リヴァイ班の古城での生活は約一ヶ月続いたが、それも今日で一端の終了となる。
ついに明日に迫った壁外調査。その結果によってエレンは今後の処遇が左右される。この城での生活が続くかもしれないし、人並みの生活に戻れるかもしれない。再び憲兵団に身柄を拘束されるかもしれないし、やはり人類にとって脅威だったとみなされ処分されるかもしれない。
「これちゃんと洗ったのか?」
「洗ってあるだろ」
「ここ、汚れが残ってる。こんなのに入れたら兵長がどんな顔するか」
「……洗い直す」
「グンタさんって料理うまいですね」
「最後の晩餐にならなきゃいいがな」
「オルオ、馬鹿言ってないで兵長呼んで来い」
「ぺトラがさっき行ったよ」
グンタが皿に盛ったシチューをオルオがテーブルへ運び、人数分のパンを振り分けるエルドの隣でカップにお茶を注ぐエレンが各席に配る。この一ヶ月間の古城生活で食事、掃除、洗濯の分担はおのずとそれぞれの特性に寄り決まっていた。
テーブルに料理が並び最後の夜の食事を始めようとした頃、コツンと石畳にあたる靴音がして、エレンがドア口に振り向くとそこにはぺトラが立っていた。食事が出来上がりリヴァイを呼びに行っていたはずのぺトラだが、そのそばにリヴァイはいない。
「ぺトラさん、兵長は?」
「あー、うん。先に食べてろって」
「何かしてるんですか?」
「ん……すぐ来るって言ってた」
ぺトラは止めていた足を部屋の中に踏み出し奥の椅子に座った。
その行動に違和感を覚えたエレン達はそれぞれに顔を見合わせる。
「そうだ、の分もありますか? オレ呼んできます」
「ああそうだな。呼んで来いエレン」
いつもなら日が暮れる前に帰っていくも、明日の壁外調査の準備のために城に来ていた。つい先ほどまで最後の検診を受けていたエレンはを呼びに行こうと扉に向かった。だが「エレン!」とぺトラが身を乗り出し呼び止めた。
「はい?」
「も、後でいいって。準備がね……大変みたい」
「準備なんて食事の後でもいいんじゃ」
「先に食べてましょ。わぁ、おいしそう」
両手を合わせ気丈に声を上げるぺトラに班員達は再び目を見合わせるが、そう言われては仕方のないエレンは席に着き全員で食事を始めた。
「エレンは初めての壁外だからな、緊張してるだろ」
「ガキには荷が重いだろうよ。ビビるんじゃねーぞ」
「たまーにビビってチビるヤツがいるからな」
「しませんよ、ガキじゃないんですから」
エレンがエルドに言い返すと、隣のオルオがゴホッとむせ返りエレンは「大丈夫ですか?」と声をかけた。オルオはどうも抜けたところがある。馬上でも頻繁に軽口を叩き舌を噛んでしまっているところを何度も目撃した。向かいでエルドもクククと肩で笑っている。
「これでウォール・マリア奪還にも大きく前進しますね」
「気の長い話だがな。トロスト区から作ってた行路がまるで無駄になったんだ。今度はカラネス区からの道を一から作り直さなきゃならない」
「だがやり遂げなければ。これまで道作りにかけてきた仲間達に申し訳が立たない」
「そうだな」
一ヶ月間同じ釜の飯を食ってきた班員達は和やかだった。だがエルドの隣でぺトラだけがスプーンを持ったままボーっとしていた。
「ぺトラさん、さっきからどうかしたんですか?」
「え? なんで?」
「なんかヘンですよ。ボーっとしてるっていうか」
「そう? なんでもないよ」
「緊張してるのはお前の方かぺトラ。もう最初の時みたいな失態は……」
「わー! ちょっと、なに言いだすの!」
「え? なんですか失態って」
「いーから、エレン、食べなさい、ほらこれも」
目を向けてくるエレンにぺトラは自分の皿の小さなパンを差し出す。なんだかヘンだとぺトラの様子に疑問を抱きながらも、調査を目前にした班員達は明るく食卓を囲んでいた。日が沈みもう部屋の中は暗くなっていて、テーブルの上にふたつ置かれたランプだけが頼りだったが誰の顔にも過剰な不安や緊張はなかった。
そこにガチャリと扉の開く音が響き、全員がその方へ向くと静かな顔をしたリヴァイが入ってきた。すぐにグンタがリヴァイの席に用意していた空の皿を持って立ち上がり、エルドがリヴァイのパンの上に被せていた布を取りぺトラがお茶を入れる。遅れてきたリヴァイにグンタは何かあったのかと声をかけかけたが、目の前を素通りしたリヴァイがどさりと身を下ろしすぐに食事に手をつけたから誰も何も言えずピリッと緊張が漂った。
「あ……兵長も来たし、も呼んできます、オレ」
「あいつはいい」
静かな中で席を立ったエレンだったが、リヴァイの低い声がそれ以上の行動を制止した。エレンは「でも……」と続けたが、隣からオルオが「いいから座ってろ」と小声で言いながらドンと肘をぶつけて来たからエレンはおとなしく着席した。リヴァイの食事を揃えたグンタもお茶を差し出すぺトラもそそくさと席に戻り食事を続け、先程までの歓談は誰の口にもなくなりエレンも皆に倣って黙ってパンを口にした。
食事を終えるとリヴァイはすぐに退席し、それでようやく緊張の解けた室内で誰かの小さな息が零れた。食卓を片づけるぺトラとオルオはすべての皿を持って外の井戸へと出て行き、グンタとエルドは残った食材を片づけた。
「エレン、これに持ってってやれ」
「はい」
エルドはテーブルを拭いていたエレンに水と数個のパンを渡し代わりに布巾を受け取った。
「兵長は、上か?」
「たぶんな。階段を上がってった足音は聞いた」
片づけを続けるエルドとグンタの会話を聞きながら部屋を出ていくエレンは城の入口近くにある診療室へと急いだ。外はもう真っ暗で夕食時も過ぎた時間。腹を空かせているだろうと思った。
「、メシ」
コンコンと一応のノックをしたがエレンは応答も聞かずにすぐに扉を開けた。ノックの習慣など無かったエレンにが教えたことのひとつ。けどいつも返事を聞いてから開けないと意味がないと言われていたから今回もまた言われるだろうと思った。
けどエレンは中に入ってすぐに足を止めた。ひとつのランプが光度を保っているだけのやや暗い診療室で、はいつも着けているマスクを下ろしていて、振り向いた表情があまりに切迫していたから。
「エレン……」
「なんだよ……どうした?」
入ってきたのがエレンだったことに気を落ちつけは「何でもないの」と動揺を抑え顔を背けた。でもその表情は青ざめて見えて、エレンは奥の台に持ってきた水とパンを置きながら再び「どうしたんだよ」と問いかける。いつでも絶え間なく降り注いでいた穏やかな笑みはランプの光の陰に隠れ、治まらない胸の内を鎮めようと胸に当てている手も弱々しく震えて見えた。
「本当、何でもないの。ごめんね。食事持ってきてくれたの?」
「何でもなくないだろ、そんな青い顔してさ」
に近づきランプの光の中に入ったエレンだったが、傍で見たにアレ……? と足を止めた。僅かな明かりだけど正面からを見て、何かが頭の中によぎった。
「……?」
トーンの変わったエレンの声に顔を上げたは、まっすぐ見つめてくるエレンとしばらく目を合わせると、自分がマスクをつけていないことに気づきすぐに顔を伏せた。けどその時にはエレンは頭の中によぎったものが何だったかが分かっていた。ずっと見てきたものだ。子どもの頃からずっと隣にあった。
「、東洋人……なのか……?」
「……」
黙るは頷きはしなかったが、否定もしなかった。
黒髪に黒い瞳、浅い目鼻立ちに黄白色の肌。それはどことなくこの壁の中の人達とは違う雰囲気を持った……ミカサに似た顔立ち。
「でも、東洋人はもういなくなったって……」
「……そうらしいわね」
「それで……いつもマスクしてたのか」
「私には、自分で自分を守る力もないから」
「守る?」
何かに動揺しきっていたが、ポツリポツリと自分のことを話すごとに冷静さを取り戻していくのがエレンの目にも分かった。そして前にハンジが言った「あのマスクの下を見たことのないヤツじゃの相手は務まらない」という言葉の真意を今になって理解した。
「ミカサは……純粋な東洋人ではない感じね」
「ああ……ミカサの母親は東洋人だったけど、父親は違った」
「殺されたって……?」
「……うん、強盗がミカサの家を襲って、ミカサの父親が殺されて、抵抗した母親も……。奴らの狙いは母親だったんだけど、つい殺しちまったからって、ミカサを誘拐して……」
「東洋人をお金にしようとする人がいるということは、お金で買う人がいるということよ」
「買う……?」
「今では珍しい東洋人を売り買いする連中がいる。そんな非人道的なことが、この狭い壁の中では行われてるのよ」
人を売り買いする?
エレンには範疇を超えていて理解しがたく腰が抜けるようにどさりとの前の椅子に座った。……昔、初めて人が殺されている惨状を目にして、それがすべて金のため、欲のために人が行ったことだということがまるで理解できなかったように。
「も……何かされたことがあるのか?」
「……私というより、私の母親よ。東洋人を商売にするような奴らに捕まって、酷い目にあったでしょうね」
「じゃあ、は大丈夫だったのか」
「そうね。そう酷いことはなかったわ。私は普通に産まれて普通に育てられた。乳母はいい人だったし、いつも大勢の大人達に大事にされてたわ。東洋人なんていう言葉も、その価値なんてものも何も知らずに。でも10歳の時に分かったのよ。自分は、売られる為に生まれたんだって」
「売られる、為……?」
「その瞬間から周りの大人の笑顔がすべて仮面に見えたわ。私は人の私腹を肥やす為に生産された……家畜同然だったのよ」
橙の明かりに照らされるの表情はこの石畳の城と同じ位に硬く冷たく見えた。
これまで見て感じてきた明るさも温かさも光の影に隠れた。
「でも、ちゃんと逃げたんだよな、今ここにいるんだから……」
「まさか……10歳の子どもよ。それも家の中から出たことも無い子だった。逃げる場所も逃げ方も知らなかった。せいぜいタンスの奥に隠れる程度のものよ。貴方や……ミカサのように、自分の宿命を打開する力なんてなかった。大人はみんな言ってたわ。知らずにいたほうが幸せだったのにって」
「なん……だと……?」
光に反射するエレンの瞳がじわりと赤く滲んだ。
目の前が真っ赤に燃え上がるような怒りが込み上げた。
幼い頃の自分がいつも叫んでいた。巨人もいない壁の中にいれば安全だと思いこんでる連中を見て、何故それを恥ずかしいと思わないのかと。こんな壁の中に押し込められているのに、そこに甘んじて生涯を終えるなんてそんなの鳥籠の鳥と同じ……飼われている家畜と同じじゃないかと。人が人である尊厳を失って……、そんなの生きていると言えるのかと。
「立派に育てられた牛や豚が競りにかけられるのって、あんな気分なのかしらね。檻の中で、まるで見世物だったわ。仮面の大人達がみんな私を見てた。私を囲んでみんな言い争うようにお金を投げ込んだわ。何が行われてるのかまるで理解できなかった。目の前にいるのは確かに人なのに、同じ人間だと思える人は一人もいなかった」
こくり……流れた生ぬるい唾液が乾いた喉に張り付きうまく飲み込めなかった。
恐怖がやってくる。逃げても逃げても、闇の手が引きずりこもうと延びてくる。
片隅の夜闇が体温を奪い骨の髄まで凍えさせるようで、は白い手を喉元へ伸ばした。
「……」
いつもここにあるはずの……青い泪型のペンダント。
このまま暗く、重く、そこらじゅうに潜んだ闇の中に取り込まれてしまいそうだった怯えた瞳に、一寸の光が射しこんだ。素知らぬ顔で遠くに浮かんでいた星屑が突然バラバラ、バラバラと落ちてきたかのようだった。あの日……深い闇を照らした、延びてくる手を切り落とした、天からの光のように現れた……あの背中。
「……そこから、助け出してくれたのが……リヴァイさんだったの……」
「え……リヴァイ兵長?」
「あの時のリヴァイさんは、まだ兵士でもなかったわ」
「あ……ぺトラさんが言ってた。兵長は昔、王都の地下街で有名なゴロツキだったって」
「うん……」
その名前を口にして、ようやくの暗かった目に色身が射した。
きっとその姿を思い描いて、真っ白に冷えた手に温度が戻ってきた。
雪解けのように。芽生えのように。浮かんだ涙を、は飲み込んだ。
「そこから逃がしてくれて、今の私の先生のところに預けられたの。先生は私をかくまって、育ててくれて、医術も教わった。あんなに大きく見えていた屋敷はたったひとつの家でしかなくて、外の世界はどこまでも広くて、初めて……これが世界なんだって思ったわ。壁の外には巨人がいるって知ったのもその時だったの。笑っちゃうでしょ」
「なんか……オレとミカサみたいだ」
「どうかしらね。私は先生のところに預けられた後は、一度もリヴァイさんに会ったことはなかったわ。4年前のウォール・マリア奪還作戦でまた大勢人が亡くなって、たくさんの人が怪我をして、内地の医者がたくさん駆り出された。その時に、調査兵団の兵士になってたリヴァイさんを見つけたの」
じり……と燃え尽きようとしたランプの音では新しいランプに火を着けた。
大きくなっていた影が消え失せ、エレンとの顔にも明かりが灯る。
「リヴァイさんは、とても強いんでしょう?」
「え? 当たり前だろ、どの兵士よりも一番強いよ。調査兵団の兵士長だぞ」
「私、知らないのよ。だって貴方達が戦っている所だって見たことはないし、リヴァイさんが壁の外でどんな戦いをしてるのかなんて……。人類最強なんて言ってる世間の人達と同じ……噂でしか知らないの」
「まぁ、オレもまだリヴァイ兵長が本気で戦ってる所は見てないけど……」
「……あの人の身体はとても不思議で、あの体格ではあまり考えられないくらいの力を持ってる。骨格や骨の密度、筋肉の発達が通常の人とは違うのよ」
「どういうこと?」
「人は潜在的に持っている能力を普段は制限されているの。いざという時に人が無意識に絞り出すような大きな力を、あの人は自分で意識して自在に扱ってしまうの。そんなこと、通常はないんだけど……」
「すごいな……そんなことが俺も出来たらもっと強くなれるのに」
「……私、怖いの。あの人はいつも戦いの最前線にいる。最も危険な場所に行く。その力があの人にはあるから、あの人はどこまでも前へ行ってしまう。いつか……あの人の身体を構成しているその力が、あの人自身に返ってきてしまうんじゃないかと、いつか……壊れてしまうんじゃないかって……思うの」
「……」
いつも向き合っていた瞳はしっかりと力強くて、穏やかに温かく微笑んでいた目は包み込むようだったのに、今にも泣きだしてしまいそうなは自分とそう変わらないくらいに幼く見えた。マスクの下の本当の彼女。包み隠さない、本当の声。……それは何のために存在し、誰のためだけに向かっているのか、身に沁みるように感じ取れた。
「私には、ミカサのように直接力になることが出来ない。どんなに心配したって、助けたくたって、兵士にはなれないし、一緒に壁の外に行けるわけじゃない。ミカサが羨ましいわ」
「そんなこと……。オレはアイツが何でもオレに合わせようとすることなんて望んでないし嬉しくもねぇよ。アイツはアイツが思う通りに生きればいいんだ。昔っから何でもアイツの方がうまくできて、訓練兵の時だって一度も勝てたことなくて、成績だってトップだったのに憲兵団に行こうともしないで、オレが調査兵団に行くなら私も行くとか……トロスト区でだって命令背いてまでオレの傍にいようとして……」
「ミカサも、貴方がとても心配で、大切なのよ。よく分かる。貴方もそういう人だもの」
「そういう人?」
「壁の外の話をしたでしょう。見たことも無い世界が広がってるはずだって。壁の外なんて巨人ばかりで人類にとって恐怖でしかないのに、貴方の目はそんなものの、もっと遠くを見つめてる」
「それは、も一緒だろ? 外に行きたいんだろ? 空がどこまで続いてるのか見てみたいって言ってたじゃねーか」
「私は、きっと逃げたいだけよ。家の中から、壁の中から、どこか別のところへ。逃げたいと、行きたいは、違うの」
「出れば一緒だよ。はその家から出て今ここにいるんだ。新しい世界を見たんだ。壁の外に行けばきっともっと新しい世界がある」
強い口調で言い切るエレンの目には確かな光が宿っていた。
悲しんだって、寂しがったって、泣きだしたくなったって、その心に刺さった強い信念だけは揺るがなかった。辛い使命を課せられたエレンを助けたいと思っていただけど、そんなもの……必要なかったと思わせるほどに、いつもその瞳は強く気高い光りに満ちていた。
「貴方はどこまでも行ける。もっともっと強くなる。貴方は絶対に希望よ、エレン」
「希望……」
「約束してエレン……必ず無事に帰ってきて」
あの人は約束なんてしないから……。そうは縋るように橙色に照らされた手を差し出した。
その手を見て、ぎゅと一度口を引き締めるエレンは強く握り返した。
「ああ、約束する」
その目と手と、意思の強さがをどこまでも深く安心させて、心の底から安堵したような表情をするにようやく笑みが戻った。今までと違ってとても弱く、儚く、悲しさを帯びていたけど。
その笑みが好きだった。この手の温かさが好きだった。
どこかほんのりと寂しくはあるけど。必ずまたここに戻ってくると誓った。
夜が明ければエレン達リヴァイ班はカラネス区へと出立し、いよいよ壁外へと踏み出すこととなる。きっとそこは別世界だろう。そこには脅威しかないだろう。それでも前へ進むため、人類の進撃のため、調査兵団はどんな犠牲の上に立とうと飛び立つ翼を下ろしたりはしない。
誰の為、世界の為、人類の為ではないかもしれない。
それぞれが数多の想いを胸に、己の信念の為に立ち向かう。
この地に希望がある限り。あの果てに夢がある限り。
自由の翼は明日、新たな旅立ちの日を迎える。