陽の光が無ければ真っ暗闇の壁の中、もうペンダントと小石の区別もつかなくなりは捜索の手を止めた。息苦しいマスクを外すと冷たい夜風が肌を撫ぜる。ふと見上げれば、降り落ちてきそうなほどの星が満天に広がっていた。

! どこに行ってたんだ、心配したぞ」
「ごめんなさい……」

 王都の南街まで戻ってくると、心配し探しに出ていたレイズがを見つけ駆け寄った。は王都で火事があったこと、その救助に携わっていたことは話せたが、その内情までは口をつかなかった。引きとられてから家族同然に接してきてくれたレイズに話せないことではなかったが、どうしてもあの言葉が喉を詰まらせた。

 ―このまま、しなせて……

 死を求められては、医者にすることなど何もない。
 生きてと望んだ乳母。生きるための戦いを繰り返す調査兵団。
 それが人の道だと思った。死を求めるなど……。
 でもあの人はそれを求めた。は冷ややかな恐怖に襲われた。
 もし自分も東洋人としての道を強いられていたら、闇の中で死を望んだのだろうか。それが……東洋人の運命なのだろうかと。


 花曇りの空の元、は馬車に揺られウォール・シーナを出た。調査兵団の本部は外にあるためシーナ内地のの自宅からは通うだけでも大変な距離にある。幼いころは壁の外にも世界があることすら知らずにいたのに、今ではひとりででもこうして壁の外へ行けるのだから、人は変わるものだと思った。

、今日はどうした?」
「診療所が休みなので、皆さんの怪我の経過を見せていただきたくて」
「そりゃあ助かる。人手が足りなくてな。もう医療班に入ったらどうだ?」
「私など、まだまだ勉強中の身ですから」

 兵団の医療班の医者に笑み返しは怪我を負った兵士達のいる療養室へ向かった。壁外調査の度に大人数の怪我人で溢れる療養棟だったが、数日経つだけで人数は随分と少なくなる。日頃から体を鍛える兵士達は強靭な精神力も手伝って怪我の回復も尋常でないようだった。

「こんにちはヘルマンさん。腕の具合はいかがですか?」
「ん、まぁこれ以上酷くはならないさ。君は?」
「医療班の救援をしています、です。ヘルマンさんの最初の治療にも当たらせていただきました」
「へー、こんな若い女の子に診てもらってたとは知らなかったな。ありがとうな」
「包帯、替えさせていただいても?」
「ああ」

 が調査兵団に訪れるのはいつも調査後の混乱の中だけで、当時は怪我を負い苦しんでいた兵士達はの存在も知らない者が多かった。は長期休養が必要となった兵士のベッドにつけられた名前を確認しながら怪我の具合を診て回る。包帯を取り替え傷口を洗浄し、薬を塗って新しい包帯で巻き直す。

「ウォルト先生のとこの子か。女の子がいたなんて知らなかったなぁ」
「このむさ苦しい部屋ん中じゃオアシスだな」
「むさ苦しいのはお前のせいだろ!」
、俺も見てくれよ」
「はい」
「俺も俺も!」

 病院とはどこも鬱屈としたものだけど、ここは明るかった。腕の大半を失くしていたり、内臓を損傷し起き上がれなかったり、誰の身体もその状態はとても笑顔ではいられないほどの重症なのに。それでもここには生気が満ちていた。笑い声が広がっていた。死の淵から連れ戻した者達が再び人として存在している。は嬉しかった。
 は療養室を回って一人ひとりと接し、カルテに状態の経過と名前を書き込んだ。ただの情報でしかなかった紙に命が宿るようだった。そうしているうちに窓にポツポツと雫が当たり始め、覗いた空は灰色がかって雨が降り出した。雨が降ると壁の中は日暮れがさらに早くなる。雨が酷くなる前に帰らなくてはとはきりのいいところで療養棟を出た。

 療養棟の正面には広い訓練場が広がっており、奥には立体機動訓練用の高い木の壁が何層にも重なり立っている。調査後は閑散としていたものの今では大勢の兵士達で溢れていた。雨が降ってきて切り上げる兵士も多くいたが、雨に打たれながらも訓練を止めない者もいた。突然の雨にも対応できるよう、どんな状況をも訓練のひとつとする飽くなき向上心がそこにはあった。

「まったくすげぇなあいつは。どうやったらあんな軽く飛べるんだ」
「チビだからだろ。立体機動は身のこなしが軽いほうが有利だ」
「お前それ面と向かって言ってみろよ」
「バカ言え。あの眼に睨み殺されちまうよ」

 通り過ぎていく兵士の声を聞き、は訓練場の柵の中を覗いた。
 そこには先程の会話から想像した通り、立体機動の装置を外すリヴァイの姿があった。
 兵士となって調査兵団に入りその力は群を抜いているというリヴァイだけど、そのせいか周囲の反響は良くも悪くも盛んなようだ。団長のエルヴィンに連れてこられたと聞いたが、何故あのリヴァイが調査兵団に入る決意をしたのか。それを思索するにも、はあまりに彼を知らなすぎた。

 ポツリポツリと雨が音をたて始める中、手の握りを気にするリヴァイが不意に振り返り、は目が合うとドキリと胸を揺らし慌てて頭を下げた。そしてそのまま歩き出したが低い声が「おい」と呼び止め、それを聞き取ったは足を止めておどおどと振り返った。

「何をしてる」
「え……あ……兵士の方達の、怪我の具合を見に……」

 柵越しにまっすぐ見てくるリヴァイの目はまるで大きな獣と向き合ってるかのような、大雨の日の氾濫しそうな川の傍に立っているような、静かなのに底の見えない怖さがあっては答えながらもビクビクと身を引いた。

「包帯、持ってるか?」
「え?」

 ふたりの間を遮る柵と小雨。それを飛び越えるリヴァイの声に再び目を上げると、リヴァイが上げて見せた右手には包帯が巻かれていた。はそれを見てすぐに柵の傍へと駆け寄りその手に手を伸ばす。柵が隔たり手は触れられないが、包帯の先から見えている指は赤黒く変色していて、それは火傷跡であることがすぐに分かった。

「この間の……。すみません、気付かず……」

 カバンから包帯を取り出すと傍の入口から中に入るよう言われ、屋根のある水場でベンチに座るリヴァイの包帯を取った。それはきちんと巻かれてはいるが感覚にバラツキがあり自分で巻いたような気配を見せていて、肌に添う部分は火傷で剥がれた皮膚と包帯がくっついてしまっていて、は消毒液を取りだした。

「すみません、少し、沁みます」

 消毒液で包帯を湿らせながらゆっくりと剥がすと、中はまだ赤く腫れ上がりぶつぶつと水泡が出来ていた。あの火事場に入り、人を探して助け抱えて出てきたのだ。こんな火傷を負っていてもおかしくはなかったのに……あの時のにはそれに気遣うほどの余地も無かった。

「すみません、私火傷の薬は持ち合わせていないので……療養室でもらってきます」
「あの女はどうなった」

 立ち上がろうとしただったが、リヴァイの言葉で動きを止められた。

「……あの方は、病院に任せていますので、私には……」
「経過も知らねぇのか」
「……」
「知り合いじゃないのか」

 目線も言葉も淀んでいただったが、リヴァイの問いかけに驚き目を上げた。
 するとリヴァイはの目の前に、青い泪型の石を差し出した。
 のペンダント。は目を丸くしてペンダントに手を出した。

「これ、どうして……」
「ただのガラス玉だ。光を当てれば夜の方が探しやすい」
「……」

 ただのガラス玉……。その声と言葉は、を一瞬で過去へと引き戻した。
 昔、リヴァイが幼いを助けた時にも、ペンダントを失くし慌てるにこれを差し出し言った。誰も取らねぇよ。ただのガラス玉だ。
 リヴァイは覚えていた。地下の闇の中から広い大地へと放った小さな少女。
 あれから何年も経ち、自分の足で壁の外まで駆け出ていくようになった、

「あの女も同じものをつけていたな」

 感情が突き詰め涙が溢れそうになったが、は目線を伏せぐと息を飲みこんだ。
 まっすぐ刺すように注がれるリヴァイの言葉も目も、強すぎて。

「……あの屋敷は、私がいた家でした。だ……あの家の主人も覚えてます……。けど、他にも東洋人がいたことは……。私には父親や……母親も、記憶にありませんから……」
「だから、関係ないと?」
「……」

 助けたいと思った。同じ東洋人が苦しんでいる。助けてあげたい。救ってあげたい。けど……それが自分を生んだ人間となると途端に分からなくなった。憎みや恨みがあるわけではないが、ただ、それ以上にそれが何かを認識出来なかった。には父母という概念がなかったから。

「あの女がまた屋敷に連れ戻されることになってもいいのか」
「……価値、無いんでしょう? 東洋人としての外見を失った東洋人など」
「……」
「死なせてと……言われました。それが東洋人として生きた者の答えです。それが東洋人の運命だと言うのなら……いっそ、滅んでしまえばいい」

 雨脚が早まりコツコツとトタンの屋根を雨粒が叩く。
 訓練場の土壌は沈んで跳ねて、景色は鈍く灰色に掠れた。

 果てない空を見た時、自由を目にした気になった。
 眩しい光に当てられた時、自由を得た気がした。
 歩き出した。駆けだした。家の外でも。壁の外でも。どこまでもどこまでも。
 ……走っていないと、すぐに足元をすくわれるようだった。
 いつでも心の裏で雨が降っていた。昼と夜。光と影。

 穢れ無くなど生きていけない。潔く強くなど、なれない。
 嘘を根底に育てられた少女に、まっすぐ真実に手を伸ばす勇気など。

「お前もここで嫌というほど見てきただろうが、分かりきったことを言ってやる」

 目の前のリヴァイの声が、まるで雨の向こう側のように濁って届く。
 怯えきったの黒い瞳はもう、目の前のリヴァイさえ見上げられない。

「時間は戻らねぇぞ。死んだ人間は生き返らない」
「……」
「冗談でしたじゃ済まされねぇ。お前は医者として、それを患者に言えるのか」

 医者として。

「……”医者”?」

 リヴァイの言葉を反復し、はマスクの中で自嘲した。
 そもそもなぜ、医者なのか。医者の元に預けられたから? 目の前にあったものだから?
 包帯を持つ手が小刻みに震え、その手をぎゅと押さえつけた。
 だがその手をさらにリヴァイの手が掴み、リヴァイは訓練場からを雨の中へと引っ張っていった。

「リヴァイ、さん……」
「その曇ったツラでちゃんと見ろ。目の前で起きてること、そのものをな」

 リヴァイは馬小屋まで行くと自分の馬を連れ出しを「乗れ」と押し出した。及ぶを無理やりに乗せると自分も馬にまたがり、捕まってろよと手綱を引き外へと走り出した。馬に乗ったことなどないはバランスが取れず前のリヴァイの背中にしがみつき、雨打ち付ける中、馬はシーナ内地へと疾走していった。

 そうして王都まで来ると病院の前で止め、周囲が何事かと振り返る中でリヴァイは馬から降りると再びを病院内へと引っ張っていった。
 人が少なく静かな院内は独特の匂いと気配を漂わせていた。行き交う医者を呼び止め火事場から助けられた女の居場所を聞き建物の奥へと進んでいく。雨で曇った院内にランプの明かりが灯りどの病室も人の気配が色濃く出ていたが、女が移されたという奥の一室だけは異様に暗く、はそこに近づくのも足がすくんだ。

「おい」

 足を止めたに引き止められ、前を歩くリヴァイも足を止める。
 には分かったのだ。この広く大きな病院の、奥の奥の一室。

? どうした、何か用か」

 ふたりの背を通りかかった恰幅の良い医者がに気づき歩み寄った。
 振り向く達の向かう先を見て、その医者は「ああ」と白い髭を撫でる。

「そうか、初期治療をしたのはウォルトのとこの子だと聞いたが、お前だったか。あの患者を見に来たのか? 残念だが、もう手の施しようがなかった。悪かったな」
「……」

 手の施しようが無い。……その言葉は知っている。医者がかける最期の言葉。
 も瀕死の兵士を前に口にした。
 それが、立ち位置が変わるだけで、こんなにも違って聞こえるなんて。

 奥の一室は狭い個室だった。窓辺にベッドが一床あるだけの質素な部屋。
 窓から鈍い光を滲ませる薄暗い部屋に静かに横たわる全身を包帯に巻いた人。
 指先ひとつ動かない。呼吸の音すら聞こえない。
 入口からすくんだ足を動かせずにいると、リヴァイに背を押されはベッド近くまで歩を進めた。

 きっと火傷をしていなくても包帯を巻いていなくても、この人が母親だとは分からなかっただろう。生まれた時から見たこともなかった人。……だから。

「これがないと、分かってもらえないと思った……」

 の手で揺れる青い石のペンダント。
 この部屋で唯一色を持っていた、女の首にかかる青い石のペンダント。
 はペンダントの手を口に当てマスクを下ろした。浅い鼻筋、黄白色の肌。東洋人の顔立ち。……分かってもらえないだろうことも、怖かった。

「見せておけば……何か変わったんでしょうか。少しは、生きる気力に……」
「死んだ人間にもしもの話をしても仕方ない。だから生きてる間にやらなきゃならねぇんだ」
「……やっぱり、私は駄目です。この人が母親だとしても、その人が死んだとしても……涙も出ない。人が死ぬことに慣れてしまったんでしょうか。死を尊ぶことも出来ない医者なんて……最低です。私はもう……医者にもなれない……」

 零れるの声は灰色がかった部屋の中に溶け去るように朧になる。
 涙も出ない。今この胸を圧迫しているものが、悲愴だとも確信出来ない。

「そうでもねぇだろ」

 背後で、壁に背をつくリヴァイの声が軽く飛んでくる。

「お前が医者になれねぇってんなら、俺が今こんな恰好で兵士なんかやってんのもお笑い草だ。医者なんていつも人の死が纏わりつく。人間だからな、自分を守ろうともするだろう。死にも慣れる。毎度毎度打ちひしがれてちゃこっちの身が持たねぇ。そこで生きると決めたなら慣れなきゃならねぇんだ」
「……リヴァイさんも、毎回たくさんの兵士の方達が亡くなって、悲しいですか?」

 何度悲惨な状況を目の当たりにしても、日が来ればまた旅立つ。
 また何度も惨劇を繰り返し、それでも彼らはまた赴く。壁の向こうの向こう側。

「誰かが食われた瞬間は巨人への憎しみしかない。その憎しみはやがて自分に向かう。それも過ぎると、そいつらと共にした時間が蘇る」
「……私には、共にした時間も無いから、悲しみも憎しみもないのかな」
「それがあるだろ」

 リヴァイの言葉に振り返ると、リヴァイはの持つ石を指し示した。
 乳母が託したペンダント。母からの預かり物だと書かれていた青い石。
 思い悩んだ時、寂しい時、この石を見ていると心が安らいだ。穏やかでいられた。
 傍にあると安心した。それは、乳母の膝に抱かれていた時のような。

 失ったから悲しいのではない。傍にあったから、悲しいのだ。
 傍にあった時が温かく美しく、そこには確かに愛があったから涙が溢れるのだ。
 それは確かに愛だった。穏やかに降り注ぐ眼差しのような愛だった。

「何も失いたくなければ強くなれ。……だがな」

 コツ、とリヴァイの靴音がすぐそこでなる。
 ポツリと落ちた涙をマスクとペンダントを握った手でぐいと拭ったの手を、リヴァイは掴んで頬から引き離させた。

「泣けない人間にはなるな」

 つと流れ落ちる涙の理由は分からない。
 何故溢れ出るのか。何故止まらないのか。
 隠す手を塞がれはどうしていいか分からず視線を移ろわせるが……やがて涙に呑まれ、堪えようも分からなくなった。頭に置かれた強く雑な手が、慰めているのかも分からないような大きな手が、頑ななものを壊し、柔なものを守り、涙を溢れさせた。

 陽の光が遠ざかり暗く影を増やしてく小さな小さな世界の片隅で。
 ただひとつの泪型の石が青い色を揺らしていた。
 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne