

 ようやく体の堅さが緩んで兵士にぎこちないながらも笑みが零れると、も頬笑み氷袋を外した。

「包帯はしません。新兵に不安を与えますから」
「ああ、大丈夫だ」
「他に問題はありませんか?」
「ああ……
「はい?」

 数日後に迫っている壁外調査に向けて、今日の全体訓練には医療団が同行していた。広い平地に多くの兵士と馬が点在し、炊事場近くには白い布で囲われたテントが数張り建っており、訓練を終えた兵士たちが診察と採血を受けるため列を成している。その中で一際長い列が出来ている小さなテント。

「あのな…………」
「はい」
「……俺と、結婚してくれ!」
「え……?」

 長く列を成す理由はいくつかある。の診察を求める兵士が多いことが最もな理由。次にの診察は通常より時間がかかることが多い。体の異常や怪我を見るだけで済まないからだ。多くの兵士は彼女に心の内を吐露する。それは体の異常よりも強く活動に支障をきたす重大な病み。兵士達は普段見せてはならない心の内を話すうちに、糸を手繰るように奥深くの深層まで行き着く。自分でも見えていなかった深い底。怯えうずくまっているような小さな自分。……そしてそこで光を見る。

「ずっと思っていた、お前しかいないんだ!」
「落ち着いてください、ローラントさん……」
「俺は必ず帰ってくる……そうしたら俺と結婚してくれ!」
「いえ、あの、それは……」

 何にも遮られない光。誰にも邪魔されない聖域。
 手を延ばさずにはいられない。それは救いだから。
 そしてそれは時に思慕へと代わる。

!?」

 思い余った兵士が興奮で立ち上がりの腕を掴むと同時にテントの入口から布をはねのけエレンが駆けこんだ。

「ちょっと、何してるんですか!」
「な、なんだお前……!」
「なんだじゃないですよ、アンタこそ、手……離せって!」
「お前……邪魔だよ、出てけよ!」
「落ち着いてください……、エレン、あなたも!」

 ふたりの間に割り込みエレンはを掴む兵士の手を離させようとするが、相手も同じ、それも自分より力を持つ兵士。そう簡単にはいかずふたりは揉み合った。

「はーいストップ、そこまで!」

 小さなテントで起こった小さな諍いを、手を叩き明るく仲裁した声に全員がピタリと止まった。

「ハ……ハンジ分隊長!」

 ハンジを目にして兵士はようやく我を取り戻し勢い余った行動を抑制する。
 それと同時に割り込んできた少年兵士が巨人化する人間、エレンだということにも気付き兵士は途端に身を引いた。

「はいはい、このテントは時間かかりすぎだからもう解散。夜になっちゃうからね」
「す、すみませんでした!」
「駄目だよ君、に手を出すなんて、リヴァイに殺されたいの?」

 ハンジが笑いながら兵士の背をバンバンと叩くと、兵士はハンジの背後……テントの入口にリヴァイもいることに気づき、背筋を凍らせ今一度「すみませんでした!」と声を高く引きつらせテントを駆け出ていった。

「大丈夫? 
「うん。あー、ビックリした……」
「お前が悪い」
「私……ですか?」
は、何も悪くないですよ」
「お前が悪い」

 テントの外に出来ていた長蛇の列は他のテントに分散され誰もいなくなっていた。
 リヴァイ班は訓練を終えてもエレンの診察を終えない限り戻れない。しかしエレンの診察をするはずののテントには待っていたら日が暮れてしまうほどの列が出来ている。それに苛立ちを隠せなかったリヴァイを見かねてハンジが列を解消したのだった。

「駄目よエレン、先輩兵士に向かって……あんな」
「関係ないでしょ。がしてんのは診察で……、なのに、ああいう……」
「君は、あと5本くらい血を抜かなきゃ駄目ね」

 静かになった小さなテントで、の前に座るエレンの腕から流れ出る血を注射筒に受け止める。トロスト区奪還作戦からの巨人化実験で体への負担が蓄積されていたエレンも今では回復していた。

のファンは多いからね。特にここ1・2年でうちに入った兵士は知らないから」
「知らないって、何をですか?」

 離れた椅子に座るハンジの言葉にエレンが振り返ると、ハンジは右隣に立つリヴァイを見上げた。

「そいつはいつもツラ隠してやがるから想像と期待が膨むだけだろ。実際見せてやればいい。大したことないと分かるだろうよ」
「そんな、ことは……」
「エレン終わった? じゃ私達は先に行ってようか」
「あ、はい」
「ハンジ分隊長は診察終えられたんですか?」
「私はもうウォルト先生にしてもらったよ。じゃあお先に、リヴァイ」

 めくり上げていた袖を戻すエレンを連れてハンジはそそくさとテントを出ていった。
 日が高く昇っていた頃は眩しいほどだったテント内が鈍い白に包まれている。
 器具を揃え直しがお待たせしましたと声をかけると、組んでいた腕を解くリヴァイはの前に座った。

 テントから出て覗いた空は雲が広がっていて太陽も壁の向こうへ沈んでいこうとしていた。平地を撫ぜる風に僅かな草木がなびき、この数分で兵士は随分と減り閑散としていた。

「ハンジさん、リヴァイ兵長とって……親しいんですか?」
「うん?」
「オレの診察をすることになったのも、リヴァイ兵長に頼まれたからなんですよね。リヴァイ兵長じゃなかったら……引き受けて無かったかもしれないって言ってました」
「そうなの? まぁ彼女もアレで普通の女の子だったってことか」
「それにハンジさん達にはちゃんと階級で呼ぶけど、リヴァイ兵長だけはリヴァイさんって呼んでいるし」
「はは、よく見てるね。そうねぇ……ま、秘密の仲ってヤツ?」
「秘密の仲?」

 ハンジの含んだ言い方がまるで解せずエレンはそのままを反復した。

「エレンはのあのマスクの下、見たことないの?」
「ありません。あ、一度マスク付けてなかったことはありますけど、夜で暗かったのでぜんぜん。あれが何かあるんですか?」
「ま、あのマスクの下を見たことのないヤツじゃの相手は務まらないってことかな。それもまた彼女が”聖女”と呼ばれる所以だよ」
「聖女?」

 それでもよく分からずに首を傾げていると、遠方から「おーい、エレン!」と呼ばれ、振り返るとエレンは別のテントの近くに見覚えのある姿を見つけ「あ」と口を開けた。

「ハンジさん、同期のところに行ってきていいですか?」
「どうぞ」

 ハンジの許可を得て、エレンは遠くで手を振っているアルミンの元へと走っていった。他にもミカサとジャンがいて、皆同じ調査兵団のマークがついたジャケットとマントを着ている。トロスト区で3年間同じ訓練兵として過酷な訓練をこなし同じこの調査兵団に入団した第104期生だ。

「久しぶりだな。いつも同じ所にいるのになかなか会えねぇからな」
「この人数だもんね。エレンはどう? リヴァイ班の人たちとは」
「ああ、もう慣れた。いい人達だ」
「お前のことだからすぐ歯向かってボコボコにされてんじゃねーのか」
「するかよそんなこと」
「本当に? 嫌がらせされたり、不当ないちゃもん付けられたりなんかは……」
「お前はいつもいつも……ねぇってそんなこと」

 行き着くとそうそうアルミンと拳を合わせ、背の高いジャンが見下すようにからかってくるのをはねのけ過保護なミカサに呆れる。普段遠くに見かけても何か見えない壁のようなものを感じてしまう時があるけど、こうして傍にいればすんなりと馴染んでいける。それが何より心地よかった。

「おいエレン、お前”聖女”知ってるか?」
「聖女?」
「医療団にすっげぇ美人な女の医者がいて、その人のことみんな聖女って呼ぶんだ。さっきまでその聖女のテントだけすげぇ長蛇の列だったんだ」
「ああ……」
「オレなんて先輩達にお前らはあそこに並ぶなって言われたんだぜ。どんな美人なんだよ。見てみてぇよな」

 エレンはすぐにのことだと分かった。自分はいつも隔離された場所にいるからどんな噂も届いてはこないが、入ってまだ一ヶ月も経っていない新兵達にまでそんな話が届いているとなるとよほどの認知度なんだろうと思った。

「さっきまでそのテントに並んでた先輩達がみんな別のテントに回されてすごく険悪だったんだ。でもあのまま並んでたら夜になっちゃってたよ」
「そうそう、俺達別のテントに並んでたのにすげぇ怒った先輩達が割り込んできて、それでこんな遅くなっちまったんだ。一目見せてもらわねーと割にあわねーよな」
「今行けば会えると思うぞ。あのテント。でもいつもマスクしてるから顔は見れねーけど」
「は?」
のことだろ? オレの主治医だ」
「……」

 しばらく目を丸くして直立すると、ジャンは堅く握った拳でエレンの頭を殴った。
 それに対しミカサは小さく「ジャン」と諌めるがアルミンは不憫な目でジャンを見上げた。

「いってぇ……! なにすんだよ!」
「お前はいつもいっつも……!!」
「はあ!?」
「で、どーなんだよ! 美人なんだろーな、どんな人だ?」
「いや、だからマスク付けてるから美人かどーかは……。どんなって言われるとまぁ……めちゃくちゃ優しい」
「あーそーかよ! おいエレン、お前の主治医なら会えるだろ、会わせてくれよ!」
「いーけど……」
「じゃあ僕も行ってみようかな。ミカサは?」
「……」
「なんだよ、その目……」

 急かすジャンに突かれエレンは歩き出し、それにアルミンとミカサもついて4人は小さなテントに向かっていった。他のテントが解体され片づけられていく中、エレンは先程までいたテントに入ると中にいるだろうに声をかけ、他の3人はエレンのうしろから顔を覗かせた。

「……なんだお前ら」
「あ……すいません、リヴァイ兵長」

 中に入るとちょうど診察を受けていたんだろうリヴァイが立ち上がり、エレンのうしろでジャン達は焦って敬礼の姿勢を取った。ミカサとアルミンはエレンが審議所で囚われている時に証言者として召集されていたから一度間近に見ているが、所属兵団の兵士長の位にあるリヴァイなど滅多と会える人物ではない新兵にとっては背筋も凍る存在。

「あの、ちょっとに……」
「どうしたの?」

 何と説明すればいいかも分からないエレンが口ごもると、リヴァイのうしろでマスクをつけたが顔を覗かせた。

「すぐに帰るぞエレン。このテント片づけてやれ」
「はい!」

 まっすぐ向かってくるリヴァイに左右に分かれて道を空けるエレン達はホッと緊張を解いた。

、こいつらオレの同期なんだ。に会いたいっていうから連れてきた」
「私に? 何かご用?」

 歩み寄ってくるエレン達に立ち上がるは笑み返すが、やはりマスクでほとんど顔は見えない。頭にも白い布を被っていて僅かに覗く髪色が黒だということくらいしか分からないし、アーモンド形の目と黒い瞳と睫毛、すっきりと通った鼻筋と白い肌が美人といわれればそんな気もするというくらいにしか分からなかった。

「じゃあ貴方がアルミン?」
「え? はい、アルミン・アルレルトです」
「オレ、に壁の向こうの話ばかりしてるからな。お前から教わったことだって」
「そんな、僕だって本で読んだだけなのに」
も壁の向こうに行きたい組だ。空の果てが見たいんだってさ。な」

 振り返るエレンには笑って頷き返す。
 そのエレンとアルミンの間から割って入ったジャンがに両手を差し出した。

「ジャン・キルシュタインです! オレの話は?」
「ジャン?」

 ジャンと握手を交わしながらはエレンに目を向けるが、ジャンのうしろでエレンは「あーお前の話はなんもしてねーや」と吐き捨てるからふたりはまた睨み合った。そのエレンのうしろ襟をぐいと引っ張りミカサがケンカッ早いふたりを引き離した。

「貴方が……ミカサね」
「……」
「おい、ミカサ!」

 いつかの夜にエレンが零した家族の話。その中に出てきたミカサの名前。
 でもミカサは黙って見返すばかりで挨拶も返事もしないものだからエレンは肘でドンとついた。

「……」

 ごめん、コイツいつもこんな感じで、ヘンなヤツなんだ。
 エレンが取り繕う隣でミカサはいまだ沈黙のまま。
 そのミカサを、はまっすぐ見ていた。これまでずっと穏やかな笑みを携えていた目を丸くして、見つめた。

「……貴方……」
「なんですか」

 低く愛想のない声をようやく発したミカサもまたの目を見た。

「……もしかして、トロスト区で門の前まで迫ってきた巨人を倒してくれた……あの時の訓練兵かしら」

 笑みを取り戻し、はトロスト区に巨人が襲来した時に内地へ続く門の前で巨人を一瞬で倒し民を守った訓練兵の少女を思い出した。その容姿にではなく、首に巻いた赤いマフラーを覚えていた。

「はい」
「私もあの時あの門の前にいたの。貴方がいなかったらきっと死んでたわ。ありがとう」
「自分の仕事をしたまでです」
「ミカサッ」

 表情も口調も微動だにしないミカサに再びエレンが喰いかかる。
 慣れた態度、砕けた空気、緩んだ表情。自分には随分慣れ親しんでくれたと思ってもやはり同じ年の同じ苦労をしてきた仲間達と接している時の顔は違う。15歳の少年のままのエレンを見れた気がしてはふふと声を上げて笑った。

 するとは一度4人から離れ、台の上に置いていたカバンの中から何かを手に取りミカサの元へ歩み寄った。そうしてミカサに差し出したのは小さな丸いケース。

「薬よ」

 そう言いながらは自分の右頬を指す。
 ミカサの右頬、目に近い部分には小さな切り傷があった。
 エレンがトロスト区で巨人化し壊れた門を塞ぐ作戦中、自我を保てず暴れた巨人化したエレンはミカサをも攻撃した。その時に負った傷跡。

「もう痛みもないですし」
「跡が残ったら困るでしょう。女の子なんだから」
「……」
「へッ、女の子ってガラかよ」

 エレン、と諌められエレンはぐぅと息を飲む。
 ミカサは差し出されるそれを静かに受け取った。

「さ、もう帰りましょう。兵士長様がきっとご立腹だわ」
「あ! そうだ、テントも片づけないと!」
「いいのよ、私やるから」
「そんなわけには……怒られます」

 恐れ青ざめた顔でエレンが急いでテントを解体にかかるとアルミン達も手を貸しテントはものの数分で小さく片づけられた。外はもう日が暮れ光を失いかけている。急いで待たせている班の元へ戻っていくエレンと同期達。途中振り返り手を振ったエレンには手を振り返した。

 遠く小さくなっていく少年達を、は薄暗い中で見つめ続けていた。
 エレンと別れ馬に乗るジャンとアルミン、そして……ミカサ。
 黒い髪をなびかせ馬にまたがるミカサはそのまま走り去っていく。
 その姿を、は立ち尽くして見ていた。

 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne