雲が途切れ隙間から青が見えだした空の下、午前の訓練を終えた兵士達が汗を拭いながら棟内に入ると、突然向かいから現れた人影におっと、と避け道を空けた。つかつかと足早に外へ出ていく後ろ姿は間違いなくリヴァイであったが、挨拶をする間もなくすぐに見えなくなった。

 今日は早くから訓練場に出ていたリヴァイだったが、の姿は一度も見ていなかった。療養棟は訓練場の向かいにあるとはいえ、常に出入りを見ているわけでは無い。だが今日は再起不能となった兵士が一人脱退する日でもあったし、が本部を訪れていたとしてもおかしくないとリヴァイは思った。
 療養棟へと突き進みながら、ナナバの言葉が頭を回っていた。
 先日からの不穏さも手伝って思わず言い返したが、その言葉のどこにも誤りはない。だから尚更残った。

 ― 貴方と彼女じゃ、切られるのは確実に彼女の方なんだよ

 じわり眉間を寄せ、反吐を吐き出したくなった。
 でもそれは誰に向かうものでもなく、吐くに至らなかった。

 訓練場を囲む柵の脇を進み、療養棟の入口を駆け上がると奥へ突き進んだ。
 療養室を行き過ぎながらリヴァイは中に視線を巡らせた。手負いの兵士達が大勢集まっているがそのどこにもの姿はない。が来ていれば尚更和やかな空気と笑い声が響いてくるだろうが、今は一つも届いてこなかった。

? ああ、ヴァルターの見送りに来ていたが、もう帰ったぞ」
「そうか」

 奥の班員室も見渡したが、そこにも姿はない。
 普段、兵士達の治療に訪れた時は夕暮れまでいるはずなのに。
 やはりナナバと何かやり合ったか。そう案じてリヴァイは踵を返した

「待てリヴァイ、これを預かっているぞ」

 呼び止められ、リヴァイはビットマンが差し出す白いシャツに視を落とした。
 以前、に託したボタンの取れたシャツ。胸元のボタンはきちんと白い糸で留められている。だが、受け取ってリヴァイは気付いた。白糸で止められたボタンの裏側に巻きついていた、赤い糸。

「それにしてもがいなくなるのは痛いな。それも北のセンターとは」
「いなくなる?」
「北の治験センターへ行って学ぶと……。なんだ、お前まで聞いていないのか?」
「いつだ」
「まだ細かなことは、ウォルトと相談して決めると言っていたが。一から勉強し直すと言っていたから当分は帰らない様子だったぞ。ここの兵達にも私から伝えてくれと言って出ていってしまったんだ。外の兵達も騒いでただろう?」
「……」
「それにしても北のセンターとは、医研でも学べるだろうに。北は良くない噂もあるから、薦められんと言ったんだが……」

 心配を零すビットマンの前から歩き出しリヴァイは廊下に出た。来た時には気付かなかったが、廊下や療養室にいる兵達の様子が普段とは違い、口々に心配や嘆き、中には直接言っていけよと怒り交じりの声も聞こえた。
 救援から外れる。北に行くなど。滅多と二人で会う機会が無いにしても、欠片も知り得なかったことにリヴァイは苛立ちを隠せなかった。逸る足取りで外に出たリヴァイは辺りを見やるが、やはりの姿はどこにも見えない。

「リヴァイ兵長、会議中では?」

 入口の門に向かって歩き出すと、訓練場の柵の向こうからぺトラが声を上げ、その奥にいたオルオもリヴァイを見つけ駆け寄ってきた。

「兵長、立体機動出来ていました」
「兵長! 訓練つけてください!」
「また、アンタは休めって言ってるでしょ!」
「もう大丈夫だっつってんだろ! 頼みます兵長!」

 リヴァイが命じた立体機動装置の入ったケースを抱えるぺトラ。
 以前は肩下まであったぺトラの金色の髪は、立体機動に不向きだからと短く切ってしまった。それでも鼻筋の通った端正な顔立ちと、それを際立たせる長い睫毛、白い肌に映える青い瞳は兵士としては不要のものであっても、太陽の光の下でそれらはさらに輝きを増すよう。

「兵長……?」

 ジッと見てくるリヴァイの目に気付き、ぺトラはドキリとした。
 けれどもリヴァイは二人から目を離すと門へと歩いていった。

「なんだか兵長……変じゃなかった?」
「どこが?」
「何か、思いつめるっていうか、焦ってたっていうか」
「焦る? あの人が何に焦るってんだよ」

 静かに見据える目も、いつも足早な歩調も、何ら普段と変わらない。
 門に行き着いたリヴァイは門前に立つ兵に問いただした。

ですか? 10分……いや20分ほど前に出ていきましたが」

 それならすぐに追いつけるだろうとリヴァイは馬を出そうとしたが、門から外へと続く道を見て足を止めた。兵団を行き来する馬車の轍が道の果てへと続いている。その先に同じように空の雲が吹き流れていく。風が強く吹いていた。

「馬車を出してくれ」

 ただの一本道が何重もの別れ道のように感じた。
 道なき道へ、続いているように見えた。


 背中から押されるような強い風を感じながら、は小さな歩幅で乾いた大地を歩いていた。本部を後にして数十分、一歩一歩踏み出すごとに、リヴァイからも離れて行っているような気になって、不意に悲しみに襲われては涙を降らせていた。近づきたい、傍にいたいと思う人から、自分から離れようとしている。どうしようもなく悲しかった。

 びゅ、と強く吹く風に肩から提げたカバンごと体を持っていかれそうになる。
 空も風も大地も、すべてが辛く当たるようだった。
 ただ先へと続く広い道を、一人で泣きながら歩いているなんてまるで子ども。
 昔、どうしようもない寂しさと不安に駆られ、夜ごと家中を歩き回った幼い頃のまま。

 ひたひたと流れ落ちる涙を拭い、は息をなだめるように服の中のペンダントに手を当てた。いつもここにあるものなのに、なんだか久しぶりにそれに触れたような気になった。
 すると背後から大きくガラガラと近づいてくる馬車の音を聞きつけ、は道の脇に寄り振り向いた。すぐ傍まで来ていた馬車はのすぐ目の前で止まり、はドキリと胸を鳴らした。頭によぎらせた通り……開いた扉の中からリヴァイが姿を見せた。

「乗れ」
「……」

 呟いた名前は小さすぎてマスクの中で消えた。
 怯える心と乾かない瞳が馬車の中から見下ろすリヴァイから逃げた。
 動かないを再び呼び寄せ、は馬車に乗り込む。
 進み出した馬車の中で向かいに座るリヴァイに目を合わせられないまま、弱く震える冷えた手を握り締めた。

「俺に何か言うことがあるんじゃないのか」

 ガタガタと振動する中で、リヴァイの声が普段以上に心を怯えさせた。
 マスクの中で口を開こうとして、でも言葉が選べず、声すら迷って、口唇を噛み締める。


「……」

 何故こんなにも怯えているのか。
 この低い声も、呼ぶ名前も、他の何よりも心地よく幸福を与えてくれていたのに。

「私……しばらく、北の治験センターへ、行くことにしました……」
「……」
「北の医術は、ここで学べることとはまた、違って、きっと調査兵団のお力に……。リヴァイさんもおっしゃっていたように、私も……目先のことに捉われずに、もっと、学ぶべきだと……」
「自分で決めたのか」

 リヴァイの間髪のない言葉にはドキリと胸を響かせた。
 その声色にも発する空気にも感じていたが、その眼はもっとを怯えさせた。

「はい……」
「本当か? お前はマスクをつけてると簡単に嘘つきやがるからな」
「嘘、なんて」
「ならマスクを取れ」

 まるで睨み上げるようなそんな目を、は知らない。
 冷えた指先をマスクに寄せ、はそれを取ろうとしたが……出来ない。

「何を躊躇う。何に引け目を感じてる。俺にか」
「そんな……」
「いつまでも血なんかに捉われやがって。人にはどうとでも言う癖に、自分はすぐマスクの中に隠れやがる」
「……」

 言い淀むに手を伸ばすリヴァイは、掴み寄せるとそのマスクを引き剥がした。

「言いたいことがあるなら口で言え。俺はお前を腫れ物に触れるようになんて扱ってやらねぇぞ」

 髪を覆う布も取り払いマスクと共に放ると、そのままのが姿を見せる。
 以前切った時から少し伸びた黒髪、浅い目鼻立ちに黒い睫毛、黄白色の肌。他とは一線を画す血筋。
 守るようでも隔たりのようでもあるそれがなくなり、すぐ目の前からまっすぐ見てくるリヴァイを見返すことも出来ず、の怯えた黒い瞳はその強い眼から移ろい逃げ、リヴァイは腕を掴む手をぎゅと強めた。

「目が青けりゃ満足か。髪が色づいてりゃ満足か。俺がそういう女を連れてりゃお前は満足なのか」
「や……」
「言ってみろ、お前の言う通りにしてやる。お前が望むならその通りにしてやる」

 ぎり、と強く握り締めるリヴァイの手の力に痛みを走らせながらも、そんなことよりも圧迫してくる言葉が痛く苦しく追い詰めて、は涙を降らせながら必死に首を振った。

「嫌です……、嫌です、他の人なんて嫌です……」
「……」
「リヴァイさんが好きです……、すきです……」

 流れ落ちる黒髪の下でポタリポタリ膝を濡らす涙がいくつも降り落ちる。
 俯き泣きじゃくるをすぐ鼻先に見ながら、リヴァイは掴む手を緩めた。

「……足りねぇよ」

 それでもリヴァイの追い詰める目は引くことを知らず、俯くの顔を掴み上げると涙を降り落とす口唇に強く口を押しつけた。痛みと同時に驚きは咄嗟に口を引くも、口唇の隙間から侵入する舌はこれまでのいつのものよりもを追い詰めた。
 腕を掴んでいた手が今度は首を掴み、その手は肌を撫で下ろしてシャツの襟元に行き着くと強い力のままにブツリとボタンを引き千切る。小さなボタンがカツンと足元に転がり、それよりも噛みつくリヴァイの口付けが別人のようで、心臓に喰いつきそうな低い声よりも、まるで敵意を向けるようだった眼光よりも、その強すぎる身体を犯す手にビクリ恐怖を走らせた。

「や、リヴァイさっ……」
「今さらビビったなんて言わせねぇぞ。俺が好きなんだろ、想いを受け止めろとはこういうことだ。俺はお前のママゴトに付き合う気なんかない」

 怯え逃げるを再び掴み寄せ、リヴァイは溺れた黒い瞳を自分に向けさせる。

「キスしろ」
「……」
「出来ねぇのか。その程度か」

 浅く引きつく呼吸を鼻先に、リヴァイが強要する。
 移ろう目に涙を込み上げらせるは、それを呼吸と共に止めて、リヴァイの肩に震える手を伸ばした。
 淀みながら少しずつリヴァイの口先へ近づいていく。……けれども触れる寸前で口唇を噛み締めるは、リヴァイの肩に頭を落とし泣いた。

「怖いんです……」
「……」
「リヴァイさんが……好きで……、いっぱいになってしまう、自分がこわい……」

 涙を落とし続けるを胸に、リヴァイはささくれだった気が沈んでいくのを感じた。
 震える細い背中に手を当て、彼女はまだ若いと言ったナナバの言葉を蘇らせた。
 あの日、バラバラの遺体を前に喪失していたは怯えていたのだ。
 目の前の人を見ていながら、何も見ていなかった自分の盲目さに。

「行くのか」

 涙に飲まれ、震える弱い体はそれでも……ひとつ頷く。

「そうか……」

 目を閉じ、怯えさせただろう小さな心を悼んだ。
 優しさの仕方など分からなかった。
 叩けば叩くほどに跳ね返ってくる兵士とは違うというのに。
 それでも、心の奥底に隠しこんだものを、隠したままにしておくのも感触が悪かった。

 リヴァイはもう一度、の体を起こし濡れた頬に掌を当てる。
 その手の力と温度はこれまでにきちんと感じられていたもので、は目を開けた。

「行って来い。俺もガキを抱く気にはならん。せいぜい良い女になって戻って来い」

 涙を引きずるは、黒い瞳を少しずつリヴァイに向けていく。
 間近で見るリヴァイの目はもう鋭くも痛くもなく、呼吸が緩やかに体内を落ちていくのを感じた。

「離れてても、私のこと、忘れないでいてくれますか……?」
「覚えてりゃいいのか」

 いまだ怯えているような心に、リヴァイはふと息を吐く。

「……また、好きになってください……」

 ぎゅと袖を握り締めて、熱く腫れあがった頬がまた涙の線を引く。
 こんなに痛めつけて怯えさせて、心の奥から引きずり出したのに。
 それでもこの弱い口先から出てくる言葉は、まだ。

「ああ。ただし、キスはしろ」

 リヴァイがぐいと拭う涙を飲みこんで、は目を閉じ今度は穏やかに口唇を寄せることが出来た。
 僅か切っ先が触れるような怯えたキスを抱き寄せ、今度は優しく柔らかく、しっかりと結びつけた。

 ガタガタと揺れる馬車の振動も、光を隠す暗雲も、雲間から覗く青も。
 この世の全部を忘れ去るくらいに、長い長いキスだった。
 与えられた時の長さは分からない。その中のほんの僅かな瞬間でしかなかっただろう。
 遠く雲が流れていく空の広さは分からない。その中のほんの一角でしかなかっただろう。
 それでもこの壁の中、心の中、すべてを満たしきる、永い永いキスだった。


 頑丈に守られた最も内側の壁の中にも暖かな風が吹き込み花々が咲き乱れ出した頃。
 大きなカバンを持ったがウォルト邸から出立しようとしていた。

「じゃあいってきます」
「本当に気をつけろよ、着いたらすぐ手紙書けよ」
「うん」
「しっかりな。ケールによろしく」
「はい」

 玄関先でウォルトと抱き合い、最後までしきりに心配するレイズとも交わした。
 医研や調査兵団にも正式な挨拶を済ませ、今日は北の治験センターへと出発する。

「何やってるんだガイは」
「時間はちゃんと伝えたんだがな」

 ガイも勉強の為、と共に北へ行くことを決めた。最初はレイズが一緒に行くと言いだしたが、それでは診療所も医療団も回らなくなってしまうためガイが同行することで落ちついた。なのにレイズが後方を見やるも、ガイの姿がまだ見えない。

 しばらく待って、ようやくガイが馬車を走らせ駆けつけた。
 荷物を積み込んでも乗り込み、名残を惜しんでしまう前に出発した。

「遅れて悪かった、兵団に寄ってたもんだからさ」
「調査兵団?」
「ああ。リヴァイ兵長に頼まれてさ」
「リヴァイさんに・・・?」

 前で手綱を引くガイが片手で紙包みを後ろのに寄こす。
 それを受け取り、は包み紙を開いた。

「……」
「風邪ひくなよってさ」

 開いた包み紙の中には白いストールがあった。
 ふわふわと柔らかいそれは体一つ包んでしまう程大きく、雪にも溶けてしまいそうな純白。

「リヴァイさんみたい……」

 ふと笑んで、細い指で柔らかく撫でた。
 揺れる馬車の前方でガイが「なに?」と聞いたが、はそれに答えられなかった。
 柔らかなそれを口に寄せるけど、濡れてしまうから、首元に寄せてペンダントと一緒に抱きしめた。
 こんな時から泣いていてはと、空を見上げぐいと拭った。
 ようやく春が訪れた世界の中心から、向かう先はまだ雪に埋もれた冷えた大地だけど、この掌の中、心の中、春風は心地よく吹いた。

 青々と吹き抜ける空は分け隔てなく広がっていた。
 ただ一つ昇る太陽が、夜ごと世界を浄化する月が、内地を包む壁が、吹き流れる春風が。
 強くなれ、強くなれ、強くなれ。
 離れていく距離をそれでもしっかりと紡いでくれているようだった。

 空を見れば、風を感じれば、目を瞑れば、遠く離れていても傍にいられる。
 寂しくても、悲しみに負けても、心がじくじく痛んでも。強くあろう。
 貴方の瞼の裏で私が、いつも笑顔のままでいられるように。
 

未知らぬ夜に

風 紡 ぎ