頭の先から細かな水滴が降り注ぐ。
芽生えの季節は徐々に寒波も和らげてはいるが、冷え切った水を被るにはまだ堪える初春。
けれども早朝から過激な訓練をこなした体は冷水すら弾いて熱気を帯び、シャワーの下でリヴァイは額から顎先へと流れゆく水も厭わず正面の壁を睨み据えていた。何を見ている気はない。あるのは頭の中にこびり付いた情景。
ねとりと纏わりつく喋り口調。チラチラと様子を窺ってくる目。嫌らしくにじり上がる口端、そこから零れてくるせせら笑い。思い返すだけで神経を逆撫でる。強く舌を打ち、リヴァイは栓を捻ると水滴を振り払いながらシャワーから出た。
兵士の多くは今もまだ訓練中であり、この訓練場傍のシャワー室には誰もいない。硬い肌を引っかくように水分を拭い、苛立ち任せにタオルをカゴへ投げつける。先日から治まらない苛立ちは昼でも夜でも不意に襲いかかり、訓練に明け暮れようが酒を煽ろうが晴れてはくれなかった。
棚からシャツを掴み取ると同時に何かが零れ落ちカランと床で音をたてる。見下ろすと、丸い掌大のケースがあった。いつも懐に入れているそのケースには皮膚の再生を促す薬剤が入っている。今ではもう忘れていることが多いが、リヴァイは改めて自分の右手を見下ろした。周囲の肌とはうっすらと色が黒ずみ変化している右手の火傷跡。痛みなどとうに無い。気がつくこともそうそうなくなったその跡を、いまだ案じてせっせと薬を持ってくる、。
リヴァイはその右手で左腕に触れる。僅かだがそこにあったはずの感触を思い出す。
それはまるで、朝霧が晴れていくよう。白雪が掌でじわり溶けるよう。
細長い息を口先から吐き出し、リヴァイはケースを拾うと白いシャツに袖を通した。
シャワー室を出るリヴァイはジャケットを肩にかけ歩いていくと、先の方からふたつの話し声を聞き取った。
「綺麗な金髪だったのに、切っちまうなんて勿体ねぇな」
「そんなこと言ってられませんよ」
「実行部隊じゃなくて他の部署に回して貰えよ。医療班とかよ。その顔に傷でもついたらどうすんだ」
「傷なんて」
歩き続けていくと入口前で話し込む男の兵士と向かい合う金髪の後ろ姿が見えた。
こちらの足音を聞きつけたか、振り返ったその後ろ姿はぺトラだった。
「リヴァイ兵長、お疲れ様です。これから訓練ですか?」
「会議だ」
「あ、そうですか……、あの、少しお伺いしたいことが……」
ぺトラは男性兵士に一礼すると、リヴァイに駆け寄り歩調の早い足についてくる。
「なんだ」
「あ……いえ、その、」
「なんだ」
「すみません……。あの人に掴まると、長くて……その……」
「男くらい自分で追っ払え」
「はい、申し訳ありませんでした……」
「技術班へ行って俺の装備が上がってるか見てこい。出来てたら訓練場に置いておけ。午後に戻る」
「はい」
「あと訓練場にまだオルオがいたら休ませろ」
「了解しました」
廊下を進んでいくリヴァイに敬礼しながら応え、ぺトラは来た道を駆け戻っていった。
リヴァイは歩みを緩めぬまま、にわかに陰った廊下を進んでいく。
角を曲がると突き当たりに目的地である会議室が現れる。だがそれより手前に薄暗い中で壁のランプに手をかけている誰かの影が見えた。ランプに火が灯るとその影はナナバであることが分かり、ナナバもまたリヴァイに気付くとランプの蓋を閉め近づいてくるリヴァイを迎えた。
「お疲れ様、リヴァイ」
「ああ」
「せっかくおいでの所悪いけど、今日は貴方は会議に参加出来ないよ」
ナナバの後ろを早い歩調のまま通り過ぎようとしたリヴァイだったが、聞き捨てならないその言葉に足を止めさせられた。
「何だと?」
「今回は貴方は欠席だと団長からの伝令です」
窓辺のナナバに振り返るも、その穏やかな表情になんら変化はない。
今回の会議は次回壁外調査の第一回作戦会議。前回の遠征で見直しが必要とされた煙弾信号や陣形の修正を考えるもので、最前線で戦う者としてリヴァイがそれに参加出来ないなどと、道理が通らなかった。
ただ考えられることがあるとすれば、先日の報告会での出来事。
前回の調査では行路作りがさほど進まなかった割りに被害が多く、また死亡した兵士の中に貴族出身者がいたために、予想はしていたが憲兵や王政から随分と糾弾され、調査兵団の活動の継続や資金面まで問題視された。そして、ただそれらを聞き耐えるしか術のない調査兵団幹部達を、さらに陥れるように憲兵から発された嘲罵する声。
― 何でも噂では、兵士長のリヴァイは医療団の若い医師にご執心との話だが?
ざわり騒然とした室内で一気にすべての視線がリヴァイへと向けられた。
当然反論しようとしたリヴァイだったがエルヴィンが制止し、本件とは無関係と両断した。
だが誰の耳にも残る話題だけに、傷を与えるには十分な発言だった。
「クソ豚共の下らん揚げ足取りだ」
「もちろん。あんなものはすぐに消える、風疹のようなものだ」
「だったら何だ」
「けどああいった話は事実がどうというものでもない。しばらくの間、あのお嬢さんとの接触は控えなさい」
「あ……?」
元から穏やかではなかったが、リヴァイは一層瞳孔の開いた目に不愉快さを滲ませた。
どんな噂が流れようが、周囲がどんな目で見てこようが、それこそ罵られようが嘲られようがリヴァイはまったく意に介さない。けれども……こんな風に土足で内情に踏み入ろうとする輩は虫唾が走った。
「俺が一度でも巨人を打ち損じたか? 一度でも命令違反を犯したのか」
今ここに巨人でも居れば即斬首してしまいかねない、研ぎ澄まされた脅威。
こうして向かい合っていればずっと小さいはずの体から、溢れんばかりに発される不穏さが冷えた空気をピリッと弾いた。元々報告会以降、その発言の余波がじわじわと表皮を針で差すように蝕み続けていた分、攻撃対象でもない身内から向けられた分、余計に神経を逆立てた。
「けど貴方、一度会議サボってるよね」
「……」
そんな周囲一帯を瓦礫の山にしてしまいそうなリヴァイの迫力を、ナナバはサラリと空風のように吹き流した。二人きりで対峙する機会などまずない二人だったが、リヴァイは元よりナナバにはどこかやり辛さを感じていた。その瞳から注がれる眼差し、纏う雰囲気、話し方、存在感。個人を取り巻く数多のものがナナバという独特なものを形成し、それは誰しもに受け入れられる柔さと深みを持っていながら掴み所のない浮遊感も放つようで、捉え難い存在だったから。
「リヴァイ、貴方は大人だ。私だって貴方の腕を信用しているし、貴方自身も信頼している。けど、彼女はまだ若い。どれだけ有能でも、まだ十代の女の子なんだ。貴方のようにしっかりと己を抑制することも、気持ちを切り替えることも、選択を見定めることもまだ甘い」
リヴァイはナナバを見据えながら、けれどもその脳裏には数日前のを映していた。バラバラの遺体を見下ろし酷く取り乱す姿。慰霊碑の前で延々、リヴァイがすぐ傍にいることにも気付かず、祈りすら忘れて座り続けていた姿。
「それが悪いわけじゃない。毎年入ってくる新兵達だってそう。彼らはまだ、感情で動き学んでくれた方がいい。けどここはそういう場所じゃない。無理にでも大人に引っ張り上げないと、成長するより前に命を落としてしまえる場所でしょう」
「……」
「大人の貴方が付き合い方を考えてあげないと。じゃないと、貴方と彼女じゃ、切られるのは確実に彼女の方なんだよ」
「それも団長命令か」
言葉尻に被さるほど突き刺すリヴァイの声。相容れない眼光。
まっすぐ見下ろしていた目を閉じて、ナナバはふぅと息を通した。
「ヤレヤレ……彼女の方が大人だね。あの子は、とても聞き分けが良かったよ」
「・・・あいつに何をした」
「少し話しただけだよ、さっきね」
じわりと睨み据えるも、ナナバは肩をすくめまともに向き合わない。
そんなナナバを見限り、リヴァイは会議室に背を向けると、早い歩調で歩いていった。角を曲がると向かいから現れたハンジとぶつかりそうになり、それも構わずに去っていった。
「どうしたの、リヴァイがいつもの百倍くらい殺気放ってたけど。ケンカ? なわけないか」
「なわけないよ。まったく……ヤな役回りだよ。馬に蹴られて死んじまえってね」
「は?」
後ろを気にしながらハンジが寄ってくると、ナナバは先程までの空気を一掃する大きなため息を吐き出し嘆いた。
「だけど……今初めてあの朴念仁が人らしく見えたよ。彼もあんな感情を持っているんだな。とてもあの子と何かを分かち合うようには見えなかったけど。私もまだまだか」
「あの子? ああ、? なに、そんな話をしてたの? リヴァイがいつもの百倍目を吊り上げてたわけだ。彼女の話をすると途端に機嫌が悪くなるだろ。一層壁を厚くしてくる。まるで、誰にも触れられたくない聖域を守ってるみたいだよね」
「聖域……なるほど」
ハンジが会議室へ歩き出すと、ナナバも共に歩き出す。
「巨人の話もしない。兵団の話もしない。きっと先々の話もまったくしていないだろう。リヴァイは、極力あの子をここから遠ざけたいんだと思うよ。内地のお嬢さんらしく、壁外のことなんて何も知らずに暮らしてて欲しいのさ」
「なら何故彼女を医療団に?」
「リヴァイが引き入れたわけじゃないさ。でもあの子がここに来るようになった当初からリヴァイはやけにあの子を気にしてたね、どんな縁があるのか知らないけど。少し前までのリヴァイは、あの子を叩き上げているようだった。強くなきゃここでは生きていけないし、あの子自身にも背負うものがあるから。でも最近は……本人も気づいているのかいないのか」
扉に行き着き、ハンジは取っ手に手をかける。
だけど開けずに眼鏡の奥でふと吹き出し笑う。
「皮肉だよな。こんな絶望だらけの世界でも、闇しかないような生き方をしていても、光というものは必ず現れるんだ」
「そんな世界だから、小さな光が眩しく見えてるだけじゃないの」
「かもね。けど、互いに厄介なものを抱えた同士がわざわざ出会ったんだ。普通の幸せなんて、もう用意されていないのさ。闇か光か、終わりか永遠か。見ものだよ。まるで兵団の明暗すら分かつような二人だ」
「なんだ。ハンジの方がずっと理解してるじゃない。ならハンジが請け負ってくれればよかったのに」
「ははは、無理だよ。私じゃリヴァイは話も聞かないだろう。最低限でも話を聞き入れたのはナナバだからだよ。良い人選だ、さすがエルヴィン」
「そこまで分かってるの? じゃあ団長は、何故こんな事を命じたんだと思う?」
「そりゃ当然、兵団の為の一語に尽きるだろうけど。エルヴィンもリヴァイの変異を感じ取ったんじゃないのかな。彼女の存在がリヴァイにとって利か害か。引いては兵団にとっての損か益か、それを見極めたかったのかもね」
「ハンジはどっちだと?」
「どうかな。ただやっぱり、どっちだろうと苦しい道なんだ。だとしたら、彼らは好転する方を選ぶ、それだけの知力はあるんじゃないかな。あの子もね、あんな可弱いナリして意外に頑固者だよ。簡単に吹き消せる灯火みたいなのに、その実は鉄みたいに叩けば叩く程に強くなる」
「それは……分かったけど」
「それでいてあの純潔さ。若さとはいえ羨ましいくらいさ。まぁ、そもそもあのドス黒い地下の底みたいな男を溶かすなんて、極上の白じゃなきゃ無理さ」
「極上の白……か。確かにね」
ガチャリと開いた扉の向こうから滲む明かりを目に受けながら、ナナバは雲間から射す光を思い出していた。空を覆い隠していた雲が蠢いて、所どころに途切れた隙間から降り注いだ一筋の光。
まるで目覚めのような、何かの始まりのような、希望のような。
ナナバは思い返した。それは未来を創造するようだった、黒い瞳に射した一筋の光。
それはまだ霧が晴れずにいた今朝のこと。
すでに人が集まりだしている訓練場の脇の道筋を進んでいくナナバは、本部入口の門前に出来ている人だかりに近付いていった。
門前に用意された荷馬車に何人かの兵士達が総出で一人の男を運び込んでいる。前回の壁外調査で大怪我を負い、何とか壁内まで戻ってきたがあまりの出血の多さにその心臓は一度止まり、懸命の処置により蘇生し命を繋ぎ留めたが以来一度も目を覚まさない一人の兵士が、今日故郷へ返されることが決定し家族が引き取りにやってきた。
療養棟の兵士達が見守る前で、早朝にも関わらず兵団を訪れていたは家族に出来る限りの処方を託し、重い雲が波打つ空の下を進んでいく荷馬車をいつまでも見ていた。
「悔しそうだね」
不意にかけられた声では驚き隣を見上げた。
他の兵士達が療養棟へと戻っていく後ろでナナバもまた、荷馬車を最後まで見送った。
「ヴァルターとは同期でね。もう何年も同じ釜の飯を食った仲だ」
「……そう、でしたか。申し訳ありません」
「何故君が謝る?」
黒髪を布で覆いマスクをつけている下で、がどんな心境でどんな表情をしているかは掴み辛い。でも黒い睫毛を伏せている顔は今日の空より曇って見えた。
「もっと早く処置が、もっと早く蘇生ができていればあるいは……。いえ、もっと多く医師を集められていれば、」
「ヴァルターが、巨人を討ち損じなければ」
「え……?」
「壁外に行っていなければ。調査兵になど志願していなければ。兵士になどなっていなければ。彼は、今も元気でやっていたかもしれないね。けど、ヴァルターはそんな男じゃないんだ。彼は自分の意思でこの道を選び、自分の足で壁外へ駆け出て、その結果をきちんと自分で背負った。ああしていれば、こうしていたらなんてことは、ここじゃ言い出したら切りが無い」
「はい……すみません……」
風が強く吹いている空中は厚い雲も流れが速く、光が射そうとしては陰り、白く光ろうとしては灰に飲まれを繰り返した。春へと向かおうとするには余りに頼りない空模様。
「けど、あの人達には希望が残ったよ」
「あの人達……?」
「ここでは結果なんて惨めなものばかりだけど、あの人達には違った。ヴァルターが死んでいたらあの人達は遺族だが、今はちゃんと家族だ。その違いは大きい。その救いをくれたのは君だよ。貴方のおかげであの人達は家族でいられる。それは私達にとっても幸せなことだ」
誰もが重く沈んで見送ったが、ナナバの瞳は光の下を進む馬車をまっすぐ淀みなく見ていた。
見えなくなるまで見守り、己の胸に強く刺す。今再び、決意の槍。
先日、初めて対面したナナバは兵士……それも調査兵にしてはあまり強い覇気を感じない、柔らかな人だと感じただけど、やはりこの人も確固たる意志を持った調査兵だと思い直した。
「なに?」
「い、いえ……とてもお綺麗な方だなと」
「綺麗? はは、君も可愛らしいじゃない」
「いいえ、私など……」
ナナバに言われ、けれどもは謙遜でも照れるでもなく俯き、光を受けていた瞳を伏せた。
「そう自分を卑下するものじゃないよ。褒められたら素直に受け止めればいい。君を愛する人達に失礼だ」
「失礼……?」
「君が君自身を否定するということは、君を愛する人達の想いをも否定するということ。先日の、君を連れていたリヴァイは、堂々としていたよ」
ナナバの口から出たリヴァイの名前にはドキリと胸を打つ。
目を移ろわせまた俯くをナナバは静かに見下ろした。
「ねぇ、君はとても頑張ってくれているけど、それは人類の為? それとも、リヴァイの為?」
「え……」
風がざっと吹き抜けるとの白衣もナナバの短い髪も揺れた。
人類の為。リヴァイの為。……言葉の重みが空から、ナナバの真摯な目から圧迫してくるよう。
「私達調査兵団は、この世界で人類が生き残るために闘っている。けど、その人類の中には自分達は含まれないことを分かっている。もちろんリヴァイもね」
「そんな……」
「君は何故ここに居る? 君にとっても、ここは苦しい場所でしょう。苦しみもがく兵士を見て、深手を負った兵士を見て、バラバラになった遺体を見て、嘆く遺族を見て……それでも君がここに居続ける理由は何? たとえば……リヴァイが壁外から戻らないとしても、君は闘い続けることが出来る?」
「……」
戻らない。リヴァイが。
「わたし、は……」
生き方をくれた。飛び方を教えてくれた。空を見せてくれた。
必死に羽をはばたかせ、もっと高くもっと高く……自由に空を飛び回るあの人のように。
価値を身につけろ、強くなれ。そうしていれば、光の中に居続けることが出来た。
貴方の傍に居続けることが。
「私には……人類の為などと、大それたことは言えません……」
自由な世界へと放ってくれた。
貴方の為に。貴方の役に立とうと。それを生きる意味にしようと。
目が眩むほど強く照らしてくれる光を、失いたくなくて、しがみついて……
「……」
ごおっと渦巻く空から押し潰すような風が地面を叩きつける。
まるで世界を押し潰そうとするような。
「違うんです……」
「違う?」
「私は……皆さんとは違うんです」
俯いていたは、足元に続く荷馬車の轍を見た。
仲間と共に歩み、共に闘い、共に笑い合い、共に生きる兵士達。
日々鍛え、闘い、大声で笑い、強く生きる彼らは、果てのない先の……あるかも分からないものを求めている。
「死を称賛されたって、誇りが残ったって……残された人は何も嬉しくありません。人類の為だなんて、世界の為だなんて、それがなんだって言うの……」
「……」
「その人を失ったら終わりなんです。死んでしまったら、言葉も、思いも届かない。花が咲いたって、晴れていたって、巨人が居なくなったって、世界が救われたって……その人を失ったら、もう光はない。空も見えない」
心臓を捧げる―。誰の胸にも刺さるその誓約に……共鳴は出来なかった。
たとえ相容れなくても。行く先が分かれようとも。
私は受け入れない。そんなの許せない。誰も失いたくない。誰の悲しみもいらない。
「どんな怪我にも効く薬なんてないんです。どんな人にでも届く言葉もない。だから私は医者になりたいんです。死には抗えないにしても……治せる人は治したい。助けられる人は助けたい。調査兵団の兵士だろうと、死んでいい筈なんてない。貴方がたが使命に命をも捧げる覚悟なら、私が引きとめます。誰にも死んで欲しくなんてない。誰も、一人も、死んで欲しくないっ……」
ずんと重みを増す大気を跳ね返すように……の瞳に籠った意気が高い空まで膨れ上がった。
その感情ごと隠していたマスクの中から中から雷鳴のように弾け、溢れた涙が大地に降り落ちた。
やがてハッと気がついたは自分が何を言ったかも分からないまま目を上げ隣のナナバに振り向いた。
ナナバの淀みない瞳は変わらずそこにあり、はまた弱くマスクを押さえたけど、そんなの前でナナバはふとひとつ息を吐き出した。
「ごめんね。私は、思い違いをしていたみたいだ」
「え……?」
「エルヴィンは、てっきり君をリヴァイから遠ざけたいのかと思っていたけど……違ったのかな。人の特性を見抜けない人でもないしなぁ」
「え……エルヴィン、団長……?」
涙に気付きマスクを押さえたの隣で、ナナバはこれまでの雰囲気をガラリと崩して細長い声を漏らしながら表情を歪めた。そして、何が何やら不思議そうな目を向けるをひたと見下ろすと、頭を隠す布の上からポンポンと撫ぜた。
「ありがとう。」
「え……?」
早く流れる雲間から白い光が降り、濡れた瞳に射しこんでキラキラと光った。
いまだナナバの言っている意味を汲み取れないでいるの残り涙を拭い、ナナバはふわり柔らかく笑んで歩いていった。
掴みどころのない、不思議な人だと思った。優しく柔らかいのに、冷やかにも強靭にも見える不思議な人。
はマスクを外して息を吐き出し、動揺する心を落ちつけ空を見た。
覆い尽くす暗雲。だけど所どころの雲間から光が滲み、差すように降りている。
そんな空の下でも変わらず訓練を続ける兵士達。広い訓練場を覆い尽くす程の兵士達が、もう二度と同じ過ちは繰り返さぬように、失ったスペースを埋め、作戦を練り直す。次の闘いに備え身を奮い立たせる。
きっとこのどこかにいるリヴァイも、ここの誰もと同じように。
療養棟に戻ったはまっすぐ廊下を歩いた。
怪我で動けないのに次の遠征を語る兵士達。治療の痛みに歯を食いしばりながら一日も早い復帰を目指す兵士達。分かち合い、笑い合い、変わらずいつも通り騒々しい療養棟を一部屋一部屋、一人一人、見つめながら奥へと歩いていく。
「、今日はありがとうな。わざわざ」
「いいえ」
そうして奥の部屋へと行き着くと、医療班の班長ビットマンの元へと寄っていった。
「先生、私、しばらく壁外調査の救援から外れさせていただきます」
「なんだって?」
ビットマンはようやく落ち着き飲もうとしたお茶を零し立ち上がる。
頭の中はまだ揺らいでいた。瞳も、指先も、心も。
だけど、心のもっともっと奥には、怯えは無かった。
引っ張られるように、魂が先へ行こうとしていた。強く、迷わず、まっすぐに。
目が覚めるように世界が光を帯びた。頭の中にも心の中にも風が吹き抜けていた。
心臓が叫んでいた。強くなれ。強くなれ。強くなれ。
「私、北へ行ってきます」
広がる空が待っていた。
小さな瞳が果てなき未来を見つめ出す、その瞬間を。