まだ太陽は空に残り透き通るような水色が変わらずそこにあったが、王都の一角では黒煙が上がり多くの民衆や憲兵が集まり騒然としていた。風は強くはないが燃え上がる火の手は僅かな時間で近隣を巻き込み、早急に憲兵団による消火活動が行われようとしているが、すでに炎は出火元の屋敷を上階から飲み込もうとしていた。

「君! 危ないからもっと離れて!」
「待ってください、今中に入った人がっ……」

 火事に駆けつけた憲兵達が周囲の人々を下がらせ、消火班が防火布を纏って周辺の屋敷の屋根へと飛んでいく。密集して家が建てられている街中ではひとつの火事が街ごと飲み込むことも少なくない。大きな防火布を周囲の家家に貼りめぐらせ燃え広がりを抑えながら放水し鎮火しようとするが、出火元の屋敷はすでに最上階が黒焦げとなり今にも崩れ落ちそうだった。

「なんでこんなことに……! 早く、早く火を消せ!!」
「今やっています、まずは避難を!」
「何としても助けろ! 礼ならいくらでもする!!」

 指揮を取る憲兵に掴み掛かり火事の屋敷の主人の男が大声でまくし立てている。この燃え盛る屋敷の中にまだ人がいるようで血相を変えて叫び続けていた。
 その様子を傍目にしながら、は火事場から逃げてきた屋敷の従者達の元に駆け寄った。顔や手足に軽い火傷を負ってはいるものの、ほとんどが避難時に負った怪我やかすり傷で大事に至ってはおらず、とにかくもっと遠くへと避難を促した。

「リヴァイさん……」

 燃え盛る屋敷の中に入っていったリヴァイはまだ出てこない。
 どんどんと火は範囲を広げ勢いを増していくというのに、まだ出てこない。
 時計の針が動く度に不安に駆られ心臓を高鳴らせるは炎を見上げながら首元に手を伸ばすが、そこにあるはずのペンダントを無くしていたことを思い出し余計に不安に駆られた。

「危ない、下がれ!」

 バリン! と二階部分の窓が割れ、火事を見上げる憲兵達は恐れ後ずさった。
 しかしそれは炎にではなく中から蹴破られたもので、煙と炎の蔓延する中から飛び出てきた何かが庭に落ち、は立ち上がった。それは間違いなくリヴァイで、自分の身の丈程はある包みを肩に抱えながら再び立ち上がり屋敷から離れ石畳の道路へそれを下ろした。
 憲兵達は騒然とした。燃え盛る屋敷の中へ兵士が入っていったと報告は受けていたが、それは憲兵ではなく背中に両翼のマークをつけた調査兵だったから。

「なんだお前……何故調査兵がこんなところに!」
「どうでもいいだろ。それともテメェら誰か中に入る気があったのか」
「……!」
「リヴァイさん、お怪我は……!?」
「問題ない」

 取り囲む憲兵を一蹴するリヴァイの元へは駆けつけ、服や手足を黒く焦がしてはいるが目立った怪我は見られないリヴァイにはホッと安堵した。いくら中にまだ人がいたといえど、その場所も聞かずに飛び込んでいくなんて無謀が過ぎる。マスクの中でそうよぎっただけど、煙を吸い込んだのかゴホッとむせるリヴァイを前に言葉を飲み込んだ。

「まだ息がある、診てやれ」
「は、はい」

 リヴァイが屋敷の中から抱えてきた焦げた白いシーツの包みは人の大きさではすぐにそれに手を伸ばした。そして息を飲んだ。包みの中にいたのは女性だったが、体の大半に火傷を負い真っ赤に腫れて水泡が出来、長い黒髪もチリチリと途切れ呼吸も薄い、とても直視出来ない様態で、は傍にいた憲兵に治療道具をと頼み袖をまくりあげた。口元に耳を寄せると僅かな呼吸は感じられたが、目を開かせ鏡で光を当てても瞳孔に変化が無い。治療道具を受け取りは焼け落ちた袖の下の皮膚が破れている腕に消毒液をかけ始めた。

「どけ、どいてくれ!」

 そこに周囲の憲兵を押しのけ先程まで叫んでいた主人が駆けつけそれを見下ろした。
 なんということだ……。あまりの火傷の酷さに主人は言葉を失う。あんなに必死に助けを請うていたのだ、こんな状態では絶望も等しいだろうとは心中を察し、少しでも状態を治めようと注射器を取りだした。

「終わりだ……、こんなもの……なんの価値も無い」
「……」

 だけど、その言葉に耳を疑い思わず手を止めた。
 こんなもの? 価値が無い?
 頭の奥で焼け焦げる程の怒りを覚えキッと主人を見上げた。

 だけどそれは水をかけられるようにサッと消えた。それ以上のものが頭を占めた。
 初めて直視したその主人には目を丸くした。

「おい」

 目の前でリヴァイが声をかける。しかしそれも届いてこない。
 なんだ、と主人がまるで自分の発言が不適切であることを熟知しているように普遍的に見下ろしてくる。が、その目が合わさる一瞬前では主人から目を離し顔を背けた。血の気が引き、ドクドクと鳴る心音共々俯けた顔のマスクを押さえつけた。

「荷馬車の用意が出来ました、病院へ!」

 憲兵が駆けこんできて治療途中の女を運んでいく。
 リヴァイは再びに声をかけるがはまだ震えた手で口を押さえたまま顔を上げず、無理やりに腕を引き上げ立たせた。目の前でリヴァイを見てはようやく意識を覚ます。行くぞというリヴァイに働かない思考を引きずりただ引っ張られていった。

 近くの病院へと搬送される間もは治療をしなければならなかったが、顔面は蒼白し呼吸は整わず、注射針を水泡へ当てる手も震え定まらなかった。は口唇を噛み締め何とか動揺を抑えようとした。その明らかな不穏な様子は同行したリヴァイにも見てとれた。

 病院に運ばれた女は病院の医師の手により治療が進められたがその状態はあまりに悪く、精々悪化を防ぐ程度のことしか手の施しようがなかった。ふたり掛かりの治療を受けるベッドの上の女を、治療室の入口からは浅い呼吸で見つめていた。先程のような激しい動揺はなくなったがただただ立ち尽くしたまま。廊下の長椅子に座るリヴァイはその動かない背を黙って見ていたが、日が暮れ出した窓の外に気づき立ち上がった。

「おい、俺は行くぞ」
「は、はい……ありがとうございました……」
「お前に礼を言われる覚えはない」
「あ……」

 振り向きリヴァイを見上げたの目はいまだ落ちつかず揺れていた。一体何がにこれほどの変調を来たしたのか分からないリヴァイだったが、あまりに頼りなげなその目を置いていくのも気が引けた。

 するとすぐそばの玄関口から数人の憲兵がやってきてリヴァイ達に歩み寄ってきた。

「君が火事場に入ったという調査兵だな。私はこの辺りを取り仕切っている憲兵団支部隊長のロルフ・バッハだ。先程はご苦労だった。君も、よくやってくれた。火事現場では早期の治療が必要だからな」
「いいえ……」
「分かってるならさっさと現場に駆け付ける医療班くらい整備しておくんだな」

 言葉を包まないリヴァイにバッハは苛立ちを含み、はヒヤリと背を冷やし慌てて取り繕った。

「あ、あの、先程の方は、命は取り留めました」
「そうか。まずは良かったというところだが……」
「何か?」
「先程の火事の屋敷……バッツドルフ家というんだが、主人が彼女をこちらに任せると言ってきた。一使用人とはいえ怪我人をいきなり放り出すとはな」
「……」

 その名を聞いて、は抱いていた不確かな不安を確かな闇に変えた。
 バッツドルフ家。が幼少時に育った屋敷だった。あの屋敷にいたころは一歩も外に出たことがなかった為に外から見ていた限りでは分からなかったが、あの主人は随分と様子が違っていたとはいえ、正面から見れば見間違うはずがなかった。

 そしてはもうひとつ、気になっていたことにも確信に近付いた。
 火事の中から連れ出された人。顔や体の大半を黒く焦がし今も意識なく眠っている。
 黒い髪と瞳、目鼻の浅い顔立ち、僅かに見えた黄白色の肌……それは東洋人独特の人相。
 あの屋敷ではまだそんなことが行われていた。

「やれやれ……酷い有様だな。これ以上の治療は無理だ。あとはどこまで長らえるかだ」

 治療を施していた医師達が手袋を外しながら出てくる。
 は「入ってもいいですか」と許可を取り中へ入っていった。
 全身を包帯で包まれ人相どころか肌の色も分からない。焼け残っている髪は黒だがそれは特別他の人とあからさまに違うというものではない。だってマスクは常に外さないが被り布は街に出る時くらいしかつけない。

「―……」

 女を見下ろすは僅かな包帯の揺れを見て一層近づいた。

「聞こえますか……? ここは病院です」

 耳元で声をかけると顔面を覆い隠す包帯が口の部分で僅かに動いた。
 意識を覚ましたようで、痛みと熱さに苦しむ様子も見えた。
 そして女は腕を引きずり、横たえていた腕を腹の上まで動かした。

「お腹、痛むんですか?」
「……」
「診ましょうか……失礼しますね」

 はそっと腕をどかし、女の腹に触れた。蹲っていたのか、腹の部分は火傷がなく傷も付いていない綺麗な肌だった。黄白色の。

「……問題無いようです。他に痛いところはありませんか?」
「……」
「お屋敷は……火事の後処理で大変なようです。しばらくここでゆっくり休みましょう。もう……苦しいことは、何もありません……」

 言葉もない女はその表情も見えずどんな思いを抱えているかも分からなかったが、はどうにか、救ってあげたいと思った。痛みも苦しみも、悲しみも虚しさも、どうか消し去ってほしいと思った。

「……、」
「なんですか?」

 女は口を動かし、喉から息を零した。うまく声に言葉に乗らずは小瓶から女の口に水を流し、言葉を誘導しようとした。

「……ひ……」
「ひ……火事ですか? 大丈夫です、もう憲兵団の方達が消火してくださいましたよ」
「……わ……しが……」
「……」
「ご……なさぃ……」

 火は屋敷の上階から回っていた。とても火の気がありそうな場所ではない。窓ガラスが割れ最も強く出火していた最上階の一室。最上階はの記憶にもない。そこにずっと閉じ込められていたのだとしたら……この人は自分で火を放ったのかとは思った。逃げ出そうとしたのか……命を断とうとしたのかは分からないが。

 胸が詰まった。だとしたらこの人は、あの屋敷に置かれている理由を分かっている。きっと自分よりずっと多くの苦しさを抱いていた。悲しみに打ちひしがれていた。何も知らずに育っていた自分とは違って。

「安心してください……。貴方は、私が守りますから」
「……」

 女の手にはそっと手を被せた。
 すると包帯に包まれた女の手が逆にの手を掴んだ。

「……ども……」
「え?」
「こ……ども……」
「……」

 は再び女の腹に手を当てた。
 下腹部から柔く押し手探りで中の感触を診た。

「子どもが……」
「……ぃわ……ないで……」
「え?」
「このまま……しなせて……っ」
「……」

 うまく形にならない女の言葉が、それだけ確かにはっきりと、感情を持って発音された。
 女のお腹には子どもがいる。……東洋人の血を引いた子ども。
 女が最近屋敷に囚われたのではないとすれば……自然と出来た子とは考えにくい。
 それはつまり……生産された子ども。

 は女の顔に目を向けた。包帯に巻かれ何も判別の付かない顔。
 しかしは目を見張った。
 その顔のさらに下の首にかかった紐。手繰ると……青い泪型の石。

「……」

 昔見つけた乳母の手紙には、青く光る石の付いたペンダントは、を生んだ母から預かっていたものだと書かれていた。先の見えない深い青は煌めきと淀みの両方を混ぜ合わせているようで、だけど不思議と強く惹きつけられた……泪型のガラス石。

 は反射的に女から離れドンとうしろの棚に背をつけた。
 父母という概念のなかったにとって、それは……異物だった。

「どうした」

 低い声にビクリと肩を揺るがせる。すぐそこにリヴァイがいた。
 その目で、遠い昔が蘇った。目の前に開いた空。暗闇の鳥籠。東洋人の血。戻らなかった乳母。残された手紙。奥深くに閉じ込めたはずのまっくらな闇が飲み込もうと滲み出てくるようで、凍えるような恐れが全身を硬直させて、はたまらずリヴァイの前から逃げるように走りだした。治療室を出て病院を出て、光を失っていく街を走っていった。

 川まで来て柵に手をつき、荒れ狂う心臓に吐きそうな程呼吸を乱す。
 頭の中でガンガンと痛みと共に何かが這い出てくるようで、壁の外へと流れていく川に涙を落としそうになった。

「……」

 女の首にあった青い石のペンダント。
 それを思い出し、は再び川の流れに沿って走り出した。
 川を渡る橋まで走り、橋の手前で川沿いの石垣へと下りた。
 ゴロゴロと転がる石をどかせ雑草の間を探り、どんどんと明るさを失っていく灰色の中で必死に目を凝らした。

 壁の外に陽が落ちるのは早い。すぐに視界は悪くなり川を流れる水音がやけに響いた。
 それでもは探した。頭の中に溢れる淀みと煌めきの青を。
 求め続けた。落ちる涙も気づかず探し続けた。
 夜になれば明かりもなくなる街。ひと気もなくなった橋の上。
 何かを必死に探すを、リヴァイは静かに見下ろしていた。
 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne