最も内側の壁の内地、首都ウォール・シーナは王室およびその縁者の居住区とされておりおよそ20万人が住んでいる。その中央に位置する城の麓、王都を襲った伝染病はいまだ多大な被害を及ぼしており、王都から街外れへと疎開する者が後を絶たなかった。

「これだ、この反応を見ろ」
「減ってる……病原菌が駆逐されてます」

 乱雑に積み重なった資料と試験薬に埋もれ、細かく濃度を変えた薬が入った試験管が並んでいる研究所の一室。何日も籠り疲弊した顔の研究者達が何度目かの朝を迎えた頃、研究所を訪れたとレイズは顕微鏡を覗き何人もの命を奪った病原菌の減少反応を目にした。

「素晴らしいです……こんな反応が見られるなんて」
「まだ試験をしなくてはならないがな」
「それでも、これは確かな希望です。これで王都が救われます」
「本当にお疲れ様でした」
「何を言ってる、君達もこの成功を成し遂げた一員だ。未知の薬を作るのは並大抵の努力じゃない。何人もの死を経ても辛抱強く研究し続けた者だけが辿りつくことのできる奇跡だ。君達がいなければこんなに早く発見に至らなかった。よくやったよ、さすがウォルトの弟子達だ」

 朝陽に照らされる試験管の光の中では喜びレイズを見上げ、それに笑み返すレイズはの肩を強く抱いた。自分達の働きが認められ、ひいては師匠の賛辞となる。そんな嬉しいことはなかった。
 だが薬の効力が認められてもそれをすぐに使用するわけにはいかない。この薬で動物実験をし経過を見て、その後はヒトで試しそれが成功してようやくそれは薬となる。まだまだ薬の完成には時間を要する。が、何の兆しも見えなかった頃に比べれば今朝は目に痛いほど眩しい朝だった。

「僕は病院に行って経過を知らせてくる。は先に戻ってな」
「うん」

 雲が広がり薄暗く感じる空の下、とレイズが研究所を出ると施設の入口で突然「医師ですね」と声をかけられた。振り向いた先にいたのは兵士で、胸にはユニコーンのエンブレムが付いていた。

「支部隊長、ロルフ・バッハより、医師に至急支部まで来ていただきたいとの通達です」
「支部隊長が? 何事でしょう」
「こたびの伝染病について伺いたいことがあるとのことです」
「分かりました」
「待て、お前は明日の準備があるだろう」

 よもや憲兵にまで伝染病が広がったのではと案じ駆けつけようとしたをレイズは掴み止めた。調査兵団の壁外遠征の日が目前に迫っていた。

「平気よ、私が行くわ」
「けれどもこの天気だ。明日の調査がどうなるか分からない。すぐ連絡が受け取れる所にいたほうがいいだろう」

 レイズに手を取られながらは空を見上げた。
 これから1日を始めようというには光の射さない薄暗い空。北の方には厚い雲も見えた。雨になれば壁外調査は行われない。万全を期した状態でなければ悪戯に惨事を招く結果となってしまう。

「でも気になるし、支部隊長にはお世話になってるの。お礼しなきゃ」
「じゃあ一緒に行くよ」
「レイズは病院でしょ? きっとまだ人手が足りないでしょうから、放っておけなくなるわ」
「だけど」
「大丈夫だったら」

 壁の外に行くにも王都に行くにも、レイズの心配は尽きることが無い。幼いころから世話をし気にかけひたすら注意を注いできたレイズにとっては妹のようなもの。その特異な生い立ちも血筋もまったく別物ではあるが、かけがえのない家族。元々の性格もあるだろうが、どうも過剰なその心配症は時折負荷にも感じてしまう。いまだにをひとりで外出させることに懸念するレイズの手を離させて、は憲兵の馬車に乗り込んだ。

 馬車は首都をさらに中央へと進み、支部の前で止まった。外が薄暗ければ中も明るさは保てない。けれども調査兵団の本部に比べれば随分と建物も内装も凝っていて地位の違いを見せつけた。廊下に点在するランプを辿り、案内の兵士が奥の部屋をノックしを誘導してきたことを報せると、開いたドアの先のテーブルに座る支部隊長、ロルフ・バッハの姿が見えた。

「君か。ご足労願ってすまない」
「いいえ。その節は本当にありがとうございました」
「なに、当然のことをしたまでだ」

 謝辞を述べるの背で案内の兵士が出ていき扉を閉める。席を立つバッハがの傍まで歩み寄るとはその大きな背丈で簡単に影に隠れた。高い位置から見下ろしてくる。まっすぐ瞳だけを真摯に。

「まさに曇りなき瞳だ。美しくすらある。数億の価値にも値する」
「え……?」
「そのマスク、取ってみてはくれないか」
「……いえ、それは、すみません。あの……伝染病について聞きたいことがあると伺ったのですが」
「ああ。すまない、聞きたいのはそれではないんだ」
「では、何を」

 何か違う空気を感じ取り、はさりげにバッハから目線を外した。高い位置から注がれるバッハの視線がじっとりと湿気を含むようで居心地の悪さを感じた。ポツリ、弱い光を滲ませる窓ガラスに雨の雫が当たる。

「君の名は何という?」
「え……? です、以前にも……」
「そうじゃない。私が聞きたいのは、君の本当の名だ」
「……」

 バッハの言葉に頭が回らず何度も反復した。
 じわじわと光を吸い込む暗雲がにじり寄ってくるよう。
 目を移ろわせ、何のことかとマスクの下で口をつこうとした。

「それは不要だ、バッハ支部隊長」

 けれども、の声が生まれるより先にバッハにかけられた声。
 目の前のバッハは後方に振り向き、頭がよく働いていないも大きなバッハの振り向いた先に視線を移ろわせた。並ぶ窓の途中に立てられた赤い布のついたての奥からブラウンのスーツを着た男が現れた。

「探してくれてありがとう。私の娘に間違いない」

 男は丸い眼鏡の奥から深い二重の眼をに当てつける。
 その男を見たにはいくつかの場面が蘇った。
 燃え上がる屋敷。怒鳴り声。黒く焦げた女。女を無価値と言い捨てた男。
 いつも夜にだけ現れた。暗い部屋にランプをひとつだけ灯し、丸い眼鏡の奥から顔をまじまじと見つめ、何も言わずに去っていく……その男。
 を生みだし育てた屋敷、バッツドルフ家の主人。

「おかえり、私の娘」

 黒い瞳が丸く、言葉にならない空気が喉をすり抜けた。
 は咄嗟に後ずさり扉にドンと背をつけ、部屋から出ようとドアノブをまさぐったが開きかけた扉はバッハの大きな手により閉ざされた。動揺する血走った目でバッハを見上げるも、すべてを分かっているかのように笑んだバッハは抵抗するに構わずマスクと髪を覆う布を取り払った。隠れていた浅い鼻筋と黄白色の頬、小さく赤い口と束ねた頭からこぼれ落ちる黒髪。

「これが稀少の東洋人とは、お初目にかかるよ」
「手荒に扱わないでくれよ支部隊長、大事な娘なんだ」

 コツコツと近づいてくる靴音を耳にしていながら、はそのほうに向くことが出来なかった。幼い頃、暗い納屋に閉じ込められた時のような、すべてを奪い取る暗闇がすぐそばまで来ていることに怯えうまく息も吐き出せなかった。

「こんなに汚れて……どんな生活をしていたんだ。髪も痛んで、手などこんなに荒れて……」
「調査兵団に出入りしてますからね、野蛮な連中だ」
「医者など馬鹿げたことを……。これでは元に戻すのにまた時間と金をかけなければならないではないか。早急に家に戻ろう。お前はこんな服を着るべき人間ではない」

 主人の言葉が頭の先から水をかけられるように体の中心を流れ落ちていった。
 この声は恐怖だった。この言葉は絶対だった。
 大空に解き放たれ、壁の外までも羽ばたいたはずなのに……首の鎖は切れてなどいなかった。

「まったく、権威ある憲兵ならまだしも調査兵団など……。まさか、穢れてなどいないだろうな」
「……」

 身を固くし蹲るようだったから白衣を脱がそうとバッハが手をかける。
 けれどもはその手を振り払い、眼を上げた。

「嫌です」

 光も生まない漆黒の瞳が強固に差す。
 は震える口唇を噛み締め喉を押さえつけ、すり抜けるばかりだった息を言葉に形成した。

 髪など気にしていられないくらい時間と闘っていた。血を浴び失った命、消毒液を浴び繋ぎ止めた命。この白衣の元、認め、頼ってくれる人達がいた。苦悩し、あがき、優しさだけでは人は助けられないと知識を詰め込み技術を叩きこんでくれた人達がいた。荒れた指先にも、染み付いた消毒液の匂いにも、自分を形成するすべてにこの数年間の時間があった。

「私の名前はです。他の誰でもありません」
「聞き分けがよくないな」
「今街では大勢の人が苦しんでいます。多くの人が病と闘っています。幼い子どもが命を落とし、子どもを失い悲しんでいる親がいます。そんな人達に目もくれず……あなた方は白衣も無い私などに何を期待しているんですか。こんな事に興じていられる気がしれない」

 この手に意味を宿してきた。この血に熱をもたらせてきた。
 宿命以上の価値を身につけろと、教えられたから。

「調査兵団は……この世界に生きるすべての人の為に戦っています。命を賭す志が貴方に分かりますか。死を覚悟する瞬間が分かりますか。手足を失い兵士でいられなくなった絶望が……、遺体さえ戻ってこない遺族の気持ちが……っ、貴方はそれでも隊長ですか? それでも貴方は兵士を名乗るのか!」

 怯える心も、染みついた畏怖も、無くなってくれない。
 けれども許せなかった。命を懸けて身を投じ、圧倒的な力の前に屈し、涙し、時に罵倒され、蔑まれ……、それでも進撃を止めない彼らを、人類に光を見出そうとする調査兵団を、見下すことだけは。

「諫言、耳が痛い。君の調査兵団への貢献はよく聞いている。今回の王都での働きも然りだ。確かに調査兵団の働きは素晴らしい。易い覚悟で出来ることではない。だがね、仕事にはそれぞれに役割というものがあるのだよ。彼らは命を投げ打つ。私は、家出娘を探し出し家に帰す、それが仕事だ」

 ガ、と腕を背に掴み上げられ、は痛みに声を漏らす。
 これだけの訴えすら、思いすら、まるで冷たい壁に投げつけているかのように、届かないなんて。悔しくて涙が込み上げた。泣くものか、屈してなるものかと噛み締め堪え、赤い血が口唇に染み渡った。
 そのの傍に主人が歩み寄る。
 はどうしても反射的にビクリと身をすくめ、その怯えた頬に主人の手が寄り添った。

「感染などにならなくて本当に良かった」

 口唇の血を拭う主人の手は優しく、慈しむ声は柔く染み込むよう。
 ゾッと臓腑が冷え込むほどに。

「お前に外のことなど必要ない。お前は生まれ持った血筋と美しさだけで十分に価値がある。医術も、志も、お前には不要だ。お前はただそこにいればいい」
「……」

 染み込む。染み込む。
 堕ち行く。堕ち行く。

「帰ろう。再教育が必要だ」

 骨も筋肉も関節も血液も、すべてが凍りついたように動かなくなった。
 ただ心音だけは全身を包むようにドクンドクンと反響し続ける。
 記憶だけが頭の中を駆け巡り、封じ沈めたはずのあらゆる蓋が開いていく。

 小さくポッといつかの言葉が蘇った。
 ―食べるために育てたんだ。食べられないんじゃ育てた意味が無い。

 あの言葉は脳裏に焼きつき心に染みついた。
 けれども今、分かった。その言葉すら、間違いだった。

 家畜以下だ。

 人形だ……。



 ―ある日、朝から降り出した小雨は遠征を控えた調査兵団にも心配をもたらせたが、その日の午後には雨は上がって青空が覗き始め、予定通りその翌日には第31回壁外調査が決行された。
 今では巨人の巣窟となっている三重目の壁の内地を取り戻すため、南端の街トロスト区から出立した調査兵団実行部隊は極力巨人との戦闘を避けながら堅実に確実にウォール・マリアまでの行路を作りだしていく。時に巨人との戦闘を余儀なくされても、精鋭達は計算された連携作戦で冷静に巨人の弱点を切り裂いていく。並みの巨人になら敗北を強いられることはない。だが稀に存在する奇行種はその動きも早さも精鋭達の計算を狂わせ、犠牲者無くして戦闘を終えられるとは限らない。

 今朝まで共に笑い合っていた仲間が地に伏せ動かない。
 頭から噛み砕かれ誰かも分からない姿になった仲間を置いて逃げなければならない。
 どんなに訓練を重ねても、死線をくぐり抜けてきても、満足の結果などない。
 涙している暇も与えられない。雨を予感させたために早めに切り上げた今回の壁外調査は12名の死者と31名の怪我人を出し、終了した。

 壁外調査から帰還した午後、雨は再びパラパラと降りだした。
 血を洗い流すような雨は誰の心にも安堵をもたらせた。
 雨も涙も、濡れてしまえば同じだったから。
 本部に帰還した実行部隊の中で、リヴァイは療養棟の前を通り過ぎながら治療室へと目線を流した。雨が降りしきる中、曇った窓ガラスの向こうの人達は認識しづらく、足を止めた。

「どうしたのリヴァイ」
「……」

 ハンジの呼びかけにも答えず、リヴァイは療養棟へと入っていった。
 重症を負った何人かの兵達が急ぎ担ぎこまれていく間を縫うように歩き、運ばれてきた患者に騒々しくなる室内を見渡した。部屋に充満する湿気と血の生臭さ。痛み苦しむ声を押さえつけて治療する医療班。その奥で医療班とは違う色の服を着て治療をしている背の高い若い男。一人ひとり見ていくも、そのどこにもの姿が見えなかった。

「リヴァイ、どうした、怪我したのか」
「あいつはどうした」
「あいつ?」
だ」
「ああ……、それが、来てないんだよ」

 入口のリヴァイに気付き歩み寄った医療班の医師は、奥の背の高い若い男の医師―レイズを呼び寄せた。血のついた手袋と白いキャップを外しながら歩いてくるレイズはリヴァイを目にして会釈した。

「どういうことだ」
「それが……昨日から家にも帰ってこないんです。今日は調査日なので、何があったとしてもここには来るだろうと思って来たんですが……結局現れず。以前のように、行き先が分かっていればいいんですが、今はどこにいるかも分からなくて」
「思い当る所はないのか」
「すべて探しました。医研も王都の病院も、他にもあの子の行きそうな所は全部。昨日の朝までは一緒にいたんです。医研に行っていて、その後憲兵団の方が今回の伝染病について聞きたいことがあるからとを呼びに来たんです」
「憲兵団? 憲兵団の誰だ」
「王都の支部隊長と言っていました。もちろん支部にも行きましたが、知らないと追い返されました」
「支部隊長って、この間がトロスト区に行った時に馬車を出したっていう隊長かな。確かー、バッハとか言っていたかな」
「……」

 バッハ。その名にリヴァイも引っ掛かりを覚えた。
 以前耳にした。王都での火事の時、病院にやってきた憲兵団の支部隊長がそんな名前だったと。

「あの子が何の言い置きもなしに帰ってこないなんてこれまで無かったんです。何かあったとしか……、最悪……感染なんてこと……」

 レイズは言いながらマスクの下で青ざめる。外した手袋を握る手は微弱に震えていた。

「その支部に行く。他に心当たりはないか?」
「でしたら、僕も」
「お前はここで治療を続けていろ」

 そう言いつけるとリヴァイはすぐに体を翻した。

「ちょっとちょっと、どこ行くのリヴァイ、これから報告会議だよ」
「エルヴィンに言っておけ」
「なんてさ」
「サボる」
「はあ?」

 リヴァイの奇行を面白がってついてきていたハンジの後ろを通り過ぎ、リヴァイはマントを被り療養棟を出ると再び馬小屋へ向かった。壁外で疾走し続けた馬はいまだ汗が引かず濡れた体で座りこんでいたが、リヴァイが柵を外すと立ち上がり、その鼻筋を撫ぜ黒光りする大きな瞳を見つめるとブルッと体を震わせ蹄を叩いた。

「リ……リヴァイ兵士長!」

 馬を引きだし乗ろうとしたリヴァイは呼び声に足を止め、マントを被り敬礼する若い兵を見た。

「自分も、一緒に行かせてください」
「……、誰だ」
「ガイ・ブラントです。……実行部隊、3班……でした」
「ミケのとこの部下が何故ついてくる」
「自分も、今日が来ないのは、変だと思います。……どんなに忙しくても、調査の日は必ず来るって言ってました。自分は……弱くて……、でもは、そんな俺にいつも声をかけて、助けようとしてくれました。には、恩があるんです」

 背が高く体格もいい若い兵士が、きっと訓練時代もいい成績を修め志高く調査兵に志願した兵士が、自分は弱いと知らしめられる瞬間が、壁外にはある。一度折れた心を取り戻すのは容易いことじゃない。植えつけられた恐怖を取り除くのは簡単なことじゃない。

「俺もだ。リヴァイ、俺達も行く」

 ガイの背から続々兵士達が集まってくる。

が来ないなんてありえるか! 絶対何かあったんだ」
「ああ、あいつには恩も借りもある。今こそ返す時だ」

 どれも見覚えのある顔ばかりだが、松葉杖をついていたり、首から腕を提げていたり、包帯を巻いていたり、誰もが重症を負い長期療養を言い渡され実行部隊からの除隊を余儀なくされた者達。

 すっかり聖女だね。
 いつかの誰かの笑い声がリヴァイの頭をよぎった。

「足を引っ張るなよ」
「引っ張る腕がねぇよ!」
「行くぞ、探しだ!」
「おお!」

 厚い雲で薄暗く、雨脚が強まり地面が淀んでいく濁った午後に威勢のいい声が弾け飛んだ。
 馬を走らせるリヴァイ達はウォール・シーナの壁をくぐり、馬車でついてくる兵士達に王都中を探せと命じると、ひとり一行から外れ支部へと向かう。

 雨の雫が頬に落ち、首筋へと流れていく。
 空に広がる暗雲はいつかの真っ赤な夕陽すら忘れさせるほど厚く、悲しげだった。
 ポツリポツリ、しとしと、泣いてるように見える。
 チ、と舌を打つリヴァイは手綱を強く引き、さらに馬を走らせた。
 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne