青い空に白い雲がゆったりと流れていく長閑さを切り裂く黒いワイヤが、空を横切り廃屋の壁に突き刺さる。風車の屋根をも優に超す巨体は地響きを鳴らしながら退廃した街中を闊歩するが、目の前を飛び交う餌の匂いにつられ駆け出すと、背後に現れた黒い影に気付く間もなくうなじを削がれ、鮮血を撒き散らしながら大地にずしんとその巨体を横たえた。
「前方二体、三班が応戦中!」
「十時の方向からも二体接近、三班に知らせてきます!」
「必要ない」
「えっ、兵長!?」
数体の巨人の群れに囲まれ応戦する調査兵団の兵士達は、緻密に組まれた作戦を駆使して巨人に挑む。的確に急所を狙い動作を鈍らせ確実にうなじを削ぎ落す。これまでに何度も挑み、失敗し、それでも繰り返し挑み続け勝算を確立してきた巨人殺しのエキスパート達。……だがそんな彼らでさえも呆然と立ち尽くしてしまう、人知を超えた才覚。5メートル級はあろうかと思われた巨人も交差する二つの影に一瞬にして倒された。
「見てよリヴァイ、この子頭に花をつけているよ。きっと南側の森から来たんだね」
倒れた巨人の頭に着地したハンジは、巨人の髪に絡まった黄色い小花を手に取る。
しかし話しかけたリヴァイはつい今同じようにここに着地したはずなのに、背後にはすでにおらず、接近してきていた巨人に向かって飛び立っていた。そのスピードたるや、伝達も作戦も追い付かないほど。
「ヤレヤレ……今回は捕獲が目的だって言ってるのに、あの荒くれ者は」
居住する人間がいなくなり荒廃していく街は、ワイヤを一本突き刺すだけでも壁は脆く崩れ去る。そのせいでバランスを崩し自滅してしまう兵も少なくない。そんな悪条件の中でも、ただ一つの影だけは間違いなく、速度を落とすことなく、削いだ傷口から吹き出す返り血を浴びる暇もなく、巨人を倒していく。ハンジが腰に手を突き溜息を吐くと同時に三度目の地鳴りが響いた。
「リヴァーイ! だから捕獲だってば、ホ・カ・ク!」
声を上げるも、遠くのリヴァイはついと無視して別の巨人の方へとワイヤを飛ばした。
「また、リヴァイ兵長一人で片づけてしまいましたね」
「まったく、アレじゃ新兵の手本にもなりゃしない」
「見習おうにも無理ですからね、あのスピードは」
誰もがただ一体の巨人と相対するだけで死を過ぎらせるというのに、リヴァイの通り過ぎた後には何体もの巨体が屍と化している。その光景を屋根の上から見下ろす多くの新兵達は、憧れの目を向ける者もいれば、まるで巨人を見るような目をしている者もいる。ハンジの隣でモブリットはパンパンと手を叩き、呆然とする新兵達を馬に乗るよう指示した。
「ハンジ分隊長、信煙弾を確認しました。帰還命令です」
「もーまた捕獲失敗じゃないか! この前の実証実験の続きしたいのにいい!」
「どうかしたんでしょうか、リヴァイ兵長。今日は一段と殺伐としている気が……」
「知らないよ、何かむしゃくしゃしてたんじゃないの。あの子達で憂さ晴らししないでもらいたいね!」
巨人の頭の上からハンジはモブリットと共に飛び降り馬に乗る。
遠くの空に残っている信煙弾が風に流され薄まっていくのを見上げ、ハンジはふと、手に持ったままだった黄色い小花に気付いた。
「そうか……もう春なんだね」
「ああ、そうですね、風が暖かいです」
「もう一年か……早いものだな」
「え?」
天高く吹き抜ける水色の空は冷たい空気を溶かして、新しい季節を大地に下ろす。
さわさわと緑がなびき、赤黄白の花々が芽吹き、虫が土から顔を出す。
穏やかな風が吹く。雪解け水が川の水量を増やす。暖かな日差しが荒野を照らす。
また春が来ていた。
壁外調査を終え門前で医療団による治療が始まり、鎮静したところで部隊は本部へと帰還した。元ウォール・マリア内地を南側へ延ばす行路はこの一年で随分と進み、犠牲がまったくないことはないが数が抑えられるようになり、調査兵団の活動は地道にではあるが確実に前へと進んでいた。
事後会議を終えたリヴァイは療養棟へと向かい死亡者と怪我人を確認する。
一年の間に兵の数は大きく減り、少しの新兵を加えまた面子は変わっていた。
「花があるとを思い出すよなぁ」
「あいつはいつも花持ってきてくれたもんな」
「誰です? って」
「そうか、お前はしらねーのか、」
古くからここで共に過ごしてきた者。新参の者。
一年という月日で変わるもの。変わらないもの。誰しもに同じだけ訪れている、一年という時間。
「お疲れ様です、リヴァイさん」
「ああ」
「怪我はありませんか? 随分服を汚していますけど」
「俺の血じゃない」
療養室を通り過ぎるリヴァイは背後から声をかけられ、振り返るとレイズを視界に入れた。この一年、変わらず医療団を先導し兵団を支えてきたレイズは柔らかな物腰の中にも確かな自信を覗かせ、多くの兵士からも信頼を集める立派な医師へと成長していた。
「医療団も随分数が増えたな」
「はい。が北のセンターでも、地方の医師にも医療団のことを広めていますから。境無き医療と言っても、口でいうほど容易じゃありませんし、とにかく人手が足りませんから、まずは多くの人に知ってもらわないと」
「あいつは、ちゃんとやってるんだな」
「はい、先日も手紙が。すみません、いまだに……リヴァイさんには手紙を書けないみたいで」
「お前に来ているならいい」
が北へ旅立って一年の月日が経っていたが、いまだに一度も、リヴァイに手紙が届いたことがない。師であるウォルトやレイズには近況を報告する手紙が度々届いているのに、その文末に「リヴァイさんにもよろしくお伝えください」と一筆したためられているだけで、その言葉が直接リヴァイに届くことはなかった。
「あ、でも、……」
「なんだ」
「あ……いえ」
言いかけて言葉を濁し、レイズはそのまま噤んでしまう。
何か言いたげではあるが、口をこもらせ、リヴァイさんも元気だと伝えておきますと去っていった。
当然その挙動が気にはなったが、問い詰める程ではない。
そもそも本人が報せないのでは、今のの様子など、自分の知る由でもない。
レイズに届く手紙から、の北での生活はかなりの苦労が窺えた。
内地の上流家庭で育ってきた温室育ちの人間に、慣れない極寒の地での生活。その上家族も拠り所もない暮らしはにはかなり過度な負荷がかかっていたようで、当初はレイズも心配のあまり一緒になって不安定になっていた程だった。季節が移り変わるに連れ手紙の様子は落ち着きをみせ、それを知らせてくるレイズもまた穏やかになっていったことからも、一年経った今ではしっかりとやっているのだろうと……ただ推測するばかり。
ガラス窓を隔てた向こう側から温暖な光を注ぐ水色の空を見上げ、リヴァイはまるで、一人まだ冬の中にいるようだった。この穏やかな気候もまだ、北の大地には訪れていないだろう。
数日後、調査兵団の幹部達は王都での報告会の為、ウォール・シーナの壁をくぐり最も内側の内地に集まっていた。慰霊碑にはまた新たな名が刻み込まれ、多くの人々が花を手向けに広場を行き交う。それに隣接する会議所前に複数の馬車が停止すると団長のエルヴィンを筆頭にリヴァイとハンジも次々と降り立ち会議所への階段を上っていった。
「なんか今日、騒がしくない?」
「じきに慰霊祭だからじゃないか?」
いつになく人通りの多い会議所内を進みながら辺りを見渡すハンジにエルヴィンが返す。日頃、報告会でここを訪れてもさして賑わいなど見ない会議所なのに、今日は憲兵やスーツを着た者など多くの人が集まり騒がしかった。
会議室に行き着きエルヴィンが入室すると、その背後でリヴァイは廊下の先から近づいてくる数人の憲兵達の中に覚えのある顔を見た。その男は憲兵団師団長ナイル・ドークの甥であるマテウス・フォン・ランケ。マテウスは周囲と和やかに会話しながら歩いていたが、ふと気付き正面に向くとリヴァイと目を合わせ、明るく笑んでいた顔を一転し口を噤んだ。
「これは、リヴァイ兵士長、お久しぶりです。今日は……何用で?」
「報告会だ。他にここに来る用があるか?」
「あ……いえ、そうですか、そうですよね」
何ひとつ緊張など無かった背筋をピンと張りつめたが、マテウスはリヴァイの返答を聞くと安堵するような笑みを垂れ流した。一年以上前に一・二度顔を合わせただけのマテウスとは何の親しみもないが、そそくさと去っていく態度にリヴァイは違和感を覚えた。
報告会はいつも定刻通りに始まり、壁外調査での実績と巨人の実態調査の報告をする。その後は資金の申請に移るが、そうなると決まって多大な被害や消費する膨大な経費を突かれ削りに削られ、押し問答は数時間続くこともある。
だがその日は開始時間になっても担当の王政の人間が姿を現さず、苛立つリヴァイはガンと机を蹴飛ばした。予定の時刻を数十分過ぎた頃、ようやくパタパタと一人の男が姿を見せた。
「遅くなり済まない、今日は何かと立て込んでいてな。済まないが今日は手短に頼む」
「何かあるんですか? 随分と騒がしいようですが」
「王の生誕記念祭に慰霊祭が重なっているだけでも慌ただしいのにな。医研が北の治験センターと統合し新たな組織作りをすると言いだしたんだ」
資料で汗をかく顔を仰ぎながらヤレヤレと椅子に腰を下ろす男の言葉にリヴァイはピクリと反応し、エルヴィンやハンジもまた耳を寄せた。
「医研と北のセンターが統合とは……大きな動きですね」
「ああ。これまで互いにけん制し合ってたはずの二党だ。それに加え医療団なる組織まで現れては三つ巴にもなるかと思ったが……。そうだ、医療団はどうだ。お前達調査兵団の支援もしているんだろう?」
「ウォルト医師を中心に良く機能しています。彼らの貢献はもはやなくてはなりません。彼らが我々に協力してくれることによって、我々と民とのかすがいともなってくれています」
「ウォルトか……。確か一年ほど前に二つ星を獲得したな。そしたら今度は弟子の星獲得とは、また株を上げたな」
「弟子?」
「何と言ったか……若い女の医師だ。ウォルトの弟子だが今は北のセンターにいるらしく、それがどういう訳か医研とも繋がりがあるようで、今回の統合の中核を担ったとして双方から推薦を受け一つ星が授与されることになった」
「うっそ、それって、?」
「ああ、そんな名だったな。私は反対なんだがね。聞けばまだ十代だと言うじゃないか。これから授与式が行われるが、威厳ある医師の星が十代の、それも女の医師に与えるなど……。統合にあたってまた莫大な資金を援助せねばならんし……」
「凄いじゃない。なんだよ、教えてよリヴァイ」
ブツクサと文句を零し首を振る男を尻目に、ハンジは隣のリヴァイの肩をゴンと小突く。
教えるも何も、リヴァイはここに同席する誰とも情報は同じ、まったくの初耳。
「ていうことは、ここにいるの?」
「……」
これから授与式ということは、本人がここにいることは確実だろう。
この時リヴァイは、先日のレイズが何か言いたげな表情をしたことを思い出した。
そして先程のマテウスのおかしな慌てようも。
「授与式、見て行ったらどうだリヴァイ?」
報告を終え会議所を出ていくリヴァイは、入ってきた時と同じく淀みない歩調で進んでいく。
振り向くエルヴィンにリヴァイは一度目を向けるが、すぐに戻し歩き続けた。
「あ、ほら! あれじゃない?」
入口の階段を下りようとしたリヴァイの背中をぐと掴み、ハンジが入口とは反対方向の通路を指差した。その指の先に集まるスーツの一団。どこかむさ苦しくも感じる男達の中にスラリと背の高いレイズの姿があり、その傍らに小さな背中があった。周囲を囲む男達の合間から見える白いパンツスーツに帽子をかぶった後ろ姿は周囲の者達と会話していながら、ふと何かに気付くようにこちらに振り向いた。
「!」
振り向き見えた顔は帽子とマスクに邪魔されたが、に間違いなかった。
けれどもその視線がリヴァイを捉えるより先に、奥から名を呼んだ声に引きとめられ、駆け寄ってきたマテウスから手に余る程の大きな花束を受け取り、はそのまま奥へと連れられていった。
あーらら、とリヴァイの後ろでハンジが含み笑う。
建物の中へ入っていったに続いて医師の一団も歩きだす。
その最後尾で同じように歩きだしたレイズがリヴァイに気付き、慌てて駆け寄ってきた。
「リヴァイさん! いらっしゃったんですか。あの、今医研と北のセンターが統合する方向で動いてて、その関係でも最近は医研に来る機会も多くてよく戻って来てるんですが、に、リヴァイさんには言うなって口止めされてて……。あ、マテウスさんは、憲兵団の方から統合に協力してくださってるとかで、お世話になってて、でも決して頻繁に会っているわけではなくて!」
「聞いてない」
こんな近距離にいながら会えもせずに連れ去られていったに代わりレイズは慌てて状況を弁解するも、リヴァイはたった一言を置いて階段を下りていった。
「ちょっとリヴァイ、見ていかないの?」
「あいつが会いたくないと言っている」
「きっと別れが惜しいんだよ。会わなくても見るだけ見てあげたら?」
「僕からもお願いします。是非見てやってください。、本当によく頑張ってます」
二人の声を聞きながら、リヴァイは階下に降り立つと足を揃え止めた。
会議所の奥に位置する聖堂での一つ星授与式が行われた。
扉から一直線に伸びた赤絨毯の両脇には観覧席が設けられ、ウォルトを始めとする多くの医師達とマテウスら少数の憲兵、一般の民達が詰め寄った。それらの隙間から覗くようにリヴァイとハンジも壁に背をつき開始を待った。
しばらくして王政の人間が登場し授与式の開会を宣言する。すると扉が開き、そこから白衣に身を包む清廉な姿が登場した。会場は拍手で包まれるが、その顔は頭を覆う白い被り布と大きなマスクに隠れ、祝福の拍手の中に訝しげなざわめきが混ざった。本人は慣れない表舞台で緊張しているのか、歩調はぎこちなく、しきりに俯きマスクを押さえていた。
「何やってんだあいつ」
「仕方ないでしょう。が顔を出したがらないのは元からじゃない」
「そうじゃない」
「え?」
壁から背を離し、リヴァイはハンジを置いて後方の小さな扉から出ていった。
廊下で辺りを見渡すと、個室が並んだ方が騒がしく感じその方へ歩いていく。
扉が開いた個室を覗くと、中にはレイズがまた慌てた様子でうろうろとしていた。
「何をしてる」
「リヴァイさん! は……一緒じゃないですよね」
「あ?」
話を聞くと、は授与式の前にいなくなってしまったらしい。
寸前までマテウスと一緒にいたはずが、別れた直後に誰の目にも触れずいなくなってしまった。
、授与式そうとう嫌がってたんですけど、まさか逃げ出すなんて……。
嘆くレイズは頭を抱え、探しに個室を出ていった。
個室にはの荷物や資料が丸ごと残っているからには、そう遠くへはいっていないだろう。リヴァイはカバンと共に置かれたの白い帽子を手に取ると、暖かな光を差しこませている大きな窓を見上げた。
「……」
晴れ渡った水色の空を白い雲が悠々と流れている。リヴァイは帽子を手にしたまま、雲の行方を追うように部屋を出た。前と後ろを見やり、光が滲んでいる方へと歩き出す。突き当たりの扉を開けると小さな庭園に出た。四方を建物に囲まれた庭園は緑の芝生が敷き詰められ、木の花の甘い香りが鼻孔を突く。びゅ、と強い風が花を揺らすと花弁や芝が空中に舞い上がり、それを目で追うと建物の奥に背の高い塔を見つけた。らせん状に階段が巻きついている塔を上がっていくと、小さなバルコニーが見えてくる。その壁の向こう側に……しゃがみこんでいる小さな肩が見えた。
カツン、とバルコニーの石床で足を止める。しゃがみこんだ膝の上に腕を乗せ、その上に小さな黒髪の頭を倒している姿は……今度こそだった。隣に立っても顔を上げない。はこの暖かな陽だまりの中でうとうととするうちに寝入ってしまっていた。うつ伏せている黄白色の頬に光が射し、黒い睫毛が影を落としている。
頬を寄せている膝の上には、真っ白いストールがあった。
それは知っている。一年前、旅立つに風邪ひくなよと託した。
一年経った今もそれは真っ白なまま、この小さな身体を包み温めている。
顔つきが引き締まり、多少大人びたか。髪も束ねられるほどに伸びて。
それまでの時間をずっと傍で。何よりも傍で。
想うように。慈しむように。こうして身を寄せて。
「……」
―私、立派な医者になります。一人でも多くの人を救える医者に。
いつか……リヴァイさんのお役にも立てるような、医者に。
―また、好きになってください……
何を案じることがあろう。何を疑うことがあろう。
人々を救おうと走り回っていた頃と何ひとつ変わりない。
リヴァイは手にしていた帽子を口元に寄せ、帽子のツバに口唇を付ける。
そうしてそっと、帽子を小さな頭にこそりと置いた。
「風邪ひくなよ」
まるで風に乗る花の香りのように呟いて。
リヴァイは静かに白い階段を下りていった。