窓の外は広く雲の広がる晴れ切らない空色。
差し込む日差しも弱く、まだ冬季を脱さない肌寒さがガラスから漂っている今日、壁外調査を間近に控え調査兵団本部の療養棟では検査に訪れる実行部隊の兵士達で賑わっていた。
「でもやはり温かくなっているよ。林の方には緑が増えてきたし、訓練場の奥にも花の蕾がなっていたのを見たよ」
「もうすぐ春ですね」
「壁外ならもう花が咲いてるかもしれないな。見つけたら取ってくるよ」
「ルークさんはお花が好きですね」
「ヘンだよな、男のくせにと」
苦み笑う兵士には「そんなことありません」と笑みかけ聴診器を耳に当てた。体内を循環する血液がドクドクと指の先までを温め再び心臓へと戻っていく。小さくも力強い鼓動に耳を澄ましていると、は目の前のシャツのボタンに目を留めた。
「どうしたんですか、このボタン」
「ああ、これか?」
前を開けているルークのシャツの縦に並ぶ白いボタンは当然どれも白い糸で縫われているのに、胸元のボタンだけ赤い糸で留められていた。心臓に一番近い、2番目のボタンだけ。
「これは母が、まじないだと言って勝手につけてしまったんだ」
「おまじないですか……。ルークさんを守ってくださっているんですね」
「目立つから皆にからかわれるんだけどな」
「素敵ですね。お母様、お元気ですか?」
「ああ。だけどいつも家に帰りたいってうるさいんだ。うちは皆田舎者だから、人の多い街中の暮らしはいまだに息苦しくてな」
「田舎はどんな所だったんですか?」
「畑と野原と森だけの何もない所だったよ。あそこで暮らしてた時は内地に憧れたものだが、今思えばやはりあそこが俺には合ってたと思うよ。今でも壁外に行くと懐かしく感じる。町は荒廃してるけど、それ以外は元のままなんだ。草花は咲いてるし大地は広いし。巨人は人を食うけど、動物や草花は荒らさないんだよな。人がいなくなって、大地が奇麗になってるなんて、皮肉にも感じるな」
聴診器を外し採血の準備を整えていくの作業を見つめながら、ルークはハッと己の発言に気付く。
「いかんいかん、こんなことを言ってたらまた怒られちまう」
「ここでは誰も怒りませんよ」
「俺、何気なしにこんなことを言ってしまうからよくもめ事になるんだ。当然だよな、巨人を討伐しようと命張ってる中にいるんだから。調査も近いんだし、気を引き締めないと」
「ルークさんはいつもきちんとこなしてらっしゃるじゃないですか」
「俺は調子が出るのが遅くて、早いうちから調整しないと壁外でもボーっとしてしまう時がある」
「ふふ、リヴァイさんと同じですね」
「リヴァイ……兵長?」
「よくおっしゃってます。調査の日も、体が調子よく動くのはせいぜい壁が見えなくなる頃合いだと」
「へぇ……なんだか意外だ」
注射器が用意され、肘に近い部分をゴム管でキュと縛られると浮き上がった血管部分に消毒液が塗られる。マスクの中で「少し痛みます」とは言うけど、さほど痛みなど無いことは知っていた。針が肌に添うとの伏せた黒い睫毛も近づいてくる。混じりのない黒。それを見下ろしていると、突然ガチャッと診療室の扉が開き、今にも肌に刺さろうとしていた針の切っ先はパッと離れた。
「驚いた……。リヴァイさん、どうしました?」
「検診中悪いな。コイツを見てくれ。落ちて腰を打った」
「だ、だから大丈夫っ……ぁいって!」
「ほらもう、おとなしくしなさいよ」
向き合い座る二人が扉を向くとそこにはリヴァイの姿があり、ルークは慌てて立ち上がり敬礼の姿勢を取った。室内にリヴァイが踏み入るとそれに続いて腰を押さえるオルオとそれを肩に担ぐぺトラが入ってきて、採血をやめて立ち上がるはぺトラを奥のベッドへ誘導した。
「ぺトラさん、髪切られたんですか?」
「ああ、立体機動に邪魔だしね」
「お綺麗でしたのに、勿体ないな。でもお顔立ちが綺麗だから短くてもお似合いですね」
「そう?」
「フン、お世辞に喜んでんじゃねぇよ」
オルオは小さくぼやくが、すぐ近くのぺトラにはしっかりと聞こえオルオをベッドにポイと放り投げた。硬いベッドで跳ね返りもせずオルオは再び腰を押さえて痛みにもがくがぺトラは素知らぬ顔でフンと手をはたく。
「どこが痛みます?」
「だから大丈夫なんだよ、ちょっと打っただけだすぐに治まる!」
「診ますから、ベルト外してうつ伏せてください」
「ほら、ベルト外してさっさと脱ぎなさいよ」
「うっせぇ! テメェはさっさと出てけ!」
憎たらしいオルオの腰を叩こうとぺトラは手を振りかざしたが、がまぁまぁとなだめるとぺトラは再びフンと顔を背けた。同期の二人は訓練兵時代から過酷な生活を共にしてきた同志であったが、どうも顔を合わせれば口喧嘩が絶えない。
「兵長、俺大丈夫ですから! すぐ訓練に戻りますから!」
「こいつが無理と判断すればお前は訓練も遠征もなしだ」
「なっ……そんな! 俺大丈夫です、もう痛くもないです!」
ベッドから身を乗り出すも、痛みがそうはさせずにオルオは腰を押さえてうつ伏せる。
「お前達若手は調査兵団の財産だ。調査はこの先いくつもある。目先のことに捉われるな」
降りかかるリヴァイの言葉をオルオはようやく飲みこみ口を塞ぐ。
任せたぞとに言い置いて、リヴァイは扉へ歩いていった。
「兵長、ボタンが」
扉を出る手前、ぺトラがリヴァイの胸元でぶら下がるシャツのボタンに気付き、指示されてリヴァイはそれをもぎ取った。立体機動の訓練中に落下したオルオを地面にぶつかる直前でリヴァイが捕まえた時に取れかけたのだろう。同じ訓練をして同じような体勢で落下したにも関わらず、リヴァイは怪我ひとつなく自分はこの有り様。リヴァイが部屋から出ていくとオルオは沸々と沸き上がる悔しさに堪らずベッドをドンと殴りつけた。
「せっかく兵長に訓練をつけてもらってるのにっ……!」
「リヴァイさんはオルオさんに期待しています。焦らないでください」
「そんなことなんでアンタに分かるんだよ!」
「ここから訓練場はよく見えますから」
オルオをなだめるの言葉を聞いて、立ったままのルークは窓に振り向いた。確かに療養棟に隣接する訓練場はよく見える。療養棟の出入り口から訓練場へと戻っていくリヴァイとぺトラの姿も見て取れた。けれども訓練場は広すぎて、誰が誰かまでは分からない。
「すみませんルークさん、先に終わらせましょう」
「あ、ああ」
の声に振り向きルークは椅子に戻る。
そのまま採血を終えると検診も終わり、はルークを見送ると廊下に待機する兵士達に先にオルオの治療をすると断り、寒い中で待ち続けていた先輩兵士達から負傷の新兵に罵声が飛んだ。
外は太陽が最も高く昇る時間ではあったが、鈍い光しか差し込まない室内は隅々に薄暗さが居座った。検診に訪れる兵士達の出入りは日暮れまで続き、太陽が陰ってくると診療室には早々にランプが灯り暖炉に火が着けられた。
「オルオはどうだ」
「すみません、私ではどうとも……。怪我自体は大事ではありませんでしたが、腰は悪くすると癖になりますから。他の先生にも診ていただいたんですが、まだ成長期ですし、過剰な訓練で悪化することもあると」
「成熟を待てということか。ガキには一番苦手なことだ」
「それにしても、オルオさんはとてもリヴァイさんに憧れてらっしゃいますね。治療中もずっとリヴァイさんに訓練をつけて貰えなくなることを心配してました」
「そういや最近やけに挑んできやがるな」
大半の兵士の検診が終わった頃、のいる診療室を訪れたリヴァイは上着を脱ぎながら椅子に腰掛けた。スカーフを取りシャツのボタンを外そうとして、指先でふと気がついた。
「糸持ってるか?」
「糸?」
リヴァイは昼間にもぎ取ったボタンをポケットから取り出し、聴診器を耳にかけようとしていたはそれを見下ろした。
「すみません、持ち合わせていなくて……」
「ないならいい」
「探してきます、どなたか持ってるかも」
「いい」
は聴診器を肩に戻し部屋を出ていこうとしたが、リヴァイはそれを断りボタンを握り下げた。
「今度から、用意しておきます……」
「……しょげることねーだろ」
シュンと俯いて椅子に戻るを見かねて、リヴァイはベルトを外しシャツを脱ぐ。
「いつでもいい」
脱いだシャツを託しリヴァイは再びボタンを差し出す。それには嬉しくなって、ハイと頷き返しボタンを受け取った。
「お風邪ひかないでくださいね」
「脱がせといてお前が言うか」
「わ、私が脱がせたわけでは……」
シャツを畳みボタンをきちんとポケットにしまって、はようやく検診を再開し聴診器を耳にかける。
「ボタンといえば、昼間に検診した方が胸元のボタンのひとつだけが赤い糸で縫われていて、おまじないなんだそうです」
「まじない?」
「お守りくださいとお母様に縫われたそうですよ。素敵ですね。でもとても目立ってました」
「だろうな。赤で縫うなよ」
リヴァイの心臓に聴診器を当てながらはクスクス笑う。
すると逆に伸びてきたリヴァイの手がのマスクを引き下げ、は驚き黒く丸い瞳でリヴァイを見上げた。
「お前のツラも久しく見てねぇからな」
籠っていた温度がなくなり冷えた空気が頬を撫ぜ、燃える暖炉に混じってリヴァイの匂いがした。
マスクを外されると医者としての体裁も奪われたような気になって、そうなると目の前の見つめてくるリヴァイも、検診中なら慣れているはずの素肌にも目を合わせていられなくなって、思わず目線を移ろわせるとおのずと頬が熱を持ったのが分かった。
「すぐ赤くなるなお前は」
「か、返してください」
「かまうな、続けろ」
リヴァイの手中のマスクに手を伸ばすも届かず、焦がれる頬を隠して離れようとしても腕を掴まれ逃げられない。どこにも心の落ち付く所が見当たらず、熱は上がり言い訳も立たずあわあわと昂る感情が涙となって瞳を覆った。
今度会えたらあれを話そう、これを言おうとためておいたのに、いざその眼に射ぬかれると真っ白になってしまう。
どうしたことか。これまで出来ていたことが出来なくなってしまう。何にも手につかなくなってしまう。
思い出すという時が無い。想い過ぎていて忘れることも無い。
会えない間は永く遅い時の流れなのに、傍にいる間はまるで流れ星のよう。
どうして、描いた通りにはいかない。時の流れも。慕情も。
壁の向こう側から陽が昇り、朝焼けが徐々に街を照らしていく早朝。
夜明けと同時に目を覚ます兵士達はそれぞれに支度を始め、身を温め頬に気合を入れる。
体を動かし緊張を解す者、馬の毛並みを整える者、大量の朝食を平らげる者。それぞれが各々の培った方法で出発に備える中、オルオは調査兵団と同じく早朝からトロスト区に集結した医療団の元を訪れていた。
「ここは?」
「平気だ」
「うん、痛みが無いなら大丈夫だろう」
回を重ねる毎に僅かだが人数を増やしている医療団。
その医師も各地から集まるだけに多種多様でそれぞれに専門、得意とする分野があり、は整体に詳しい医師にオルオを診てもらった。
「オルオさん、お止めはしませんが保証するわけではありません」
「分かってる! いや……分かった」
まだ若い身体を兵服に包み、気持ちばかりが先走る体をきちんと制御してオルオはベルトをしっかりと締めあげる。彼も立派な調査兵団の兵士だ。そう確信し、信じて、いってらっしゃいませと見送った。
そのオルオと行き違いにの元に駆け寄ってきた兵士がいた。ルークだった。
「、見てくれよ。外を走ってたら見つけて、取ってきてしまった。やっぱりこっちは暖かいんだな」
「まぁ、タンポポ」
綺麗に蕾を開いている一本の黄色い花をルークは差し出す。まるで子どもが宝物を見つけたような笑み。それは緊張や集中で張りつめた壁外調査前の兵士にはなかなか見られない様相。
「こんなことばかりしてるからお前は緊張感が無いと怒られる」
「ルークさんはいつも朗らかでいらっしゃるから素敵です」
ハハと照れて頬を撫ぜる。
陽の光が少しずつ色濃くなって、青白かった大地が茶色く照らされてくると遠くで集合の声がかかりルークもその方を向いた。
「行かないと。あ、外はもっと咲いてるだろうからまた取ってくるよ」
「あまり気を取られないように……」
「分かってるよ。そうだ、リヴァイ兵長があっちにいたぞ」
「え?」
ルークは一度そう奥の方を指さして、じゃあ行ってくると集合がかかっている方へ走っていった。はそれを見送りながら、けれども疑問が残った。何故今、突然、リヴァイの名がルークの口を突いたのか。
太陽光が左側から強く差し始め、兵士達は馬に乗り隊列を整えると門へと前進する。
進む隊列の中で、は前衛で黒い馬に乗ったリヴァイを合間から見つけた。
興奮も緊張も感じ取れない平静な面持ちで前だけを見据えている。それは普段と何ら変わりないのに、他の大勢の兵士達から伝わってくる熱気がどうしたっての心を静かに静かに震わせ不安へと追い詰めていった。
「、そんな顔をするな。しっかり見送ろう」
「うん……」
隣に立つレイズが胸元でぎゅと手を握るをなだめ肩を抱く。
はマスクの中でふと呼吸を繰り返し、何とか不安を体内から追い出そうとした。
「我々はこの後どうするんだ?」
「僕達も門まで移動して近くにテントを張ります。行きましょう」
実行部隊が出発していくと街の人達の活気づく声が飛び交う。
医療団の医師達もそれぞれに荷物を馬車に積み込み門へと移動していった。
気勢を高める調査兵団が開く門の向こう側へと駆け出ていく。
やがて静まった街に太陽が昇り、冷えた空気を徐々に暖めて一日が始まっていった。
最南端の町は内地のどこよりも一足早く色づく。
温暖な空気が街を包み、緑や蕾が今か今かと華やぐ時を待っていた。
草木を撫ぜる風、揺れる花々、薫る緑。
耐え忍ぶ冬季を乗り超え、季節は芽吹く春―。