開いた門から内地へ差し込んでいた午後の光が、ゆっくりと降りてくる重厚な門に阻まれ明るみを消した。今朝方、勇猛な調査兵達は猛々しく外へと駆け出ていったのに、それはもういつのことだったかと思うくらい誰もが俯き壁の中へと戻ってきた。
誰もが暗い表情だけど、その中では大きな黒い馬に乗り帰還するリヴァイの姿に心底安堵した。ずっと体の奥底で響いていた不安交じりの重低音が痛みと共に解けていき、だけどここで一息でも吐けばもう立ち上がれなくなりそうだったから、息を飲み込み運ばれてくる負傷者達を待ち構えた。
「症状を見極めて、重症患者を優先して治療してください」
「おい、止血剤はどこだ! 包帯も!」
「腕の出血よりも大腿部の止血が先です、出血の仕方にも注目を」
門前に張られたテント内に負傷した兵士が運び込まれ、生還した兵と医療班、そして救援の医療団の医師達で一気に騒々しさを増した。内地に帰り着くまでに血を流し続けた兵は唇を青くして体を震わせ、流れる血すら止まろうとしている。聞くに堪えないと思った呻き声が突然目の前で途絶える。その光景はまるで、地獄のようだった。想像はしていたが……それを軽々しく飛び越えて、医療団として新しく混ざった医師達は慌ただしく血の波間を駆けずり回った。
「先生、ヴァルターが!」
「な、なんだ、止血したのに……」
「早く止めてくれ、死んじまう!」
初めて救援に参加する医師達は、次々とやってくるどうしようもない負傷者に恐れおののき、ただただ周囲の空気についていくのが精一杯だった。これまで何十年も学び培ってきた医術を持ってしても、溢れる血を止められない。苦しみを取り除けない。死にゆく足を止められない。
「何故だ、ちゃんと処置したのにッ……」
「何やってんだよ、早くどうにかしてくれよ!」
まるで己を全力で否定されるような。歩んできた道程を根こそぎ奪われるような。
医師としての自負も名誉も誇りも、ここでは。
「、!」
困惑し手もつけられなくなった医師を見限って、兵が遠くのを呼ぶ。それを聞きつけたは治療の手を止め、傍にいた兵に代わりを頼むと血に濡れた手袋を外しながら声の方へ急いだ。寝かされている兵は体中の至る所を赤く染め、その出血の多さから体をブルブルと震わせショック状態に陥っており、はすぐさま心臓部分に両手を重ね圧迫を繰り返した。
「俺はちゃんと止血したんだぞ、頭部も、上腕の骨折だって!……」
「代わりますので、先生は入口付近をお願いします」
「な……何を、俺の処置が間違ってたというのか!?」
「先生、手の足りない所の補助を」
「お前……、お前が、俺に命令するのか!?」
錯乱し自分の立ち位置すら飲みこめなくなった医師はに食ってかかるが、はそれを振り払い蘇生法を続ける。その医師を、また別の医師が掴み止めた。
「医療団の指揮はウォルト。不在時は彼女が先導だ。指示に従え」
目を覚ますように言いつけ、なだめるように背を叩き落ち着かせると、困惑していた医師は入口付近へと向かった。それを見届けることなく、長い髪を後ろで縛り白い顎髭を蓄えた大柄の医師はの傍に着き様態を診た。
「大腿部と内臓からも出血してるな」
「大元は大腿部です」
「止血する」
「、大丈夫か、俺が代わるぞ」
「蘇生次第輸血します、血液の準備を」
「あ、ああ!」
心臓を圧迫し続けるは汗を落としマスクの外からでも分かるほど息が上がっており、それでもマスクを剥ぎ取ると血を吐き出した唇に人工呼吸を数回繰り返し再び圧迫を続けた。額から流れ落ちる汗が口唇についた血の赤を薄める。圧迫する回数で時間を計りながら反応しない顔色を観察し頭の中で戻れ、戻れ、と繰り返した。
「、一度手を止めろ」
「え、」
腕が痺れポタリと鼻先から汗が滴り落ちると、対面で処置していたケール医師がの手を止めさせ心臓部分に手を添わせた。そしてそこで拳を握り一拍置き、ドンと強く胸を叩きつけると兵の体が飛び跳ねた。何事かとは困惑したが、ケールが見つめる先でピクリとも動かなかった兵が自力で口を開け息を吹き返した。その反応を目の当たりにし、はすぐに気道を確保し蘇生を確認した。
「ケール先生……」
「一か八かだ、真似するなよ」
白髪交じりの髭の下でにやりと口端を上げるケールに呆気に取られ、は息を切らしながらケールを呆然と見詰めた。それでも周囲の騒々しさはすぐにを現実へ引き戻す。また遠くで「!」と叫ぶ声を聞きつけ、は口を拭いマスクをつけ直すと駆けつけようと膝を立てた。
けれども膝は力が入らずにガクンと崩れ落ちは地に手をついた。腕がブルブルと痙攣している。血の味が滲むほど呼吸が荒れ、周囲からを案じる声が飛んだ。時間で見ればほんの数分だったはずの蘇生法だがその動作は想像以上に体力を削っていた。だけどそんな暇すら惜しい。は喉をぐと引き締め再び足に力を込めた。
すると、立ち上がろうとする動作と一緒に腕を引っ張り上げられ体がふわりと浮いた。
立ち上がることが出来た。掴まれた腕の先を見るとリヴァイの横顔があった。
「リヴァイさん……」
引っ張り上げ、リヴァイはそのままを呼び声の方へと連れていく。
小さなテント内の騒々しさはそれからしばらく続いた。
早急に処置の必要な者への治療が終わり、やがて門前の騒々しさが治まっていくと部隊は移動を始め、生存者達は痛々しい姿ではあるが荷馬車に乗り込み本部へと帰還していった。激痛が止まず、体の一部が欠損し、この惨状に誰もが口を閉ざしていたが、もう二度と動くことのない遺体を積んだ荷馬車に比べれば……生に溢れていた。
「あの人はどこ? あの人を帰して頂戴!」
ガラガラと動き出す荷馬車の向こう側から女の悲愴な声が上がり聞き取った誰もがその方を振り返った。遺体を包んでいる布を片っ端から引っ張り剥がし、周囲の者が止めても女はその手を払い、泣き叫びながら異常なほど歪めた顔で遺体の布を次々と引っ張っていった。切り裂くような叫び声を上げ血眼になって誰かを探している。傍の兵達がその手を止めようとするが誰の言うことも聞かずその手を止めることも出来ない。響き渡る叫び声は兵士達全員の耳と胸に突き刺さり誰もが俯いた。
「あんな姿、糾弾されるより辛いですね……」
泣き叫ぶ声に目を伏せるエルドが周囲に漏れない音量でポツリと呟く。
その声を傍にいたリヴァイだけが聞き取った。
「俺達は自分の意思で調査兵団に入って、怪我も死も覚悟してるけど、周りの人間は違いますもんね……。俺達と同じ覚悟を、周りの人間にまで強いるのは……違いますよね……」
神妙に呟くエルドは何か考え込むような、何かを重ね合わせているような。
その言葉を聞きながら、リヴァイはエルドの真っ赤に染まった左脚に気付いた。
「エルド、脚の怪我治療したのか」
「え? あ……いえ」
血を滲ませている脚を思い出したエルドは荷馬車に乗り上がりブーツを脱いだ。一度落馬した時に岩の破片で深く切った脚を今の今まで忘れていたエルドは、脱いだブーツから大量に血が流れ出てきたのを見て自分で驚いた。リヴァイは周囲に医療班か医療団の医師を探したが手の空いている者がいない。そんな中で、遠くの泣き叫んでいる女を眺めている、まだ馬車にも乗っていないを見つけた。
「」
リヴァイが呼ぶと、ふと気がついたは目をこちらへ寄こした。
進む荷馬車に同乗し、血にまみれるエルドの脚の深い傷からいまだ流れ続ける血を圧迫して止め、傷口を消毒する。慣れた手つき。淀みのない処置。マスクの端を赤く汚したは黙々と包帯を巻いた。
「、ありがとうな。ヴァルターが命をとどめたのはお前のおかげだ」
「あれは、ケール先生のお力です」
「何言ってんだ、お前の力でもあるさ」
「心臓が止まっている時間が長すぎました。意識も戻りませんでした。あれでは……助けたといえません」
「……命があるだけ、何よりさ。少なくとも、家族にとっては」
包帯を巻き上げていくはマスクの下で何を思っているのか目線を伏せたまま。
その様子を、荷馬車に並走するリヴァイが馬上から見下ろした。
ガタガタと揺れながら荷馬車は暮れていく空の下を列を成して進んでいく。
たくさんの負傷者とたくさんの遺体を乗せて、部隊はトロスト区を抜け本部へと帰還した。
本部へ到着しても医師達による治療は続いた。緊急を要する者は門前のテントですぐに治療を受けたが、重体でない負傷者は先に本部へと帰りついていて、は汚れた治療着を白衣に替えひとりずつ様態を診て回った。怪我人のリストの中には「再起不能」という欄があり、はその文字が心苦しかった。その文字に丸をつけるということはすなわち兵士としての死を意味する。そしてその決断はすべて医師に託される。
はいつもより多い人の名前にひとつずつ目を通していく。
怪我の度合いで分別されている兵のリストをめくっていくと、やがて行方不明者、死亡者の名が連なり出てきた。それもまたいつもよりも数が多い。はひとりずつ口ずさむように名前に目を通した。
「……」
ペラリめくった最後の一枚を見て、はその目を丸くした。
いまだ治療に騒々しい療養棟からずっと奥に位置する本棟では、幹部達による壁外調査直後の報告会議が始まっていた。実行部隊は誰もが汗と泥で汚れ疲弊した体を何とか支えている。
「他に報告はないか」
窓際に鎮座するエルヴィンは全員に語りかけるも誰からも返答はない。
今回は死人も怪我人も多く、だが進攻はさほど進まず拠点も荷馬車も巨人との戦闘によりいくつか潰してしまい明らかな敗戦が色濃く漂った。地道過ぎて泣けてくるね……。エルヴィンの傍らに座るハンジが呟いた。
「団長、あの……」
「なんだ」
重い空気の中で、端の席に座る一人の男がおずおずと手を挙げる。
「遺体収集について再検討を願えませんか。新たな班を作るとかして、極力持ち帰れるように……」
その進言に誰もがチラリと発言した男を見て、エルヴィンに振り返った。
「却下だ」
「しかし……」
「可能ならこれまで通り持ち帰る。だがそれを命令はしない。生存者優先、使命が第一だ。使命に遺体は必要ない」
エルヴィンの返答に一瞬は言い返そうと口を開くも、息を飲んだ。
そのまま会議は解散しようやく全員今日の任務を終えた。
「エルヴィン荒れてたね」
「そりゃああれだけボロクソにやられればな」
「今回で索敵陣形も信煙弾も思わぬ穴が見つかった。見直しが必要だ」
会議室から出る幹部達の中でハンジとリヴァイとミケは言葉を交わしながら階段を下りていく。
外に出ると兵舎に向かうと思ったリヴァイがひとり方向を変え門の方へと歩いていった。
「リヴァイどこ行くの」
「療養棟だ。兵を全員確認する」
「ああ……お疲れ」
ハンジの声を背に療養棟へと進んでいくリヴァイは傍らの訓練場を見て歩を緩めた。壁外調査を終えたばかりの訓練場はいつもなら誰もいないが、今は何人かの姿が見える。結果を残せず無駄に仲間を死なせ……悔しくやるせない思いは幹部も下級兵も新兵も同じだった。
「リストはどこだ」
療養棟に入り治療を受けている者や休んでいる者をひとりずつ視認したリヴァイは、医療班の医師からリストを受け取る。その名前をひとつずつ確認し、刻んだ。
「リヴァイさん、お疲れ様です」
「ああ。ご苦労だった」
リストに目を通すリヴァイに声をかけてきたのはレイズだった。
手や袖の端を赤く染めているレイズは普段と変わらぬ様子で微笑んで見せる。
「は?」
「あれ……、さっきまでそこに」
その傍にもいるだろうと思ったリヴァイだけど、治療室を見渡してもどこにもの姿が見えなかった。療養室かな、とレイズは他の部屋を見に行くが、それでも見つけられずに二階へと上がっていった。
レイズの背を見送って、リヴァイは一度辺りを見渡すと、奥の静かな廊下へと足を進めた。その方はどの部屋よりもひっそりと静かで人の気配もしなかった。当然、その先は遺体の安置室だから。
「」
リヴァイは扉口から中を覗く。それぞれ遺体を包んでいた布は取り外され、顔の上に白い布がかけられ並んでいる遺体達。そしてその奥の隅に、ひとり生命のある後ろ姿。
コツリと静かな部屋に踏み入り、リヴァイは白衣の背中まで歩み寄る。
しゃがみジッとしたまま動かない、白い被り布から黒髪が零れている後ろ姿。
その小さな背中を見下ろしリヴァイは再び呼びかけた。が、やはり応えない背中はまるで、部屋中に並んでいる体達と同じよう。
「どうした」
は部屋の片隅で、バラバラの体の一部を見下ろしていた。
巨人に喰われ、体の一部しか取り戻せなかった遺体達。
その中のひとつ、一本の腕をは蒼白の顔で見下ろしていた。
「誰か分かるのか」
身動き一つないと思っただったが、床についている手の、その細い指先が小刻みに震えていることにリヴァイは気付く。はその震える手を床から剥がし、マスクの上から口を押さえた。
「……ルーク、ヘーゲルさんです……」
「何故分かる」
「治療痕が……、それに……」
マスクと掌に押さえられた声。それ以前にカタカタと震える口唇で上手く発声出来ていなかった。は今度は手を横たわる腕に寄せ、その千切れた腕の先の掌をそっと開かせ、中にあった小さなボタンを見せた。白いシャツのボタン。そのボタンホールに絡まり途切れている、赤い糸。
リヴァイはそれを見下ろし、先日が話したまじないの話を頭に蘇えらせた。
手にしていたリストの中からその名を探し、行方不明の文字を消し「死亡」に丸をつけた。
「?」
「……」
その後もは千切れた腕の先のボタンを見下ろしたまま、動かなかった。
レイズがやってきて、動かないを支え立たせ連れ帰った。
ウォール・マリア奪還作戦からこれまで治療に携わってきたが、遺体にあんなにも激しく動揺する姿を見たのは、初めてだった。