調査兵団。三重の壁に守られたこの世界で唯一壁の外へ赴き領土を奪還しようと巨人に挑み続ける兵団。起源は民間から派生した”革新派”といわれる団体だったために、古来より最も内側の内地で民を統制している保守的な憲兵団とは折り合わないことが多々ある。壁外への調査は多大な資金と人材を必要とするも、甚大な犠牲に比べその成果は無いに等しく民衆からは非難の声も多く上がっている。しかしウォール・マリア陥落後は調査兵団の活動に希望と期待をかける民衆が増え、活動が認められつつあった。

 ウォール・マリアを奪還すべく敢行された大規模な戦争の後、頻発していた内乱や食料・領土問題による争いは驚くほど鎮静した。多大な犠牲の上に生きながらえた人々は沈黙を持って生きるしかなかった。誰の胸にも罪悪が刻み込まれた。今生きている人類すべてに罪があった。……しかしそれでも調査兵団は立ち止まるわけにはいかない。志は揺るがず、奪還作戦から数ヶ月が経った頃再び壁外調査が再開された。

「人数が、かなり……」
「ああ。これが現実だ。さぁ準備に取り掛かろう、大勢運ばれてくるぞ」
「はい」

 毎日過酷な訓練を繰り返し生きながらえる技術を磨き、過去の成功と失敗を踏まえて新たに作戦を練り直し、少しでも巨人の生態を暴こうと、少しでも人類に希望の道を見出そうと強く気高く壁外へと挑み続ける彼らだが、帰ってきた彼らに達成感などはない。巨人の強さを目の当たりにし、仲間の死を目の当たりにし、結果得た成果は何もなく、誰の顔にも絶望しか覗かない。

 本部へと帰還した兵の中に、は馬から降りるリヴァイの姿を目にした。周囲の兵達は意気消沈し落胆の色を隠せないが、いつも厳しい顔をしている彼の心境は傍目では何も感じ取れない。
 何故、今彼がここにいるのだろう。地下の真っ暗な世界で生きていた彼が、一体何を思い何の為に、今ここで人類の希望となる活動をしているのか。彼のことなど何も知らない。彼の生い立ちも人となりもここに立っている意味も何も知らないには、壁外調査のたび調査兵団本部へ来る理由のひとつでもあった。

「出血しすぎています。輸血は出来ますか?」
「出来るが、調べないことには……」
「急ぎお願いします。傷口を縫合します体を押さえてください」

 ウォール・マリア奪還作戦での救助活動の後、はその後定期的に行われる壁外調査にも医療班の救援人員として度々加わった。これまでウォルトに師事してきたは他の多くの医者や医療従事者と関わることで知識の幅を広げ技術を確かなものにしていった。内地の診療所で行っていた医療とはまるで違う、今のこの時代、戦い続ける彼らに必要な医療は、地獄にも似たここでこそ学べると思った。
 最も安全な壁内にいたままでは知らなかった。でも今こうして現実を知った。やるべきことはあると思った。命を救うには優しいだけではいられない。同情している暇など無い。流れる血は止まらない。消えていこうとする命は待ってくれない。絶望して膝をついても、己の無力さに涙しても、鼓動の止まる瞬間を掌に感じても……先に進まなければ。

「おい、早くこいつを治してやってくれ!」

 調査兵団本部入口の最初の棟、療養棟に壁外調査で負傷した兵達が多く運び込まれる。
 は丁度治療を終えた患者を外へ運ばせ新しく来た患者を診た。
 全身を血で汚し意識も混濁している、一目でかなりの重症だと思わせた。

「こちらへ。シャツを脱がせてください」
「ああ」

 ベッドに運ばせて衣服を破くと、露わになった体は外から見た何倍もの血に塗られていた。怪我の箇所を定め血管を圧迫し血液を止めようとするも、胸部を押さえると感触の悪い心地がした。肌の上から骨格を触り、内臓を押さえ体内の動きと様態を診る。

「血が止まらねぇんだ、呼吸もどんどん弱くなってる! 馬車に乗った時はまだ意識もあったんだが呼んでも答えねぇんだ!」
「……」

 体から流れる血液はそう多くない。もう流れ出る血液も底尽きようとしていた。
 呼吸は薄く、呼びかけても応える力も無い。脈も今に止まろうとしていた。

「すみませんが手の施しようがありません。残念です」
「なんだと……!?」

 は判断を下し奥で呻き声を上げている患者の元へ移動しようとするが、患者を運びこんだ兵士に強い力で腕を掴み止められた。

「おい、お前医者の癖に見殺しにする気か! まだ生きてるんだぞ!?」
「すでに心肺が停止しています。蘇生は無理です」
「まだそんなに時間経ってねぇよ! 蘇生法でも何でもしろよ!」
「胸部を複雑骨折しています。おそらく内臓にも傷を負っています。心臓マッサージも出来ません」
「お前……!」
「僕が診ます! その方をこちらへ」

 血に染まる手袋をゴミ箱へ放り新しいものをつけながら奥の患者の元へ行こうとしたと兵士との間にレイズが割り込んだ。

「レイズ」
「僕の患者は終わった。、お前は奥の患者へ」
「……」

 場を落ち着かせるレイズからフイと目を離しては奥の患者の元へと急いだ。
 人命救助は時間との勝負。その瀬戸際に立つ者として、は治療における最善で最短の方法を頭の中で組み立て、必要な動作を最小限に抑えそれ以外は殺ぎ落とした。の技術は治療場において重要かつ必要性の高いものとなっていき、僅かだが負傷した兵の延命数を上げた。
 こぶのように腫れあがった血腫を取り除き、皮膚を縫合しパチンと糸を切る。その縫い目も傷跡も綺麗で他の医者からも一目を置かれるほど技術は向上していた。血の海の中、地獄絵図のような中で得た、生きるための確かな力だった。

 治療が終わった頃、室内を見渡すと他の患者も落ちつき場は安泰していた。
 外の廊下では軽傷患者の治療も終わろうとしていて、今回の壁外調査による治療は終わりは赤い手袋を外した。

「お疲れ。腕を上げたな」
「お疲れ様です」

 兵団の医療班の医師に手を差し出され、はその手を握り返した。

「本当に助かるよ。ここのところの遠征は負傷者が増えているからね」
「巨人の被害が拡大しているということでしょうか」
「いや……どうだろう。前まではね、生きるか死ぬかだったんだ。壁の外で怪我を負えばまず生きては帰れなかった。でも最近は兵力が上がっている分、怪我人の数が増えているんだ」
「……兵力が上がって、怪我人の数が増えるとは?」
「エルヴィンが団長になって壁外調査での戦い方が少し変わったんだ。壁外での活動をウォール・マリア奪還への行路作りに定めた分、巨人との戦いを避け任務を果たす事を第一としている。エルヴィンの立てた陣形作戦もだんだん板についてきたみたいだしね」
「なるほど……亡くなる方が減って、怪我人の状態で戻ってこれているということですね」
「ああ。それに兵士自体の力も向上している。まぁそれはリヴァイの力が大きいけどね」

 ”リヴァイ”の名にはピクリと意識を動かした。
 ここにいても滅多とその姿を見ることはない。帰還した兵団の行列の中にもその姿は埋もれて見えないことが多く、噂ではかなりの実力者らしく怪我人としてここに来たことも無いから会う機会も無い。記憶の中の姿と名前が重なってはいるが、いまだにその信憑性は何もなかった。

「その方は……最近兵士になられた方なのですか?」
「リヴァイ? ああ、彼はまだ入団してそう何年も経っていないよ。いつだったか突然エルヴィンが連れてきたんだけど、腕が立つんだ、これが。驚異的にね。今いる兵士の中でもトップクラスだろう。エルヴィンもかなり目をかけているし、じき隊長クラスにでもなるんじゃないかって話だ。実力主義だからね、うちは」
「そんなに……」
「まぁヤツの場合出所がいろいろと問題ありだから、反発するヤツも少なくないけどね」
「出所?」
「いや、これは内密だった。聞かなかったことにして。じゃあお疲れ」

 治療場を後にする医師を「お疲れ様でした」と見送り、は少し考えた。
 昔がリヴァイに助けられた時は、リヴァイは間違っても兵士ではなかった。ウォルトもリヴァイは地下街に住みつくゴロツキだと言っていたし、「出所」に問題があるという言葉にも合点がいった。

 やはりあの時の人なのだろうか……。
 そう思うとはリヴァイが気になって仕方がなかった。

、僕らも帰ろう」
「あ……うん」

 窓辺で立ち尽くすの元にレイズが荷物を持ってやってくる。
 治療場に残っている患者達は医療班に任せ、救援のとレイズは汚れた治療着を真っ白な白衣に着替えた。

「さっきの人……どうだった?」
「亡くなったよ……お前の見立て通り手の施しようが無かった。あの後すぐ息を引き取ったよ」
「そう……」

 赤い血の飛び散ったマスクを外し新しいものをつけ、血の匂いが染みついた手をよく洗う。赤はすぐ取れるのに血はいつまでもこびりついているように感じた。

……もう少し、言い方を考えよう」
「え?」
「彼らは、やっとの思いでここまで戻ってきたんだ。きっと心の中じゃ、助からないことも分かっている。それでも……すぐには認められないんだよ。たった1パーセントの可能性だろうと信じたいんだ。何もせずに死なせたくないんだ」
「……治療の振りでもすればよかった?」

 カバンを肩に提げ治療道具を持とうとしたレイズは、その手を止めに向き合う。
 同じように見返すの、頭を覆っている白い布を取った。血がついていた。

……僕らは医者だ。当然、すべての人を助けられるわけじゃない。助かる見込みのない人より助かる見込みのある患者を治療する、お前の言い分はもっともだ。医療には限界がある……当然の判断だ」

 レイズはその布での額にもついている血を拭う。
 乱れた髪を整え、ジッと見上げてくるを高い位置から見下ろした。

「お前はまるで……兵士だね」
「兵士……?」

 どこか、何故か、悲しい目をするレイズは、荷物を持つと帰ろうと歩き出した。
 はレイズの言いたいことはよく理解できなかったが、その瞳にとても責められている気になった。

 レイズの後をも歩きだす。
 途中、廊下の先で泣き声を漏らす人を目にした。
 亡くなった兵士はすぐ家族に連絡がいき、近日中に火葬される。死体すら戻ってこなかった兵士の家族は死を信じない人も少なくない。目の前にある遺体は悲しみしか残さないが、亡骸のない死は悲しみすら与えてくれない。残酷な別離。突き落される永遠。

 療養棟を出ると目の前には訓練場が広がっていた。普段ならここにたくさんの兵士がいるのだろうが、遠征後の今は乾いた風だけが吹き抜けガランとしている。繰り返される壁外調査。その度に失われる命。英雄扱いの死。生き残る、残酷さ。

「レイズ……」
「うん?」

 が足を止めると、前を歩くレイズも足を止め振り返った。

「先に帰ってて」
「どうしたんだ?」
「夜までには帰るから」


 呼び止めたけど、は再び療養棟へと戻っていった。
 建物の中へ戻ったは治療場とは別の方向へ歩きだし、北側の薄暗くなっている廊下を進んでいった。その先は何の音もしていない。奥のひとつの扉を開けると、床に何十人もが横たわっていた。けれども一切の物音も話声もしない。誰もが頭から足先まで白い布があてがわれていた。

 は入ってすぐの遺体の前にしゃがみ、手を合わせて被せられている布をめくる。腹部を噛み切られ出血多量で亡くなった兵士。こうも広範囲で傷を負っていると出血を抑える術も無い。布を被し、また別の遺体の前にしゃがんで手を合わせ布をめくる。傷は少ないが腹部が以上に青くなっていて、触った感触で肺を損傷しているようだった。折れた骨が肺に刺さったのか……呼吸が出来なくなり窒息で死んでしまう、苦しい死に方だっただろう。
 そうしては一人、また一人と遺体を見て回った。誰もが圧倒的な巨人と過酷な壁外でこその傷を負い、でも各々死因は違う。はまだほのかに温かみの残るその体達を見て、話すように触れあった。

「何をしてる」

 安置所の半ばまで行った頃、静かな部屋に低い声が響いては顔を上げた。出口の方を見ると背の高い人影が立っていて、はいつの間にか日が暮れ辺りが薄暗くなっていることに気がついた。

「何してんだって聞いてんだよ」
「いえ……少し、遺体を……」

 良くは見えなかったが、その声で分かった。
 先程瀕死の兵士を運んできた、あの兵士だ。

「今さらなんだ。生きた人間より死んだ人間の方が好きか」

 暗がりで見えないが、その声は低く打ち震えるようで、悲しみも憤りも恨みも涙も交じっているように聞こえた。

「先程は……すみませんでした」
「何の謝罪だ。治せるのに治さなかったってことか?」
「いいえ……あの状態での蘇生は、無理でした。でも……私の言い方には、配慮が足りませんでした」
「気にするなよ。医者の配慮なんか必要ない。俺が欲しかったのは、アイツの命だからよ」
「……」
「でも……診てもらわなくて良かったぜ。アイツは兵士として死ねたんだからよ。治す気のない医者にいじくられて死んだんじゃ、アイツはお前に殺されたようなもんだ」

 殺された……?
 命を救おうとしている医者が……人を殺す?

「……、」

 言いかけて、は喉元で止めた。
 レイズの言葉を……瞳を思い出した。

「兵士の皆さんの死が……後の調査兵団にとって無駄でないように、この方達の死因は……後の皆さんの治療に役立つと私は思います」

 激昂して意見してはいけない。医者はそれではいけない。
 医者が戦うのは人ではない。病や怪我なのだから。

「遺体を見ることは、その死因も有効な治療法の発見にもなります。もし解剖でも出来ればそれはもっと、」
「なんだと?」

 隙間なく返された言葉にはビクリと言葉を止める。

「こんなに傷を負ったこいつらを、また切り刻もうってのか? お前は……本当に人間か?」
「……」
「お前こそ……化け物じゃないのか」

 安置所の中に一歩踏み入る兵士は、遺体の間を進みの元まで来ると、立ち上がったの腕を掴み部屋から引きずり出した。そのまま暗い廊下を引っ張っていき、療養棟の外へ出ると放り投げるように腕を離しの軽い体は地面に転げた。

「お前こそ人の皮を被った化け物じゃないのか。そのマスクの下は本当に人間か?」
「すみません……私はただ、」
「何が医者だ、治せない医者などただの殺人鬼だ! お前がアイツを殺したんだ!」

 大きな声にはまた身をビクつかせる。
 人にこんなに怒りをぶつけられたことなど無かった。こんな恨みがましい眼で見下ろされたことなんて。

 兵士は立ち上がるを再び掴み、そのマスクを引き剥がそうとした。
 人の証明をしろ、マスクを取って見せてみろと。
 はマスクを押さえ身を固くした。腕を掴む強い手が骨を砕くかのような痛みを覚えた。
 ……けど、その手はすぐに離れた。自発的に離れたというより、何か別の力によって離されたと感じ、は目を開け正面を見た。

 目の前に、兵士の大きく太い腕を掴んでいる別の手があった。
 その手を辿るように右側に目をやると、暗がりの目前に横顔があった。

「女の子捕まえて何やってんの。怖がってるじゃないか」
「ハンジ……いや、これは……」

 目の前で腕を掴んでいる人とは別に声がした。中性的な高めの声。
 でもはその声よりも、落ち着きを取り戻した前の兵士よりも、すぐ目の前にいる横顔にくぎ付けになった。頭の中には一瞬でその名が蘇った。

 目の前の横顔がこちらに振り向いた。
 はビクリと淀んだが、間近でその目を見た途端、周りの音や景色が遠ざかって、時が巻き戻っていった。
 あまりに強い光が目に突き刺さるようで瞳が滲んだ。
 それは確かに、かの人だったから。
 
 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne