広い空のどこにも月が見えない夜は、街ごと大きな黒い幕に覆い隠されるよう。
四角い部屋の中は暗く、その分小さなランプの灯りが丸く柔らかく室内を照らしていた。
「しかし、想像以上だったな、壁外調査とは。毎度あんな惨状とは」
「北に籠ってちゃ見れない光景だったろう」
「ああ。新参の医者は誰も慌てるばかりで役に立てたとは言えんかったな。医療団とやらも形が出来るまでに時間がかかるぞあれは。今はまだお前に声をかけられたから集まっている医者ばかりだろう」
「ああ。それも内地のだ、気位ばかりが高い奴が多い」
ウォール・ローゼ内地、ウォルト邸。
食事を終えた食卓で酒を飲み交わすウォルトとケール医師の笑い声でランプの火が揺れた。
壁外調査を終えた夜、調査兵団本部からとレイズと共にケールも帰宅した。ケールはウォルトと同じ医師に師事していた兄弟弟子であったが、臨床医となったウォルトとは違い、ケールは極北にある治験センターで研究者として働いている。
「しかし、あの死者の数では問題が起きない訳がない。いくら決心して調査兵になったといえ、残された者は納得出来ん。遺体も無いんじゃなおさらだ。遺体はあった方がいい。死すら認められないのは辛いからな」
「ああ。だが、こちら側がそれを求めれば彼らは是非にでも取り戻しに行くだろう。連中はそういう奴らだ。それでは彼らの仕事が変わってしまう。それではいかんのだ」
「なんだ、随分と調査兵団に肩入れしているんだな。昔はそんなこと言わなかったろう」
「ここで訪れる街の人々だけを診てふんぞり返ってたろうな」
仰け反りながらぐいと酒を煽るウォルトはハハハと大きく腹で笑う。
その二人の元に、階段を下りてくる足音が近づいてくるとランプの光と共にレイズが姿を見せた。
「どうだ、は」
「体調の異変ではないようです。今日はもう休むと」
が口もつけなかった夕食を置くレイズに、対面に座るケールが酒瓶を傾けるとレイズはそれをグラスに受け取った。
「はいつもこうなのか? 調査は毎月と言っていいほどあるんだろう。その度に悼んでいては身が持たんだろうに」
「今ではちゃんと制御できるようになったんだがな。何かあったのか?」
「いえ……、僕には特に思い当ることは。治療の最中も普段通りでしたし」
「ああ、の腕は本当に素晴らしかった。判断力も技術もさながら、兵士達からの信頼も厚い。とても十代の女の子には思えなかったぞ」
「あの子ももう長くあの場に従事している。あらゆる人間を診てきた。そこいらの医者よりずっと力をつけている」
「確かにな。レイズ共々、自慢の弟子達だな」
「ケール先生の治療も目新しく、感動しました。人体の構成を熟知しているというか、北の医術は面白いですね」
「我々の医療は特に偏っているからな。内地の医者から見れば特異なものだろう」
「情報量の医研、独自技術のセンターと言ったところか。さながら憲兵団と調査兵団のようなものだ。つまり、こやつらと医研の連中とは酷く折り合いが悪い」
ウォルトがからかうと、ケールは顔を背けて漬物を口へ放り込みカリカリと音をたてた。
「そうなんですか?」
「奴らは我々が長年研究して得た技術を根こそぎ持ってっちまうからな。その癖それで得た成果は自分達の権威にして星を獲得してやがる。その新薬ひとつ開発するのに何十人の研究者や被験者が苦労したと思っているのやらだ」
「お前達がそうやっていつまでもいがみ合っているから医療はいつまでも進歩しない。もう春だぞ、そろそろ雪解けの時ではないのか」
「俺だって分かっているさ。そう言うならウォルトが仲立ちしてくれよ」
「私は今それどころではないよ。医療団もまだ動き出したばかりだ」
「ならはどうだ? あの子は医研にもよく通っているんだろう」
? ははと軽く笑いながらウォルトは酒瓶に手を伸ばすが、レイズがもう駄目ですとそれを取り上げた。
「に今北へ行けというのは無理だろうな。今のあの子は、壁外調査の現場から離れることは出来ん」
「何故だ。あの若さだ、現場も大事だがもっと広い医学を学ぶのも大事だろう」
「それはそうだがな」
酒を止められウォルトは口寂しそうに漬物をポリポリとかじる。
ケールはレイズに目を移すが、レイズも同意するように笑みを返した。
― 階下から時折響いてくる笑い声を耳にしながら、だけどそれが気に止まることなくただ流れ去った。ただひとつのランプの灯りが室内を丸く包んでいる。窓辺だろうと外からの光は差し込まず、今夜は月のない夜だとは思った。
の手の中には一本の花があった。
細長い茎の切られた部分に水を染み込ませた布が巻いてある、黄色い野花。
今朝早く、大地から離れたタンポポはもう花や葉の端からしおれてきている。
「……」
このまま朽ちていく、摘み取られた花。
野に咲き風に揺られていれば、季節を全う出来ていたはずの。
まだ太陽も覗かない早朝、白い光が徐々に壁の中の世界を浮かび上がらせる。
霧が濃く立ち込めるまだ何の物音もしない街にガチャリと扉を開ける音が響いた。
隙間から流れた空気は冷たく、の口から零れた息も白くなる。
もう春だというのに。南の方の街では、野花が咲くほど暖かくなっているのに。
最も内側の壁の内地にはまだ春は遠かった。
マスクをつけて静かに扉を閉めると、は帽子を被り石畳の道路をコツコツ歩きだした。
朝一番の馬車に乗り、さらに中央へと街中を進んでいく。
が訪れたのは王都中央に位置する慰霊碑のある広場。数ヶ月に一度、民の為世界の為に命を懸けた兵士を尊び開かれる慰霊祭の時は多くの人が集まり華々しくなるが、慰霊祭ではない今日は人の姿は少ない。それでもこんな早朝にも関わらずいくつかの人影はあった。
少しずつ晴れていく霧の中、さめざめとすすり泣く声がある。碑石に刻み込まれた名前の前で落胆する背中がある。毎日毎日花を手向けにやってくる小さな手達がある。栄誉ある死を誇り花を手向けに来る人達とは違う、それぞれ胸に悲痛を抱える人達が縋るようにここを訪れた。
は、多く花束が手向けられている碑石の前に膝を着く。
これまでに命を落とした調査兵団の兵士達。中には知っている名前も並んでいる。
慰霊碑を求めて来たのに、花は……持ってこられなかった。
昨日からずっと、いまだ胸の奥底に居座り続けている重責が何なのか、ここに足が向いた理由が鎮魂なのか贖罪なのか懺悔なのか、自分でも分からずにいた。
それに、花を贈ることはまるで……貰った花を、それに込められた気持ちまでもを返すことになるようで……出来なかった。
いつも、故郷の話を幸せそうに語る人だった。自然の豊さを尊ぶ彼の言葉そのものが彼の豊かさだった。嬉しそうに花をくれた。それはとても些細だが、純粋でいたいけな思いだった。
自分も人を想い、恋焦がれるようになったからこそ、それが分かった。
そんな彼が口にした、リヴァイの存在。
人を思うからこそ、その人の目がどこに向いているのかも分かってしまう。
”リヴァイ兵長があっちにいたぞ”
彼はただ、が喜ぶだろう名前を口にした。
はそれが気になった。そして、気付いた。
どれほど自分の思慕が流れ出ていたか。人に気づかれるほど、その人を慕い、見つめてしまっていたのか。
誰もが命をかけて立っているあの場所で。
「……」
膝の上で冷え切った手を握り締め、は碑石の前で座り続けた。
僅かに感じていた人の気配すら感じなくなり、時折思い詰め零れそうになる涙だけは流すまいと噛み締めた。やがて陽の光は碑石の影を濃く、傾きを変えていく。祈る人々が訪れては去っていく。何人も何人も。
「― あれ、調査兵団のリヴァイ兵士長じゃないか?」
……祈るように座り続けていたの耳が、ふと流れてきた名前を拾った。
パチリと目を開け、確かめるように背後に振り向くと、すぐ後ろに立っていたリヴァイに驚いた。
「リ、リヴァイさん、いつから……」
「お前こそいつまでそうしてんだ。凍えるぞそんな恰好で」
「え?」
すぐに立ち上がろうとしただったが、長い間そうしていたせいで体が思うように動かず、いててとゆっくり立ち上がった。いつの間にかすっかり太陽が壁を越していて、今朝方よりずっと温度は上昇していたが、広場を行き交う人達は上着やストールでしっかりと防寒をしている。そんな中で上着も着ていないは、今頃ようやく体中が冷え切っていることに気付きブルッと体を震わせる。そんなにため息つくように、リヴァイは兵服の上から着ていた黒い厚手の上着を脱ぐとにバサッと放った。
「そんな、大丈夫です私。リヴァイさんが風邪ひいては困ります」
「まだいるのか」
「いえ、もう帰ります。診療所が開くまでに帰らないと」
「診療所?」
そうリヴァイはポケットから懐中時計を取り出すと、に開いて見せた。
細い針がカチカチと動くそれは、診療所が開く時間などとっくに越していた。
「え、えッ? もうこんな時間!?」
「お前いつからいたんだ。朝から来てたなら分かるだろ、上着くらい着て来い。医者が風邪ひいたら笑い草だ」
「あ、はは……」
苦く笑みを零すは、もう昨日の不穏さはもうないように見えた。
「帰るなら俺の馬に乗っていけ」
「え? いえ、遠回りになってしまいますし、自分で帰れます」
「俺は今からそこの議会所で報告会だ。馬も待ってるだけよりマシだろう」
慰霊碑から離れ歩きだすリヴァイをは追いかけ走っていく。
スタスタと淀みない歩調のリヴァイの背中に自由の翼のマーク。
壁外調査を終えたばかりの広場には他にも何人か兵服が行き交っていた。
「あら、リヴァイ兵士長じゃありません?」
人通りの多くなってきた広場で、通り過ぎた二人の婦人がリヴァイを呼びとめた。
花飾りの美しい帽子、柔らかく上質なストール、風に揺れるドレス、その裾から覗く赤いハイヒール。
内地のお嬢さんらしく上品に着飾った婦人達は慰霊碑に向かうんだろう花束を持ちながら、振り返ったリヴァイに華やかな声を上げた。
「お久しぶりだわ、覚えてらっしゃいます?」
「いつもパーティーにいらっしゃらないから、お会いできなくて寂しかったんですのよ」
「失敬」
足を止めたのも束の間、リヴァイはすぐに前を向き直しスタスタと歩き出す。
言葉を失くす婦人方の前で立ち止まったままだったは一礼してリヴァイを追いかけた。
「なぁに、あのうしろの」
「付き人かしら。何なのあのマスク、怖いわ」
通り過ぎた所からヒソヒソと笑い交じりの囁き声が届き、は口のマスクを深くした。
するといつの間にか立ち止まっていたリヴァイに気付かず背中にぶつかってしまい、慌てて飛びのいた。
「す、すみません」
振り返るリヴァイに言うけど、何故か睨んでくるようなリヴァイはが持つ上着を掴み取り、襟を持って宙にバサッと広げるとの肩にかけた。
「ちゃんと着てろ」
掴んだままの上着をぐいと引き寄せ呟いて、リヴァイはの右手を取ると自分の左腕に絡ませ再び歩きだす。その腕に引かれ、慌てふためきながらもついて歩いた。
「リヴァイさん……、あの、駄目です……」
「何がだ」
「何がって……」
広場を通り過ぎる人々がこちらに振り返る。
慰霊碑に向かっていく兵士達までもが指差している。
だけどリヴァイの歩はまるで速度を変えずスタスタと進んでいく。
堂々とした背筋、引き締めた横顔、袖の上からでも感じ取れる硬い腕。
離さなきゃ、離れなきゃと思うけど……、自分から、一寸たりとも離れたくはなかった。
そんな二人の向う先から兵服の二人組が歩いてきた。
はその右側の、背の高い人物がすぐに分かり思わずリヴァイの腕から手を引いた。
その人物はミケ・ザカリアス。リヴァイはもちろん、も面識のある調査兵団の分隊長。
「早いな」
「ああ」
「報告会の前に慰霊碑に立ち寄るなんて、貴方にもそんな一面があるんだね」
リヴァイの前で立ち止まるミケは高い位置から短い言葉を降らせた。
ミケの隣にはミケ程ではないが背の高いすらっとした兵士がいた。
その兵士はリヴァイに涼しげな笑みと言葉をかけると、その背後のに目線を流し、はドキリとして頭を下げた。
「こんにちは、はじめましてだね。検診でも貴方の所はなかなか順番が回ってこないから」
「はじめまして、と申します」
「私はナナバ。よろしく」
手を差し出すナナバには応える。
色彩の薄い瞳で柔らかい視線を注ぐナナバは中性的で、立ち振る舞いにも話し方にも独特の品があり、最初に目を合わせた時は何故かドキリと胸が鳴った。
二人の挨拶をよそに、リヴァイは歩きだしミケ達を通り過ぎる。
肩の上着を押さえながら再度挨拶を残し、はリヴァイを追いかけていった。
「……あの子が例の?」
「ああ」
早い歩調のリヴァイに必死についていくような。
の肩にかかっている上着がリヴァイのものであることももちろん気付いた。
「なるほど、あんな話が出るのも頷けるね。ちょっと信じられなかったけど」
広場の外へ出ると、停めていた馬車に行き着きリヴァイは扉を開ける。
そこにを押し込め、は中からリヴァイに上着を返したが、受け取らずに扉を閉めた。
御者に行き先を伝え、出発する馬車をリヴァイは見送った。
「だからってなんで私が」
「他にいない」
「言ってみただけだよ。あーあ、嫌な役回り」
空にため息を吐き、ナナバは慰霊碑へと歩いていく。
議会所へと歩いていくリヴァイを見やっていたミケもナナバと同じ方へ歩いていった。
馬車が自宅前へと到着すると、は御者の兵士にリヴァイの上着を託した。
自宅には誰もおらず、診療所の方へ行くとウォルトとレイズ、それにガイまでもが固まって背を向けていた。何事かとが近づいていくと、彼らの目線の先ではケール医師が男性患者の背中を治療していた。
「、どこに行ってたんだ」
「慰霊碑に」
「早くに出ていくなら書き置きくらいしていってくれよ」
「ごめんなさい」
その男性は慢性的な腰痛持ちで、頻繁に診療所に来ている患者だった。
ベッドにうつ伏せる男性の背中を揉みほぐしていくケール医師は時折強く捻りを加えその度に男性の呻き声が診療所に広がった。
「本当にすごいよケール先生は。筋肉や骨の仕組みだけじゃない、血流や細胞レベルまで人体を熟知してらっしゃる。薬の調合もかなり進んでいる。副作用の少ない痛み止めの薬剤を教えてもらったよ」
「なに、私が秀でているわけではないさ。北では当然のことだよ」
「すごいな北の医療は。本当、北のセンターと医研が理解しあえればもっと医術は向上するだろうな」
「理解って?」
「治療も処方も目新しいものばかりだ。お前もケール先生が帰る前に教わっておけ」
珍しく興奮しているレイズが、しきりにケールに尊敬の念を述べる。
処置を終え、男性がベッドから起き上がると体を捻り、その軽さに驚いた。
「今日は慰霊祭だったのか?」
「いえ……」
患者が帰った後、ケールは待合室での淹れたお茶を飲む。
「あの、先程レイズが言っていた理解とは?」
「ああ、北のセンターと医研の間にはなかなかに深い溝があってな。それがなくなればもっと医療は進歩するのにという話だよ。学術の進歩は人の力があってこそだ。なのに人がそれを邪魔している」
「医研とですか?」
「何も北の医療が進んでいるわけではないんだ。もちろん医研の研究者達も努力していることだろう。だがそれらがまったく別物として進んでいる。かけ合わされば……何かものすごい化学反応が生まれるかもしれんのにな」
「化学反応……」
ケールの腕にはいくつもの傷跡があった。
医師の腕がどうしたらそんなにも傷になるのか、には不思議だった。
「壁に囲まれているとはいえ、この世界は広い。、君の技術と意欲は素晴らしいものだ。人の痛みを己のことのように受け止められる、医師としての素質も十分だと私は思う」
「そんな……」
「だがな、世界とはそんなものじゃないぞ。お前達若者には、今見えている世界がすべてのように見えるかもしれんが、成長すれば成長しただけ、また世界は変化していく。そこにあるものは変わらないのに、見える世界はまるで違って見える」
「……」
「若者は外へ出て高みを見るべきだ。世界を小さくするな、」
ケールの言葉を聞きながら、はいつかのリヴァイの言葉を思い出していた。
お前達若手は調査兵団の財産だ。目先のことに捉われるな。
今朝まで重く、捉えようのない影が占めていた頭の中に、まるで春の芽のような小さな小さな生まれを感じた。それと同時に、ひた隠しにしていた心の最も内側の部分を、じくじくと針で突き刺すような痛みにも襲われていた。