壁の向こうに日が傾き、空は橙色に滲みだす。
その色に照らされている目の前の人をは揺らぐ瞳で見つめてしまい、その目を見返すリヴァイは目を細め口を開いた。
「なんだ」
目を貼りつけていたリヴァイが声を発し、はようやく遠のいていた意識を取り戻し慌ててマスクを押さえ俯いた。
「ごめんね、怖がらせちゃって。調査の後で気が立ってるから許してやってくれないかな」
「いえ、とんでもありません……」
リヴァイのうしろから顔を覗かせた先程の声の主は眼鏡の奥の優しい瞳でを見下ろし、はブンブンと首を振った。
「君は、救援の人かな。医者を捕まえて殺人鬼はないよ」
「そ、それは……そいつが解剖させろなんて言うから……」
「解剖?」
「すみません……配慮が足りず……」
「ふん……まぁ元来、未知の世界を行こうとする者はいつの世も変人扱いを受けるものだよ。我々はただ知りたいだけなのにね」
「我々……?」
「解剖か……。医者の視点から見てもらうというのもありかもしれないな。君巨人の生体には興味ない? 次の調査で巨人を捕獲しようという計画があるんだけど、やはり巨人も人型であるからには医者に同席してもらうともしかしたら何かいい発見が……」
「おいハンジ」
「い……いえ、私は人専門ですので……」
つい今まで穏やかに仲裁してくれていたハンジは、突然巨人の話を持ちだすとの肩を掴み目を輝かせ、はビクリとおののいた。
「!」
そこに道の先から走り込んできたレイズがを捕まえ、うしろにかばってハンジと相対した。
「あの、この子が何か……」
「いや、ちょっと協力を仰ごうとしただけだよ」
「レイズ、何ともないから……」
うしろのが袖を引くとレイズは落ち着きを取り戻し、持っていた白い布を頭から被せるとハンジ達に頭を下げをその場から引っ張っていった。壁の中の早い夕暮れは橙色からすぐに灰色となって、辺りはすでに薄暗くなっていた。
「……あまり心配させるなよ」
「先に帰ったんじゃなかったの」
「門で待ってたよ。置いて帰るわけないだろ」
「心配し過ぎよレイズは」
高いところから振り返るレイズはを見下ろし大きなため息を吐いた。
「ネスさんに何か言われたか?」
「誰?」
「治療場に患者運んできてくれた人だ。さっきもいたろ」
「ああ……ネスさんっていうの」
「見なかったか? 腕章」
「……」
調査兵は皆、壁外へ遠征に出る時には必ず名前入りの腕章をつけて出兵する。巨人は人を食らうが消化器官が無い為に腹がいっぱいになるとすべて吐き出してしまう。吐き出された死体は誰が誰だか判別のつかない状態になっているし、噛み砕かれた遺体も断定することは難しい為、調査回数と名前を書いた腕章をつけている。もちろんも知っていた。それは当然、誰の腕にもついていたものだから。
は帰りの馬車に揺られながら、首に提げた青い石のペンダントに触れた。
初めて手にした時から随分と角が取れ丸くなった、泪型のペンダント。
揺らぐランプの灯が文字をぼやけさせる。
暗がりの中でペンを走らせながら、は何度もペンを止めた。
「―」
声をかけられドア口に振り返るとそこにはウォルト医師がいた。
陽が落ち自宅の隣に建っている診療所での仕事を終え帰ってきたようだ。
「食事をしなかったそうだな。どうした」
「べつに……お腹が空かなくて」
「その腕、どうした」
窓辺の机にいるの傍まで歩み寄るウォルトはの左腕に当てられている白いタオルを目にした。
「ちょっと、掴まれて……」
「治療中にか? 兵士の力じゃ痛かったろう」
濡れたタオルを外しウォルトはランプに照らしての腕を見る。
骨が軋むほど強い力だった。指の形までくっきりと残っている。
……その腕を離させた、別の手。
「先生、昔……私がここに来た時、連れて来てくれた人を覚えてる……?」
「ん? リヴァイのことか?」
「その人に、会ったの」
「どこでだ」
「調査兵団で……。兵士になってた」
「馬鹿な。あいつは地下街のゴロツキだぞ。まぁ最近とんと話を聞かんくなったが、あいつが兵士になどなるわけがない。連中にとって兵士など真逆の存在だぞ」
「人違いなのかな……。でも確かに、リヴァイと……」
の腕を再びタオルで冷やすウォルトはふむと考えながら白い顎の髭を撫ぜる。
「見てみんことには確かなことは言えんが、それがリヴァイだったとして、会いたいのか? 調査兵団の治療に行くようになったのもそのせいか」
「そういうわけでは……」
もう何年も前にただ一度会っただけの人。
一本道でしかなかった目の前の運命から連れ去り、新たな道へと導いてくれた人。
確かに気になってはいる。けれど調査兵団の治療に赴くのは、この世界が晒されている巨人という脅威に立ち向かう、彼らの戦わなくてはという信念に賛同した為。医師なら最も多く血の流れるところに赴かなければという思いの為。
「それは?」
「カルテです……。今日診た兵士の方の」
「すべて覚えてるのか」
「……」
が向かっている机に散らばった数枚の紙。
事細かに怪我の部位から治療法、使用した薬剤までが記されている。
「でも、名前がないんです」
「名前?」
「皆さんの名前が……書けないんです」
「仕方ないだろう。この人数だ」
「……でも、レイズは覚えてました」
壁外へ赴く調査兵が皆つけている腕章。
誰の腕にもついていたのに。知っていたのに。目にしていたのに。
「先生、医者とは……なんなんでしょう」
「医者とは、か。一概には言えんなぁ。私もこれだけやってきて、明確な答えを持ってるわけじゃないからな」
「先生も……」
「病や怪我を治すだけが医者なのか。心を軽くしてやれば治療など出来なくとも医者なのか……。患者によって医者の在り方も変わってくる。それもお前が今相手にしているのは兵士だ。奴らは普通の人間とはまた違う」
「違う?」
「奴らの死は二度ある。兵士としての死。人間としての死。私達はとにかく人であることを望むが、奴らは兵士であることを望む。特に調査兵団の連中はな。これがまた奴らのややこしいところだ。普通の人間には考えが及ばん」
「……」
名前のないカルテを机の上に戻すウォルトは、俯くの頭に手を置く。
少し前まで掌に収まっていた小さな頭は、いつの間にかたくさんのことを知り覚え、大きくなった。
「こればかりは私がこうと教えられることではない。どの医学書にも答えは載っていない。それは人の人生、命を左右する仕事に就く者に課せられた自分への戒めだからだ。その答えを見つけ、成し遂げた時、初めて自分は医師だと誇れる。お前の答えはお前にしか生み出せない」
「私に、そんなことが務まるんでしょうか……」
「うん……。じゃあひとつ、今のお前に出来ることを教えてやろう」
ランプの明かりに背を向け俯いていたが弱い瞳でウォルトを見上げた。
「笑いかけろ。男共にはそれが一番効く」
「……真面目に言ってる?」
「もちろんだ。お前が思っているよりずっと単純なんだよ男という生き物は。女の笑顔に勝る薬はない」
はっはっは、と笑い声を上げながら、ウォルトは暗がりの部屋を出ていった。
絶対ふざけてる。は頬を膨らませるが、頭の片隅に何かがひっかかった。何の記憶かと手繰り寄せようとしたが思いつかず、まぁいいかとカルテに目を戻した。
命を賭して壁外へと挑み続ける調査兵団。その世界に触れ足を踏み入れた。
今の自分に出来ることは、とにかく彼らの傷を癒すこと。命を繋ぎとめること。胸に刺さった引っ掛かりは抜けないが、医師として仕事を全うしようとは再びペンを走らせた。
数日後、王都で慰霊祭が開かれた。
調査兵団の壁外調査が頻度になってきた昨今、その被害も膨大に増えており鎮魂を祈る慰霊祭が数ヶ月かに一度開かれるようになった。それに調査兵団の兵士はもちろんのこと、他兵団の兵士も民衆も朝から訪れては献花しその栄誉ある死に称賛を捧げる。
調査兵団の活動を直に知らなかった時はひとつの行事のように思っていた。調査兵団を英雄視する民衆の多くはそうだろう。だが慰霊碑の前で跪き涙する何人もの人は、その死の無残さを目の当たりにした人達だ。家族、友人、恋人……その人を思って深い悲しみに暮れている。こんなことになるなら、無理やりにでも反対したのに。調査兵団なんて。兵士なんて。
「お、もしかしてこの包帯巻いてくれた子じゃないか?」
献花を終えて帰っていく人並みの中でひとりの兵士がに右手の包帯を見せながら声をかけた。ジャケットのマークは調査兵団。その右手は確かにが捻挫の治療をした包帯。
「こんにちは。具合はいかがですか?」
「もう痛みも無いさ。これはな、せっかく巻いてもらったから巻いてるだけだ」
「馬鹿だよなコイツ。ずっと地獄に天使がいたってうるせーんだ」
「だってどーせ治してもらうなら女の子に診てもらいたいじゃねーか」
「そりゃそーだ」
わはは! と笑い声が上がるその空気は、とても慰霊帰りとは思えない気軽さで、はこれまで治療以外で兵士と関わることがなかった為にその明るい雰囲気に目を丸くした。血の滲む訓練を経て命がけの壁外調査に向かう彼らが、普段はこんなにも和気藹藹として、まるで内地の民衆と変わりない笑い声を上げている。
そしてその兵士達のうしろから笑い声共々掻き分け、頭に白いタオルを巻いた兵士がの前に立ちはだかった。その顔を見上げたはすぐにそれがネスであることに気づき、慌てて頭を下げる。
「なんだネス、お前もこの子に診てもらったのか?」
「俺はお前らと違って怪我ひとつしてねーよ」
「なんだと?」
ネスに他の兵士のような柔らかさはなく、厳しい目でを見下げた。
その目に小さく恐れを抱きながらはドキドキとその目を見返した。
「悪かった。この間は、取り乱して」
「い、いいえ……とんでもありません」
「恥ずかしいことをしたと思っている。許してくれ」
「や、やめてください」
頭を下げるネスに恐縮し、は一歩近づきその頭を上げさせようとした。
「あいつは……フリッツは母ひとり子ひとりの家庭だったんだ。それがあいつにとって何より、壁外遠征から何としても帰ってくる理由だった」
ネスは広場の奥に立っている慰霊碑の前で祈り続けているひとりの女に振り返った。それが母親らしかった。じっとして動かない。取り乱すでもなく泣き叫ぶでもない。
「あいつの母は、覚悟していたと。あいつが調査兵団に入った以上、こんな日がくることは覚悟していたと言っていた。とても納得はしていないだろうが……取り乱しはしなかった。覚悟が足りていなかったのは俺の方だ」
誰しもに家族がある。誰しもに歴史がある。
それは皆同じで、ひとりひとりすべてが違う。
「これからもよろしく頼む」
「は、はい……」
そう言い残し、ネスは去っていった。他の兵士も「らしくねーなぁ」と笑いながら帰っていった。
命を激しく燃やす彼らだからこそ、彼らは生き方を知っているようだった。
彼らは皆全力で戦い、覚悟し、休み、笑っていた。
いつまでも悲しみなど引きずってはいない。絶望など背負ってはいない。
ウォルトの「考えが及ばん」という言葉も頷けた。
それでも確実に悲しんでいる人はいるのだ。
慰霊碑の前で涙している人達は、もう戻ってこない大事な人をいつまでも手放せずにいる。彼らの死を目の当たりにし、その家族にかけられる言葉などあるだろうか。ましてや治療もせずに死を選んだ者の家族になど。
命の優先順位をつけなければいけない状況など、遺族に理解できるわけがないのだ。それでも時間は限られている。人の手も限られている。常に選択しなければいけない。医者として。
「医者として……」
献花を済ませ広場を出たは、壁の方へと流れていく川の橋でペンダントの石を目の前にかざし眺めていた。昔から思い悩んだ時、寂しい時、この青い泪型の石を見つめてしまうのは癖となっていた。この石を眺めている時は僅かに気分が落ち着くことを無意識に理解していた。
それでも今回陥った悩みはこれまでの何より深いことも分かっていた。
これまでのように理解できない事に恐怖を抱き恐れているのではない。理解できる事に理解できないでいるのだから、余計に根深い。どれだけ頭を捻らせてもこんがらがるばかり。
そのうち何に悩んでいたのかも分からない程に捻じれ、は石の橋の手すりにうなだれるように頭を伏せた。その時、橋の上を駆けていく子ども達が背後を通り過ぎていき、その中のひとりにドンとぶつかられた衝動で手からペンダントが零れ落ちていった。
「えっ……嘘!」
落ちたペンダントはキラキラと青い光を引きずりながら下を流れる川の石垣へと消えていった。は急ぎ走り出し石垣に下りて落ちたあたりを探したが、転がるごつごつとした石のどこにもない。石をどかし雑草を探り、川の水ギリギリまで目を凝らすもどこにも見当たらない。
嘘……嘘……
時間が経つごとに血相を変えては石垣を探った。川には……入っていないはず。だけどどこにも見つからない。ペンダントを失くすなんて、ありえない。見つからない不安がじわじわと昇り詰めた。血の気が引いていく思いで目にじわりと涙が浮かんだ。
「おい」
川の音を傍に聞きながら、小さな声が降ってきた気がしては空を見上げた。
「何してる」
まだ高い太陽が眩しくて目を細めた。
太陽光を背に、橋の上に影が見え、手をかざしその影の形に視線を添わせた。
「あ……」
そこにいる人は分かったのに、名前も分かっているのに、口には出せなかった。
橋の手すりに腕をつくリヴァイがまっすぐこちらを見下ろしていた。
「何してんだって聞いてるんだ」
「いえ……」
手についた汚れをはたきながら立ち上がるは答えようとマスクの中で口を開くが、声を発するより先にリヴァイの背後で空に黒く立ち昇る煙を見つけそちらに視線を取られた。
「なんだあの煙?」
「おい、火事だってよ!」
橋の上で湧き上がった声にリヴァイも振り向き、青い空に昇る煙を見上げた。
するとすぐに手すりから離れたリヴァイが見えなくなり、もそれについて急ぎ石垣を上った。
空に向かって延びている黒い煙の発生源に向かってふたりは走った。
王都の街中では火事に気付いた人達が騒然とし、野次馬が集まり火事近くの人々は逃げ走った。
「すみません、通してください、すみません!」
人垣を掻き分け人々が向いている方へと走っていく。カンカンカンと警鐘が鳴り響き、憲兵団の兵士達が火事場に急ぎ駆けていった。煙は近づくほどにもくもくと色濃く立ち昇り、人垣の上に見えたひとつの家の一番高い窓からごおごおとすでに多くの火の手が上がり周囲に熱風を吹き付けていた。
「何をしてる、早く入らんか!」
「待ってください、まだ準備が……」
「そんなことを言ってる間に焼けてしまうだろうが!」
燃えている屋敷の前では火事場から逃げてきただろう衣服や手足を黒くした人達が火に恐れながら座りこんでいた。その中心で怒鳴り声を上げる男が憲兵を掴み上げごおごおと燃え盛る屋敷の中へ押しだそうとしている。
「早くしろ! まだ人がいるんだ、さっさと助けに入れ!」
怒鳴る男はどうやらこの屋敷の主人のようだった。
憲兵達をまくしたて、炎を上げる屋敷におろおろと頭を抱えた。
「おい、」
「は……はい」
「俺が入る。お前は治療の準備をしろ」
「え?」
目の前の背中がそう言い残すと、リヴァイはハンカチで顔を覆い頭のうしろで縛ると憲兵達をすり抜けて燃え滾る屋敷の中へと入っていってしまった。
「そんな……リヴァイさん!」
中に入っていった兵士に周囲から悲鳴が上がる。
バリン! 窓が破れ破片が飛び散り、あまりの火の大きさに野次馬すら逃げ出した。
熱風が吹き付け近寄ることも出来ない中に消えていったリヴァイ。
「リヴァイさん……っ」
窓から這い出てくる真っ赤な炎とあっという間に焦げていく壁。
目に飛び込んできそうな火の手。空の青を侵食する黒。
すべてを無きものにする炎がもたらすもの。そこに厭わず飛び込んだリヴァイ。
チリチリと肌を刺す熱気に焦がれながら、は絶望の淵でその名を繰り返し思った。