それはほんのりと薄日射す夜明け前のこと。

「先生! 先生、助けてくれ!」

 ドンドンドンと扉を叩く音で目を覚ましたのは玄関から最も近い寝室にいたウォルト医師。ウォルトが叩き続けられている玄関を開けた頃に奥の部屋からレイズも駆けつけた。

「どうしたの?」
「急患だ、お湯用意して」
「うん」

 階下の騒ぎに目を覚まし上着を羽織ったは二階から下りていくと台所にいたレイズの元へと寄っていった。まだ寝巻のままのレイズに代わりはポットに水を入れ火をつける。
 沸かしたお湯を台所から診療所へと通じるドアをくぐり運んでいくと、診療ベッドでウォルトがうなされているような女性を診ていた。付き添う男性の話によると昨日からずっと高熱が続いているという。

「今、王都では妙な病が流行っているというが、それじゃないか?」
「王都の病がここまで?」
「ご主人は王都で働いているらしい。彼は何ともない様子だが……」
「先生、王都の流行病とはどんなものなんですか?」
「まだ詳しくは分かっておらん。王都の医師達も原因が分からず難航していると聞く。今では死人も出て、ついに医研が動き始めたようだ」
「死人まで……!?」
「医研に行けばもう少し詳しく分かるでしょうか。私、行ってきます」
「僕も行きます」

 そうして陽が昇った頃、とレイズは王都へと出発し医療研究機関へ赴いた。

 限りある壁に囲まれているといえ大地は広い。伝達媒体が紙面と口頭に限られたこの世界では情報の共有もままならず、突発的に原因不明の病が流行ったとしてもその土地の技量で対応するしかなく、村ひとつ、町ひとつが病に喰い殺されることも珍しくは無かった。そのような医療格差を緩和すべく王都で設立された医療研究機関には、あらゆる土地で起きた病やその治療技術、新薬の情報、また古来からの文献も多く残されている医療の結集施設だった。

「グリシャ・イェーガー?」

 医療研究機関に到着したは王都で蔓延している病について、またその治療法についてを研究員に訪ねたが、この施設を持ってしても今回の病は原因が不明でいまだ効果的な治療法も分かっておらず手をこまねいている現状だった。

「昔、まだウォール・マリアが健在だった頃、南端の街のシガンシナで似たような病が蔓延した。突然の発熱が40度以上に上がりそれが約5日ほど続いた挙句に死に至る。感染者は膨大で街ひとつが消えかけたそうだ。……その病を止めたのがシガンシナで開業医をしていたグリシャ・イェーガーという若い医師だと記されている」
「今回の病はそれと同じなんですか?」
「いや……症状が似ているという程度だ。そもそも解剖を許可する遺族がいないから病原菌すら定かになっていない。それにこのシガンシナの報告資料は数十年前のもので詳細が克明でない。その上シガンシナは二年前に巨人に壊滅された街だ、このイェーガーという医師が今も健在かも定かじゃない。この文献通りの薬を試作してみたがそれも効果的でなかった。何より症状が出ても不確かな薬を試してくれる患者が少ないんだ。我々も困窮している」
「その医師が今も健在だとすれば……最も可能性が高いのはトロスト区でしょうか」
「ああ、だがトロスト区の登録医の中にその名前は無い。今は医者をやめているか……最悪巨人の犠牲となったかだ」

 過去の資料を掘り出しようやく見つけた兆しも、2年前の巨人襲来で踏み荒らされ、人の命も生活も、発達技術も、すべて巨人に破壊された。人類はどこまでも巨人に圧迫され続けている。悔しさが込み上げ、はマスクの下で口唇を噛み締めた。

「その医師を探してみてはいかがでしょう。今回の病がその当時の流行病なのか、そうだとすれば明確な治療法が分かるかもしれません」
「しかし、雲を掴むような話だ。そんな時間は我々にない」
「私が行きます。その医師が見つからなくとも、その時に治療を受けた人が見つかれば抗体を持っているかもしれません。道具をお借りします」
「ああ……」

 そうと決めるとは研究員から採血の用具を受け取りカバンに詰めすぐに医研を出発した。

「待て、僕も行くから、ウォルト先生に一言伝えなければ」
「時間が惜しい。今からトロスト区へ行っても夜になる。レイズはここに残って、皆さんの手伝いを」
「だが、お前ひとりで……」
「大丈夫よ。必ず戻ってくる。連絡もするわ」
……」
「原因が分からなきゃ話にならない。レイズは犠牲になった方の遺族を説得して、解剖の許可をもらって。そのほうがきっと役に立つ」
「ああ……」

 こう言い出したら止まらない。渋々了承するレイズだが、その表情に心配の念は消えなかった。また一度大丈夫と言い聞かせ、は大きなボックスカバンを肩に担ぎ出入口でレイズと別れた。

 王都から二重の壁の外のトロスト区へは馬車で丸一日はかかる。日に日に死者の数が増えている現状では途方も無い時間だったが、それでもに出来ることはそんなことしかなかった。僅かにも兆しがあるのなら、自分に出来ることを全力でやる。この一年、調査兵団の傍にいて学んだことだ。
 馬車の乗り場に急ぐだったが、乗り場は王都から外へ出ようとしている住民達が集まり混雑していた。今にも街を飲みこもうとしている未知の病が脅威であることを人々は感じ取っていた。この人では出発どころか馬車に乗るにも時間がかかる。しかし個人の移動手段を持たない者には馬車しかない。

「どうかしたのか」

 人だかりを前に、他の手立てを考えていたの肩にポンと手が置かれた。
 振り向くと、胸元に憲兵団のマークをつけた兵服の男が立っており、はその顔を見上げた。その男は知っている。数ヶ月前にの育った家で起きた火事で指揮を執った憲兵団の支部隊長、ロルフ・バッハだった。

「君は、いつかの火事現場で治療にあたった医師だな。ここで何をしている」
「至急トロスト区へ向かいたいのですが、馬車に乗る人が多くて……。あの、馬車を出していただけませんでしょうか、緊急の用事なんです」
「トロスト区へ? 緊急とは、何用だ」
「ある医師を探しに……。今王都で蔓延している病の治療法を知っているかもしれないと」
「それは他人事ではないな。来たまえ、馬車を出そう」
「あ……ありがとうございます」

 誘導するバッハについて憲兵団の馬車に乗ったはトロスト区へ直行することが出来た。定期的に出ている馬車に比べ馬脚は早く目的地へまっすぐに進む馬車は予定よりずっと早くに到着出来そうだった。

「君は調査兵団によく出入りしているらしいな」
「え……? はい、活動の救援をしています」
「あの火事の時にいた調査兵、あれはリヴァイだったんだな。話には聞いていたが直接会った事が無かったんで気付かなかったが。あの時火事場に居合わせたのは偶然か?」
「慰霊祭の帰りだったので、偶然お会いして……」
「調査兵団の救援など楽なことではないだろう。まだ若いだろうに……16・17くらいか?」
「あ……はい」
「名は何と言う。医術は誰に師事を?」
です。南街の診療所でウォルト先生の元に就いています」
「ああ、知っている。高名な医師だ。君も優秀なわけだ」
「いえ、とんでもありません」
「王都は不穏続きだが、相手が病では我々はどうしようもない。今の王都はまともな医療が機能していなくてな」
「医療が……? どういうことですか」
「王都は現状、医師が街を離れている。未知の病を恐れてな。病にかかり医者を求める民が増える一方だ」
「そんな……医者が逃げ出すなんて」

 一分一秒も無駄に出来ない状況にいながら、医師が現場を放棄するなど。
 には信じられずじわりと怒りが込み上げた。
 しかし今の自分に出来ることは、一刻も早くトロスト区へ向かうことしかない。
 ガタガタと大きく振動する馬車に揺られながら、はぎゅと手を握り時を待った。


 東側から昇った太陽が徐々に天高く昇ろうとしている時刻、調査兵団本部に集まったリヴァイ達は門へと向かって歩いていた。その日、王都で各兵団の報告会議と任命式が行われる予定で、エルヴィンを始めとする幹部達が招集命令を受けていた。

「王都で広がってる病で死者まで出てるそうですよ。大丈夫なんですか? そんな街の真ん中へ行って」
「まぁ正直不安だけど、しょうがないよね。三兵団が日にちを合わせられる日なんて早々ないからね」
「ハンジ分隊長、せめてマスクを。周囲の物にもなるべく触れないでくださいね」
「さすが、用意がいいねモブリット」
「リヴァイ兵士長もどうぞ」
「……」
「どうぞー、リヴァイ兵・士・長!」
「切り刻むぞクソメガネ」

 早朝からすでに訓練場では調査兵達が体を動かしている隣で、柵を隔てて門への道を歩いていくハンジの笑い声が響いた。その声を聞き付け窓を開けた医療班の医師が治療室から顔を出しリヴァイを呼び付けた。

「君に渡してくれとが置いていったよ」

 手招きされ窓へと近づいていくと、リヴァイは医師から見覚えのある容器を受け取った。

「君はきっと取りに来ないから必ず渡してくれと。火傷したのか?」
「いつだ」
? 昨日だよ。ここ最近顔を出して無かったからと立ち寄って、すぐに帰ってしまったよ。今王都は流行病で大変なことになってるしな」
「王都の流行病ってそんなに酷いの?」
「中心部では死者も出て相当深刻らしい。聞いた話じゃ、王都の医者は多くが未知の病を恐れて逃げ出したそうだ。治療法のない病と医師不足で相当混乱しているだろうに、相変わらず大変な方へ首を突っ込むよ、あの子は。治療法を知ってるかもしれない医師がいるからとトロスト区まで行ったそうだ」
「へぇー、勇猛果敢というか、可弱そうな子なのにね」
「……」

 話の途中でリヴァイ達の後方を歩く兵士に気づいた医師は、ちょっとすまないと遮りリヴァイ達の頭上から奥へと声を上げた。

「こらヘンリック! 訓練なんてまだ早いぞ」
「だーいじょうぶだって、軽くやるだけだから」
「骨折はこじらせると癖になるぞ、リハビリが先だ」
が来たら教えてくれよ。そしたらすぐ行くから」

 言うことを聞かずに逃げていった兵士にため息をつき、医師は首を振った。

「やれやれ、あんな奴らばっかりだ。がいなきゃ治療室にも寄りつかない」
「はは、すっかり聖女だね」
「まったくな。あの子も最初は兵士相手に戸惑ってたが今じゃすっかり馴染んでる。あの子の治療は献身的だからな。あの子の懸命さは人を惹きつける。昨日だって憲兵の馬車に乗っていたぞ。憲兵団の支部隊長が専用に出したらしい」
「へぇー、憲兵まで動かすなんてやるじゃない」
「今にあの子の治療受けたさに怪我してくる輩が現れるぞ、はは。そうだ、君達今から王都だろ? に伝言頼まれてくれないか。壁外調査の日には必ず来ると言っていたから次の調査日を伝えてほしいんだ。南街のウォルトの診療所なんだが、地図を書くからさ」
「いい。分かる」

 火傷の薬を懐にしまうリヴァイは歩き出し、ハンジとモブリットも医師に別れを告げ歩いていった。

 城にほど近い王都の中心部で行われた任命式で、リヴァイは正式に調査兵団の兵士長に任命された。それに次ぎ行われた報告会議では壁外調査で生存したまま捕えた巨人への実験結果も報告することになっていたが、巨人せん滅に繋がる程の有力な情報は何も得られず、調査兵団の壁外での活動における支持は依然として伸び悩んだ。

「人がまったくいないね」
「本当に医者が街を見捨てて逃げ出したんでしょうか」
「気持ち分からなくもないけどね。目に見えない敵というのも恐ろしいものだよ」

 会議を終えたリヴァイ達が出た王都の街は人の行き交いが見られず閑散として、乾いた風が鬱屈とした空気を吹き散らしていた。人々は病の伝染を恐れ外出を控え、診療所だけでなくあらゆる商店がその戸を閉めきっている。コツコツと石畳を叩くリヴァイの靴音がやけに大きく聞こえた。

 王都を出て本部へと帰還するハンジ達と別れ、リヴァイは南街で進路を変えウォルトの診療所へと馬を走らせた。リヴァイがウォルトの診療所を訪れるのは、それこそ10歳のを拾い預けた時以来7年ぶり。当時は診療所を兼ねたウォルトの自宅だったが、今では敷地を増やし自宅の隣に診療所を構えていた。

「おお、リヴァイじゃないか」

 診療所の方へと入っていくと中は順番を待つ患者で溢れていた。診察室前の長椅子に座る婦人に膝掛けを渡すウォルト医師が玄関口のリヴァイに気付き歩み寄る。壁外調査の救援で見かけることはあったが、ウォルトと対面するのも実に7年ぶり。

「まさか本当にお前さんが兵士になっていたとはな。から聞いた時は耳を疑ったぞ。どういう経緯だ?」
「大した話じゃない。そのはいないのか」
なら自宅の方にいる。ここ数日走り回っていたからな、休ませた」
「治療法を知る医者を探しているとか言っていたな」
「ああ、結局その医師は見つからなかったがな。だが当時の流行病の治療を受けたという兵士の家族から抗体を採取してきた。あの子が何日も家に帰って来ないことなど初めてだったぞ。お前さんたち兵団を手伝うようになってから、あの子はまた変わった」

 玄関口のエントランスはいくつものランプが灯り、光と色が反射し合ってまるで絵本の中のような異質な空間だった。病院独特の鬱屈とした空気や薬の匂いもない。エントランスは診察を待つ人が列をなし、奥の部屋の診療ベッドは満床、手前の診察室ではレイズが泣きじゃくる子どもを診て騒然としてはいるが、王都のような沈み淀んだ空気はここにはなかった。

「この診療所はあの子が作ったようなものだ。私も、昔は大した医者じゃなかったからな。お前があの子をここへ連れて来てあの子は当然のように医の道に進んだが、あの子の未知への欲求は果てしない。知識も技術も求める事が多すぎてな、私があの子に教えるために勉強をし直したほどだ」
「ふん、どうりで診療所がでかくなっているわけだ」
「お前も角は取れたが鼻っ柱は折れてないな。口が悪いのは兵士になっても治らんだか」

 はははと腹で笑われリヴァイは言葉を飲みこんだ。昔を知っている人間というのはやり辛さが拭えない。

「あの子はよくやってるぞ。医術を教えることはいくらでも出来るが、医者になれるかどうかは別問題だ。人の痛みを分かち合える資質が無ければどんなに技術を高めても医者にはなれん。あんな偏った環境で育ったんだ、あの子にとって人と深く関わる事は酷い苦悩だっただろうが、あの子は今それを乗り越えようとしている。価値を付けたいんだそうだ。己の宿命をも払拭するだけの、人としての価値を」
「……」
「あの子は今心から医者になろうとしている。やり方は少々強引だがな、あの子はいい医者になる。もレイズも、うちの子は皆優しい」

 リヴァイは古い記憶を蘇らせた。ウォルトの診療所で、震える少女に言った。
 何を言ったかは思い出せないけど。確かに言った。

に用か? そこの扉から家に行ける。行っていいぞ。まだ起きていればな。つい今しがた医研から戻ったばかりなんだ」
「邪魔する」

 先程まで雄叫びのような泣き声を上げていた子どもが泣き止み診察室から母に抱かれ出てくる。それと一緒に廊下に出たレイズがリヴァイに気づき会釈をし、ウォルトと共に再び診療に戻っていった。

 廊下の先の扉を開けると陽の光が注ぐ中庭に出て、その先には本宅の小さな勝手口がありリヴァイはその戸を開けた。そこは台所に通じていて中央に大きなテーブルがある。そのテーブルには資料や本が積み重なり、複数の小さな容器やペンが散らかっていた。その乱雑の中に伏せている小さな黒髪の頭がひとつ。
 風呂上がりなのだろう、肩にタオルを羽織るのしっとりと濡れた長い艶髪が肩やテーブルに波打っていた。つい今まで資料に目を通していたかのように頭の下に敷かれた腕の先にはペンが転がり、多少の物音でも目を覚まさない程深い寝息を立てている。

「……」

 疲労は見えるが屈託のない無防備な寝顔。涙で腫れていた幼い顔などもうどこにも見えない。
 すらりと伸びた手足に引き締まった頬。もう一人じゃ何も出来ない幼い体ではない。
 背中が緩やかに膨らんでは沈んで、胸の中に確かな鼓動を潜ませて。
 疲弊した体で眠りに就くを、リヴァイは静かに息を潜め見ていた。

 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne