壁の中の家家はまだ寝静まった夜明け前。南端の街トロスト区だけは昨夜からの熱気で起き出す人々も多かった。トロスト区本部から出発する調査兵団、実行部隊一行は壁外へと進撃する為に門へと向かう。兵の数が回を重ねるごとに減少していることは誰の目にも明らか。だがこの頃から今期入団した新兵の初遠征が目立ち始めにわかに人数は増していた。

「父ちゃん納得したのかぺトラ」
「するわけないでしょ。オルオのとこは?」
「俺は弟たちの英雄だからよ、万歳三唱で送り出されたよ」

 平静な顔で一端の口を利きながら、履いているブーツをグッと引き上げる。ベルトは何度も確認したがまたひとつひとつ締め直し、震える手にグッと力を込める。普段の呼吸では肺に足りず、深く吸って大きく吐き出して。馬に乗りながら、空へと突き刺さるように聳え立つ内地を守る壁を見る。近づくほどに壮大に圧迫してくる壁。

「見ろよ、リヴァイ兵長だ。おっそろしく強ぇんだってよ。見た目はあんな小せぇのに、討伐数聞いたか?」
「兵長のすぐ後ろの班なんて光栄ね。見て学べってことよ」
「バーカ、一番安全な位置だからに決まってんだろ。俺は左翼側だ、しくじるなよ」

 門が近づくほどに、周囲の士気はビリビリと肌に感じるほど張りつめる。手綱を握る手に汗が滲み、ほんの小さな心臓が全身に転移したように音を強めるけど、前方に見えているそう大きくはない背中は一切何も感じていないようだった。
 街に警鐘が鳴り響くと門が開き、今は廃れた街が兵達を迎える。巨人はまだ見えない。これまで何度も想定してきたその存在と戦い方を頭の中に蘇らせながら、実行部隊は大声を張り上げて気合を込め手綱を引いた。

「後れをとるなラル! しっかりと前を見ろ!」
「は、はいっ……」
「駄目だ、やるぞエルド!」
「おお! ラル、お前は前の班に混ざれ!」
「はいぃっ……!」

 疾走する人間達が巨人を呼び、巨人がまた巨人を呼び寄せる。群がる大群が恍惚な表情で追いかけてきて、小石を拾うように人間を掴み取る。空へと昇っていく誰かの足が、自分も着ている制服が、巨人の口へと入っていった。

「兵長、後方一体迫ってます!」
「お前達は後ろのヤツまで下がれ」
「は!」

 綺麗な緑の地面を踏みしめる巨体の足音がどんどん迫ってくる。ズシン、ズシン、ズシン……振り返らずとも感じる背後からの圧迫感。広げた大きな手が空を覆い隠し兵を頭から掴もうとした。逃げようとして馬から落ち地面に転げ、追いかけていた巨人も勢い余って前のめりに倒れる。でもすぐに振り返り眼が合う。近づいてくる。手が伸びてくる。体から力が抜けて恐怖もなくなって、何故か巨人の先に見えている青々とした空のような爽快さが体の中を駆け抜けた。

 しかし、巨大な手が兵を掴むより先に巨人はギアッ! と叫び仰け反った。巨体がうなじから血しぶきを上げ、意思の無くなった目と力の無い大きな口が倒れてくる。巨人の向こうの空に飛んでいた何かが太陽に被さって眩しかった。自分も着てる制服。自由の翼。

「おい、逃げろ!」

 地面に転がったまま動けない兵の上に巨人が倒れていく。チッ、とリヴァイは巨人の肩にワイヤを突き刺し地面に向かっていくと、倒れる巨人より先に地面に近付き滑空する。けど……間に合わない。巨人が倒れズシンと大きな地鳴りが一帯を響かせる。押し出された兵は巨体の下に足を挟まれたが事なきを得る。その巨体の下に……一本の腕。

「兵長、大丈夫ですか!? 兵長ッ!」
「全員で押せ! 引っ張り出すぞ!」

 巨人の下から足を引っ張り出され、総出で巨人を起こそうと兵が集まってくる。
 巨体が傾くと下敷きになっていた腕から肩、土に汚れた自由の翼。

「リヴァイ……兵長……」

 兵長! しっかりしてください、兵長!
 額から血を流すリヴァイが引っ張り出されるも、その目は閉じたまま動かない。
 愕然とする兵達の折り重なる叫び声はやがて遠くへ引いていった。
 瞼の向こうに浮かんでいた太陽も暗い底へ、意識と共に落ちていった。


 ……ピシャン、ピシャン、雫の音が硬く冷たいコンクリートを叩いている。
 降り続く雨が隙間から流れ込み、足元まで流れてくる。
 暗い中で耳に響いてくる雨音は体を這うようで気持ちが悪い。
 こびり付いた血の匂いが、降りしきる雨をまるで血のように思わせる。
 昼夜変わらない湿気臭い地下街。洞穴も服も物も人も。

「リヴァイ、傷はどうだ」
「大したことない」
「いけるか? っていっても、お前がいないと始まんねぇけど」

 皮膚が破れ血の滲む拳をぐるぐると布で巻き、歯でぐと縛るもすぐに赤くなる。怪我を治す薬どころか消毒液すら手に入りにくいここでは、医者にかかろうとすると大変な金がいる。それでも人は怪我も病気もせずに生きていくことは難しいから、何人もの人がたった些細な傷や風邪なんかで息絶える。

「今日のはでかいぜ。何でも億超えの超目玉商品があるんだってよ。まぁ億は替えられねぇだろうが、これでエルノの怪我もアルトの病気も治せるよな」

 寝床を奪い合って血を流し、食い物を漁って殴り合う。そんな血生臭い日常が繰り返される地下の、さらに深い深い無法の街。生き残ることが正義。生き残った者が勝者。常識も正論も、最後まで声を出していられた者が決める。暴力も盗みもここでは飯を食うことと同義。地上で空を眺めている奴らの法などここでは無力。

 その日行われた地下競売は長くここで生きてきたリヴァイでさえ初めて見るほど規模の大きい、地下をねぐらにする盗賊達には格好の獲物だった。集まった商品を狙う者、競り落とした客を襲う者、それぞれやり方は違ったが、最も強い力を持つ盗賊団の仕事が終わるまでは誰も手を出せないのが掟だった。

「―それでは今夜の至高の一品……。純正の東洋人、10歳の少女です」

 ランプの明かりも届かない高い梁の上から競売の様子を見下ろしていた一団は、場内の金持ち連中と同様に騒然とした。

「東洋人だって? なんだよ聞いてねぇよ。どうするリヴァイ?」
「……」
「バッツドルフっていやぁ商会のトップだぜ。人間売り買いするなんて地上もここと変わんねぇな。どんどん値が上がるぜ、東洋人の血が混ざった奴なんて地下にゴロゴロいんのに」

 目下、舞台の中央に鳥籠のような鉄格子の中、飾られている商品は人間。
 欲を丸出しにした人間達が聞いたことも無いような金額を投げ込む。
 周囲の異様さに怯えているのか、座りこんで身動き一つ出来ない黒髪の少女。

「降りるぞ、明かり落とせ」
「え? おい、リヴァイ」

 闇市場で手に入れた立体機動を使いこなせる人間はまだ数名しかいなかった。リヴァイが天井にワイヤを放ち突き刺すと、仲間達がガス灯を狙い割る。真っ暗になった場内に飛び降り、鳥籠の中に着地すると座りこんでいた少女の腹に腕を回しすかさず梁の上に飛んだ。腹の底からガタガタ震えている少女の怯えが腕を伝ってきた。

「どーすんだよリヴァイ、東洋人なんて捌けねーぞ。アシつくじゃねーか」
「いいから行け、脱出だ」

 悲鳴が飛び交う場内の遥か上で逃げ出す足音が蜘蛛の子のように散っていった。商会に見つからないうちにリヴァイも仲間達を追って走り出す。途中振り返ると、震え固まっていた少女が弱い手を這い出しているのが見え足を止めた。逃げようとしている。上等な装いと髪先まで手入れされた温室育ちの人形が。

 遠ざかる仲間達の足音を聞きながら、リヴァイは走る方向を変え地上へと繋がる梯子の方へ駆けていった。地上の光がまっすぐ降り注ぐ梯子の下で少女を待ち、追ってきた少女を確認すると梯子を昇った。地上に出てワイヤを建物に放ち、しばらく待つと穴の中から黒髪の頭が現れた。逃げるために邪魔なドレスを脱ぎ捨てた少女。少女は光の中でこちらを見上げる。いや、見ているのは……空。少女は建物の合間に見えている四角い空を追いかけ歩き出し、やがて無限に広がった大空の下で立ち止まった。

 まるで、初めて空を見ているかのような。初めて空気を吸ったかのような。
 だがすぐに商会の連中が追いかけてきた。少女は逃げようとしたがその足は弱く拙く、リヴァイは建物から飛び降りると駆けつけた男達の腕を切りつけながら着地した。血にまみれる男達を余所目にリヴァイは背後の少女に振り返る。地面にうつ伏せている少女は泣き腫らした真っ黒な瞳を向けていて、やがて意識を失った。

 真黒な艶髪、睫毛。黄白色の肌。赤い小さな口唇。純正の東洋人。
 行く所も帰る所もない少女。リヴァイは倒れた少女を抱き上げた。

「テメェで生きる方を選ぶだけの根性がお前にはあったってことだ。なら精々足掻け。お前の宿命以上の価値を身につけろ。運命なんぞに潰されないだけの価値をな」

 何の気の迷いか、馴染みの地上の医者の元へ少女を預けた。
 地下にいてもあんな子供は食い物にされるだけ。地下にはそんな女達が五万といる。
 黒いのと、暗いのは違う。
 隙間からしか見えない空より、境無き空を見ていたほうが。

 地下に戻ったリヴァイはそれからも血生臭い毎日を過ごす。
 そして数年後、ある男と出会う。エルヴィン・スミス。調査兵団の兵士。
 その出会いからリヴァイの運命は大きく方向を変えた。それは必ずしも好転だったと言えるかはいまだ分からないが、リヴァイは暗い地下街から壁さえ飛び越え大空へと飛び立った。

「ったく、化け物かよアイツは。巨人が人間に化けてんじゃねーか」
「そしたら小さくなりすぎたか? ひゃはは」

 兵士になったといえど周囲に馴染むことはない。調査兵団の兵士達はこれまでに見てきた憲兵達のように怠惰と欲に溺れた人間と違うことはすぐに分かったが、やはり地上の人間は地上の人間。忠義だの心臓を捧げるだのと恥ずかしげも無く胸を張る。リヴァイの目にはこの世界の真実も知らない生ぬるい集まりに見えた。

 そしてリヴァイは初めて直面する。絶対的強者。圧倒的敗北。
 赤子の手を捻るように大の男達を握り潰し食らう巨人。
 頭上の空に覆い被さる巨大な手。人間など一飲みに出来る巨大な口。初めて感じた……畏怖。
 だけどそれと同時に、高揚している自分に気付いた。
 死を味わう興奮。倒し、殺す、高揚。
 地下で誰を相手にしていた時とも違う。女を組み敷いている時とも違う。
 沸々と湧き起こる、笑い出しそうな欲情。

 あの時から……やたらと視界は冴えて、体は思いのまま、それ以上に動き、世界の隅々まで見えるようになった。
 どんなことでもすぐに答えを導けて、冷静に物事を考えられて。
 初めて壁外に行った時以来、巨人相手に驚くことも恐怖を抱くことも無くなった。
 もうあの興奮はないのか。高揚は。刺激は。絶望は。

「だからさぁ、巨人を忌むばかりじゃ何も分からないままなんだよ。そりゃ私だって奴らは憎いさ。でも私は奴らを受け入れることにした。受け入れて、認めて、そうして奴らの真実に近付きたいのさ」
「俺に言うな。王政に言え」
「君は力になるからね、目的を共有したいんだよ。君の力は信用しているよ」
「俺は命令された事をするだけだ」

 壁外への進撃を繰り返すごとに、否応なしに強い奴と弱い奴は分けられた。生と死。地上と星空。
 そうして生き残った奴らと、時にはチームを組まされた。足を引っ張るだけの邪魔な枷。動きを鈍らせる重荷。一人の方が勝てるのに。強いのに。

 だけど繰り返すごとに、中には信用するなどという変わり者もいた。
 大勢の死に直面した奪還作戦を生き残った数少ない兵達は結託する他無かった。
 兵も民にも多すぎる犠牲を払った。悲しみに暮れる人々。責め立てる目。
 エルヴィンが団長になると組織はまた形を変えた。
 仲間が出来た。……いや、仲間という言葉を受け入れた。多くを失い、また一歩から。

「ねぇ、何とか巨人を実験したいんだけど、どうすればいいと思う?」
「奴らは死んだら消えるだろ。生け捕りしかない」
「生け捕りなんて憲兵が何と言うかだ。寝床も確保しなきゃいけないし」
「寝床?」
「巨人の収容場所さ。トロスト区じゃ狭すぎるし、やっぱり内地かな。なるべく人の少ない……」
「巨人の話か。お前の言い方は分からん」
「もっと私達は彼らに歩み寄るべきなんだよ。憎しみ合うだけじゃ見える範囲は知れてる。愛を持って接すればもっと彼らの知らない面が見えてくるはずだよ」
「愛だ? 気持ち悪ぃ」
「知りたいという気持ちは愛さ! 私は壁外に行くたび彼らの事を理解できる気がする。いろんな顔を見たいし、見せてくれると嬉しい。かわいくてしょうがなくなるんだよ、キスしたいくらいにね!」
「気持ち悪い」

 調査兵団は上層部へ行くほどに変な人間の集まりだった。特にこのハンジは巨人の事となると異常な程の情と熱意を見せる。分隊長の位置に就いてからはタガが外れたようにさらにぶっ飛んだ人間になった。
 そんなハンジから離れたくてリヴァイは訓練場の前の道を歩いていく。壁外調査を終えたばかりで訓練場には誰もいないが、怪我人を多く収容している療養棟には大勢の兵士がいた。

「お前がアイツを殺したんだ!」

 すると、療養棟の出入り口から何やら揉み合う二人が出てきた。
 一人は兵士で、もう一人はその兵に腕を掴まれ道に放り出された白衣を着た女。
 何事だろうねと後ろでハンジも二人に注目する。そのまま歩き続けるリヴァイは、倒れた女を掴み上げる兵士の腕をガシッと掴んだ。腕を掴まれリヴァイに振り向いた兵士は頭に血を昇らせていた顔を少し落ちつける。

 そしてリヴァイは、女の方へ振り向いた。
 髪を白い布で覆い口にはマスクをつけた女の医者。医療班ではなさそうだ。
 そして女は何故か、目を丸くしてリヴァイを見つめていた。

「なんだ」

 声をかけると女はハッと目を覚ましてマスクを押さえ俯いた。
 その後駆けつけた別の医者に女は連れて行かれたが、その黒い瞳は印象に残った。

「あれは確か……ウォルト先生の所の弟子だな」
「……ウォルト?」
「奪還作戦の時から救援で来てくれてる内地の医者さ」
「……」

 ウォルト。内地の医者。それを聞いてリヴァイは記憶を蘇らせた。
 何年か前に地下街で拾い預けた東洋人の少女。あんな、真黒な瞳をしていた。
 まさか。もしかして。

 数日後、王都での慰霊祭の帰りに、内地を流れる川の橋の下でリヴァイはまたその姿を見た。その後王都で起こった火事に巻き込まれ、リヴァイはマスクで顔を覆い隠すその女があの時の少女であったことを確信する。……だからといって、何をすることもなかった。多少なりとも縁を持った人間、気にはなっても深く関わる意味はない。身分を明かす必要も無い。

「……価値、無いんでしょう? 東洋人としての外見を失った東洋人など」

 東洋人。純粋な血はもう絶滅したと言われる稀少な種族。
 その稀少さ故に手に入れようとする者、金にしようとする者は後を絶たない。

「それが東洋人の運命だと言うのなら……いっそ、滅んでしまえばいい」

 暗い瞳。凍りついた表情。その目のどこにも、青い空など見えない。
 地上の医者の家だ、地下よりずっといい生活を送れているだろう。その程度にしか思い返すことは無かったが、こいつにはこいつにしか分からないしがらみがある。共有できる者もいない血筋。一生ついて回る、呪縛。

 ……違う。駄目だ。お前は、光の下に放ったはず。
 背負うものが重かろうと、暗闇に足を取られようと、蹴り飛ばしてでも光の下に。

「泣けない人間にはなるな」

 お前は、そうはなるな。

 人類繁栄に心臓を捧げる兵士。人々を治す医者。運命は本当に分からない。
 だけど壁外はいつでも残酷だ。仲間と認めた途端いなくなる。いつも雨に打たれている気分。
 人との繋がりを持つと心は疲弊する。死が、より悲惨なものとなる。じくじくと痛む。
 殺し、殺され、死に、死なれ。
 荒んだ心で帰還する。誰の顔にも悲愴しか漂っていない。生きているかも死んでいるかもしれない。

 本部に着くとまず最初に療養棟がある。その窓の奥にが見える。
 まっすぐ見つめてくる目で、自分を思い出す。帰ってきたのだと自覚する。
 空も晴れている。雨など降っていない。肩も濡れていない。
 ああ……生きているのか。
 昔も今もこの手は血にまみれ、匂いに吐き気をもよおし、視界は曇る一方なのに。
 人を救おうと血にまみれるお前は……何故だか穢れを知らないようだった。
 だけど、笑っているその時は、いつもマスクの下。
 その素顔は泣き顔か寝顔しか見たことがない。昔も今も。

「お前はずっとそうやってツラ隠して生きてくつもりか」

 マスクの中でだけ生まれていた笑みがフと吹き消された。
 ……間違えた。曇らせたいんじゃない。
 赤い夕陽を見上げながら、お前はマスクを取っていた。
 本当は、そんなものをつけて生きたくはないんだろう。お前はいつも空を見ていたいんだろう。

「お前、ソレ取れ」
「や……取れと言われましても……」
「俺に隠す必要ないだろ」

 なんだか無性に、それを取り去りたくなった。
 邪魔するソレを剥ぎ取った。

 ある調査後、療養棟にの姿が見えなかった。
 ポツポツ落ちる雨の中、とてつもない違和感を覚えた。
 空も見えない所で、また、泣いているのかと。

「病も、巨人も、この子には不要だったのだ。お前が私の娘を死に追いやったのだ!」

 ……共有できる者もいない血筋。一生ついて回る、呪縛。
 宿命以上の価値を身につけろ。何も失いたくなければ強くなれ。
 お前はその通りに生きて、悩み、走り、死に抗い、光を得ようと。
 ……なら自分は、にどんな覚悟を持っていたというのだ。
 空の下に放ち、壁まで超えて、血を浴び死に触れ、苦しんで、悲しんで、それでも涙し笑顔を見せるお前に。

 ある雨の日、リヴァイはに会いにいった。
 普段のはマスクもない。家族の前では笑い、怒り、拗ねて。そのままの顔を見せた。
 そんなに。こんな自分に惜しみなく笑顔を捧げるに、触れた。
 雨の匂いに包まれた中、そこに口唇を寄せた。
 呆然とする。当然だ、自分だって分かっていない。何故そんな行動を。何故そんな衝動に。

 ― 知りたいという気持ちは愛さ!

「……」

 ― いろんな顔を見たいし、見せてくれると嬉しい。かわいくてしょうがなくなるんだよ、キスしたいくらいにね!

 ……まさか。そんなこと。
 愛だなんてそんなもの。この体のどこに。この記憶のどこに。この生涯のどこに。

「リヴァイさん……リヴァイさん……」

 真っ暗な中で、冷え切った空気の中で、この血を残すつもりはないと言うが、それでも零す、その名前。

 そうか。それは、生まれた時から持っていたのだ。
 この世に生を受け、名づけられ、それが誰かの口から発せられた瞬間から。
 それは降り続けていたのだ。

 リヴァイさん。リヴァイさん。リヴァイさん。

「―リヴァイ兵長!」
「……」

 ガタガタと揺れる地鳴りを頭に感じ、目を開くとそこは白い布で覆われた空間だった。
 なんだかとてつもなく長い間眠っていたようなだるさを感じる。
 この揺れは、荷馬車か。そうだ、壁外調査の最中だったはず。ここはどこだ。

「リヴァイ兵長、ああよかった、意識戻って」
「……なんだ、どうなった」
「すみません、私が、失態を犯したせいでっ……」

 頭を起こそうとするとこめかみあたりにズキンと痛みが走りリヴァイは体を起こすのをやめた。
 隣には見覚えのある新兵が涙を堪えた顔で、リヴァイの額に置かれたハンカチを水に潜らせた。

「調査は中止されました。もうトロスト区を出て本部に向かっています」
「そうか」
「本当にすみませんでした! 私などより……リヴァイ兵長の方がずっと大事なのにっ」
「……お前も調査兵なら、一人の命を軽んじるな。お前にも帰りを待つ者くらいいるんだろう」
「は……はい、すみません!」

 額に濡れたハンカチが戻る時、リヴァイはそのハンカチに花の刺繍を見た。

「……」

 馬車は本部へと到着し、リヴァイはすぐに本棟へと向かい会議中の部屋へ入った。けれどもエルヴィンに休養しろと言い渡されすぐに出された。怪我を負い、調査を中止させ、何たる失態。クソ、とリヴァイは嘆を吐きながら本棟を出た。
 ハンカチを握ったまま療養棟に向かうと、中は普段よりいくらか平穏な様子だった。怪我人も少なく医師達も落ちついている。……だがそのどこにもの姿が見えない。今朝、一緒にいた所を見たウォルトはいるのに。

「リヴァイ、様子はどうだ。頭は怖いからな、しっかりと休めよ」
はどこだ」
? あれ、どこに行った? 今までそこに」

 ウォルトに聞いてもどこを見渡しても、姿が見えない。
 療養棟の中を歩き回るも見当たらず、奥の安置室にも療養室にもいない。
 何の匂いもしないが、まるで匂いを辿るように、勘を働かせリヴァイは歩いた。
 療養棟を出て馬小屋の方へと進んでいくと、井戸の前にようやく、その姿はあった。



 呼ぶと、マスクを外していたはビクリと肩を震わせ振り向いた。
 顔でも洗っていたのか、前髪と鼻先を濡らし、マスクで拭いながら背を向ける。
 そのに近づいていくも、はさらに距離を取るように離れていった。

「おい」
「……」

 背を向けマスクを顔に押し付けている
 リヴァイはその腕を捕まえ、振り向かせた。
 前髪から水を滴らせ冷たくなっている頬。その頬にボロボロと伝う、熱い雫。
 それを見られたくなくて、はリヴァイの手を離させまた背を向けた。

「何、泣いてんだ」
「……」

 、とまた振り返させる。
 すると振り返ったはリヴァイの胸をドンと叩きつけた。
 ドン、ドン、ドンドン、強く握った小さな拳はリヴァイの胸を何度も叩きつけ、その度にポロポロと涙は降り落ち、リヴァイはそれを受け止めながらも受け止めきれないでいた。

「おい……」
「なんで、なんで馬に乗ってないんですか? なんで荷馬車でなんて帰ってくるんですか!」
「そりゃ……」
「なんで先頭じゃないんですか、なんで怪我なんてしてくるんですかっ! そんなの……リヴァイさんらしくないじゃないですか! リヴァイさんは、いつも先頭で、怪我なんてしないのにっ、人に運ばれてくるなんて!」
「怪我人に無茶言うな……」
「もう、怖かったッ……、目が覚めないかと……死んじゃったかと……っ」
「……」

 恐怖と涙に呑まれ、堪え切れなくなったは叩き続けていたリヴァイの胸に頭を落とし涙をぶつける。細い肩を震わせて、泣き声を引きずらせて、普段の平静なんて忘れてしまって。

 だけど、何とも言葉が出てこなかった。
 死なないとも、必ず帰るとも、言ってやれない。
 気休めすら口をつかない。

「お前は、覚悟をしなきゃならないんだ。俺と関わろうというなら」
「……」

 普段のがどんなに恐怖を胸に帰りを待っているのかを思い知る。
 たかが軽い怪我をしただけで、たかが意識を失っただけで、こんなにも。
 リヴァイはいまだ引きつく背中に手を当てる。
 けど、震えていた背中はリヴァイの胸から離れ、手からも離れていった。

「嫌です! 覚悟なんてしません、絶対しません!」
「あ……?」
「生きてさえ、いてくれたら、絶対に私が助けます! どんな怪我でも、私が、絶対にっ……」
「……ああ」

 錯乱する頭で、涙でまともに言葉も出ない口で、強く言い放つけど、やっぱり呑まれて、またリヴァイの胸に涙を降らせた。

「も……あんな思いは嫌です……」
「ああ……」

 人間相手に驚かされたのなんて……いつ振りか。
 助けるだなんて。

(巨人だな、コイツは……)

 泣きじゃくるをあやしつけながら、リヴァイは細長い息を吹き出し腹の底を落ちつけた。
 覚悟を持たなければいけないのは、自分の方だった。
 全力で向かってくるその黒い瞳に、向き合わなければいけないのは。
 覚悟を決めなければいけないのは。
 泣かせてばかりだけど。何を言ってやればいいかも分からないけど。
 今さら、いかに自分が人の心情に触れないようにしてきたかを思い知る。

「泣かせてばかりだな、俺は」
「……違います、これは、嬉しいんです……」
「そうか」

 だけど、見上げた空は晴れていた。
 こんなに泣きじゃくってこんなに悲しんでいるけど、空は素知らぬ顔で青い。
 雨の音も無い。当然だ、雨なんて降ってないんだから。
 頭の中で降り続けていた雨は、いつの間にか、どこかへ流れていった。
 頬を伝って、流れていった。

「おかえりなさい……リヴァイさん……」
「……ただいま」

 それはやがて地中深くへと染み込み、生命の源となるんだろう。
 そこから緑は生まれ、花が咲き、世界は息吹を繰り返すのだろう。
 雨も、涙も、枯れないようだから。
 大地に、心に、降り注ぐようだから。
 

未知らぬ夜に

走 馬 灯