治験センターで起こった暴動は北部憲兵団により鎮静され、暴動を起こした近隣の村人とセンター責任者代行であるの審議が行われることとなった。
まずは事の発端となった症例の少ない病にかかった患者への治療について、は症状と初期診断から話し始めたが、患者について一言話せば遺族が口を挟み、説明を続ければ村人から罵声が飛び交うの繰り返しで審議は一向に進まなかった。
「まるでイタチゴッコだな」
センター側傍聴席で審議の様子を見守るハンジとモブリットは、それはまるで毎月壁外調査の報告をする時の自分達のように見え、憲兵団と村人達と相対し一人で発言台に立つに痛み入った。
「一人では辛いですよ。何故センター側は担当医すら寄こさないんでしょう」
「うん」
の発言は何度も裁断され、興奮する民は身を乗り出しまた暴動が起こりかける。憲兵団が民を抑え、落ち着きを見図らないが説明を続け、使用薬物から過去の使用例まで事細かに話すも、民からはこちらが分からない事を並べたて誤魔化そうとしていると裁断され、その度は説明を中断し民の落ち着きを待った。
何度も繰り返される中断と再開を眺めながら、はまるで反論しないなとハンジは思った。難しい薬の名前や効能についてもかなり噛み砕いて話している。それは素人にも分かるようにというより、説明を長引かせているようにハンジには見てとれた。この審議の、の目的は一体どこに。センターでの様子を見る限りそれはやはりセルゲイの研究の為だろう。となるとはこの審議を解決ではなく、長引かせようとしているのか。いつまで? 研究が終わるまで? 途方も無い話だと思った。
日没の早い北の大地。光が遠のくと温度は急速に下がり出し、窓を叩く風と岩壁の隙間から忍び込む冷気が体を先から害して、ガイは窓辺のソファに座るリヴァイに毛布を差し出した。
「兵長、審議所に行っていただいても結構ですよ、自分が見張っていますから」
「連れてかれたわけじゃなく自分から行ったんだ、あいつなりの考えがあるんだろう。行き先のない論争を聞いてても仕方ねぇしな」
「え?」
お茶を入れ直しながら緊張の解けないガイは、カップを置く手をガチャンと揺らしてしまう。自分はもう調査兵団の兵士ではないが、雲の上の存在であったリヴァイと相対するのはいまだ不慣れだ。
「面倒臭ぇのは感情だ。正誤性の問題じゃなく倫理の話でもなく、感情の論争になるからどちらにも片が付かない。味方を何人集めても同じ、敵対する数が増えれば余計に闘争心を煽るだけだ。向こうに聞く耳がない限りこの審議は終わらん」
「でもそれじゃはずっと審議にかけられることに……」
「それも承知で行ったんだろう」
「はぁ……」
普段、仕事中はと行動を共にすることの多いガイは、が普段からどれだけリヴァイを想い慕っているかを傍で見ている。時間に追われ仕事に追われ、多忙な合間にもふとリヴァイのことを思いやっている。その姿は尊く清らかで、羨ましくも感じられた。……けれどもリヴァイから出てくる言葉は余りに淡泊。のそれと釣り合うとは到底思えなかった。
「俺はおかしいか?」
「い、いいえ、を信じてるんですよね」
「さぁな」
「さぁなって……」
「俺はお前達と違ってあいつを始終傍で見ているわけじゃない。あいつが毎日どんな事をしているかも、ここで何をしてたかも知らん。あいつがどういう意図で面倒を被ろうとしてるのかも、どうするつもりなのかもな」
「じゃあ、兵長は何故ここに残ったんですか?」
「あいつの意思がここにあるからだ。地下に誰も行かせるな。俺が知れたあいつの意思はそれだけだ。あいつが何を考えてるかなど、俺がどれだけ予測したところでどれも正解じゃない。あいつが口にしたことを理解するしかない。あいつは思ってることをベラベラ喋るヤツじゃねぇからな、何でもすぐ腹ん中溜めこみやがる。そこは昔からちっとも変わってねぇ、厄介なヤツだ。ハンジの方がまだ容易い。まぁヤツの場合言ってることが理解できんが」
「はは……」
普段リヴァイと二人きりで話すことなどなく、兵団での寡黙で厳しいイメージから勝手に近寄りがたい人物像を作り上げていたが、腕を背もたれに堂々とした佇まいで座っている印象とはどこかちぐはぐに、話していることはただ愚痴のようにも思え、ガイはなんだかおかしくなった。
「でも、が何を考えているのかよく分からないというのは、自分も分かる気がします。自分達がここに来た2年前は、ここに自分達の居場所はありませんでした。ここにきて与えられた仕事は書類整理、掃除、食事の買い出しと準備、雪かきや薪割り、とにかく毎日雑用ばかりで。自分はともかく、は小さい頃からウォルト先生に医学を教えてもらったちゃんとした医者なのに、ここの先生方は誰もを同じ医師だとは見てませんでした」
リヴァイにお茶を手渡し、テーブルの椅子につくガイはカップで手を温めながら話す。それを聞きながら、リヴァイはが自分に宛てた手紙を思い出した。北へ旅立って間もない頃の手紙は書き切ることも出来ず内容も覚束ないもので、次第に生活が困難になっていったのか日付が長く空くようになっていった、届けられることのない手紙達。
「特には、その……女だから。ここは閉鎖的で、何年も籠って研究してる人間ばかりで、そんな人達には、ただ女としてしか映らなくて、その……襲われることも、一度や二度じゃなかったし」
「……」
「いえ、自分が守りました! 体張ってでも、誰にも触らせてません、断じて!」
「ああ……苦労だったな」
「けど、そういうことは分からなくもないんです……。兵団内だって、似たようなものでしょう。ただ、昔は自分はぼんやりと、そういうこともあるんだくらいにしか思ってませんでした。けど、一度が俺にも酷く拒絶したことがあって、俺を見る目がぜんぜん違ったんです。その時に初めて……なんていうか、女が男に抱く恐怖みたいなものって、男が思うよりずっと根深いというか、おぞましいというか……。それを刻み込まれたら女は一生忘れないんだろうな、と……」
「……」
それを刻み込まれたら、女は一生。
初めてをこの手で抱いた時、その身は確かに震え強張っていたが、それはただ緊張と不慣れから来るものだと思いこんでいた。もしかしたらその中には、泥のような感情が混じっていたのかもしれない。
同時に古い記憶も蘇った。その行為に何の意味など無く、ただの衝動でしかなかったから記憶にも残っていなかった。己にも相手にも無関心であったから無碍に扱い、事柄としても受け止めはしなかった。
どれだけ時が流れようと、たとえ忘れようと、この手が犯したこと。
その手で、あいつに触れた。
「一時は食事も睡眠もとれなくなって、一度王都へ戻ってはと話したんですが、は帰りませんでした。レイズも心配しきりで帰ってこいってずっと言ってたんですが。仕事もさせてもらえない勉強も出来ないのに、何がをここに留まらせていたんだろう」
「あいつがここに馴染んだのは何故だ」
「それが、それもよく分からないんです。毎日掃除や片づけばかり、他の先生とだって話す機会なんてまるでなかったのに、なのにいつの間にか、はこのセルゲイ先生の部屋を片付けてたんです」
ガイは本棚に囲まれた石畳の部屋を見渡す。ここも元は物やゴミが雑然と押し込められ地下に続く扉がどこにあるのかも分からないような荒れた部屋だった。今のすっきりと片づいた様相からは想像できないほど。
「は、不思議です。いつも悩んだり落ち込んだり、普通の女の子なのに、急に何かを成し遂げたりする。普通じゃ出来ないようなことを」
不思議……確かにそうだ。
弱い弱いと思っていたら、気がつけばしっかりと一人で立っている。
子どもだと思っていたら、不意に息をのむほど大人びた顔をする。
調査兵団に出入りするようになった時も、人の死に触れる時も、伝染病の時も、北へ旅立った時も。閉ざしたマスクの中から溢れんばかりの光が日に日に強大になって、目が眩むほど。つい離してしまえば、その手は届かない遥か空に舞い上がっていってしまうのではというほど。
だけども掴み止めようとするこの手には、赤い血がべとりとついている。
流そうが拭おうが、一生取れることのない赫。
この手は、光に触れるべきものでは。
「あーつかれた。娘、茶」
「え……」
不意に奥の扉が開き、同時に聞こえた言葉。ガイとリヴァイは出てきた白髪の男を見つめた。コツコツと杖をつき、髭面をボリボリと掻きながら大きな口で欠伸を放つその初老の男は涙目で二人を見返し、誰だお前等と首を傾げた。
「セ、セルゲイ先生?」
「お前は覚えがあるな。いっつも娘のケツにひっついとる若造」
「ガイです。研究、終えられたんですか?」
「そう易々と研究が終わるか馬鹿者。あのワガママ娘め、お陰で息つく暇もない」
「え?」
「娘はどこだ?」
「ですか? 今審議所に、ロブ先生と一緒に審議にかけられています。セルゲイ先生が治療した村人の件で」
「また面倒事か。これだから外には出たくない。寒いし」
おおーさむさむ。シャツに白衣を着ただけのセルゲイは細腕をさすり椅子に座ると茶を催促した。暖炉に駆け寄るガイは熱いお茶を入れセルゲイにカップを差し出すも、まずいと吐き捨てられた。
「先生、の元へ行っていただけませんか。一人では困難かと」
「言っただろう、面倒事も寒い所も嫌いだ。何より人が嫌いだ」
「しかし……、先生が来れば何か変わるかも。一人では決着がつかず、長引くだけです」
「それは何よりだな」
「え?」
「決着がつかない。誰も娘を言い負かすことが出来んということだ。しまいにゃあっちの方が嫌気がさし審議も終わるだろう。俺を引っ張り出したけりゃあ娘に呼びに来させるんだな。娘がどうしてもと泣きつくなら聞いてやらんこともない。乳のひとつも揉ませるならな」
ひゃひゃと笑い声を漏らし揉む手つきをするセルゲイに、ヒッ……! とガイは背筋を凍らせ窓辺のリヴァイを見やった。するとセルゲイもそちらへ視線を向け、体勢を変えずに座っているリヴァイと目を合わせた。
「主はなんだ。大層なナリだな」
セルゲイの皺の寄ったハ虫類のような目が窓辺のリヴァイに定まる。
装備を傍らに、兵服にマントを羽織ったリヴァイはこのセンター内には存在するはずのないもの。
「この方は、調査兵団のリヴァイ兵士長です。誰かが巨人がいると叫んだので来て下さったんです」
「ほお……、主がリヴァイさんか。ピョンピョンと蚤のようにお空を飛んどる調査兵にしては、沼の底のような目をしておるな」
リヴァイさん。セルゲイの発したそれは名前というより記号のようだった。
誰かの言葉をそのままなぞったかのような。
杖を立て席を立つセルゲイはリヴァイの前まで寄っていき、見返すリヴァイの前に立つ。その動向を見守りながらガイはハラハラと激しい不安を抱いた。
「しっかし随分小さいな。娘め、人類最強などと吹きよって」
リヴァイの頭の先を掌でポンポンと叩くセルゲイに、ガイはヒッ! と駆けよった。失礼なことを言うのではと案じたガイの遥か上を飛び越え、まさか、リヴァイの頭を叩くなど。
「アンタがセルゲイか」
何とかリヴァイを抑えようとセルゲイの前に割って入ったガイだったが、思いのほかリヴァイの声色は落ちついていた。にやりと笑みを漏らすセルゲイはリヴァイの隣に腰掛けると懐からパイプを取りだし、出窓に置かれた箱から乾燥した葉を入れると火をつけ煙を吹き出した。
「先生、本当にをこのまま放っておくんですか?」
「放っておけ。自分一人で片づけられると思っておる、傲慢な娘だ」
「は、先生が研究に集中できるようにと一人で行ったんです。そんな言い方……」
「ならお前が行け。その上等な体で投石から守ってやることくらい出来るだろう。それとも俺の代わりに地下に籠るか?」
「いえ……先生の代わりなど」
「俺は研究室、娘は審議所、調査兵は壁外。それが似合いだ」
「は……医者です。先生と同じ」
「馬鹿を言え、あれはただの世間知らずなワガママ娘だ。勝手に人の部屋を掃除して勝手に医研なんぞと結託しよって、研究しろとせっついたかと思えばしまいにゃさっさと国に帰っていきよった。あやつは医者よりも女を取ったのだ。また顔を出したかと思えばまぁー女臭くてかなわん。前はもっと柔らかい乳をしとったのに、誰に揉みしだかれたのかいっちょ前に弾りよって」
文句と共に歯の隙間から煙を漏らすセルゲイにガイは冷や汗を垂らす。
もうその隣のリヴァイを見ることも出来ない。
「調査兵なんぞにうつつ抜かしよって、境無き医療などと夢物語に手をつける。一人の死も受け止め切れん癖に、せっせと死にゆく馬鹿者共に加担して、生きて帰れと無茶を言う。理不尽な娘よ。おとなしく王都で呑気に茶でもすすっておればいいものを」
「先生……?」
「巨人なんぞ、時間と労力の無駄だ。あれは生物ではない。そんなことに時間を割くくらいいなら野を耕し女子供にメシを食わせクソして寝てろ」
空気を白く濁す煙が窓辺にもわりと広がる。
多種の葉を混ぜた癖の強い匂いとほのかな甘さが鼻孔をつく。
「違いない」
香りを同期させ、リヴァイはふと息を吹き漏らした。
今、笑った……? 一瞬のこと、そしてあまりに微弱でガイの目には捉えられなかったが、セルゲイの隣のリヴァイは窓から射す弱い太陽光も手伝って穏やかに見えた。
コン、とパイプの中の葉を煙と共に捨て、セルゲイはソファから立ち上がると扉口の壁かけに近付き上着を手に取った。
「先生、どちらへ」
「散歩。ずっと地下におると足が腐るもんでな」
「審議所へ行くんですか?」
「同じことを言わせるな、寒い所は嫌いだ」
「どこでも寒いですよ、ここは……」
バタンと扉が閉まり、ガイはまるで夢でも見ていたような不確かさに包まれ立ち尽くす。そしてパイプと共にソファの肘かけに置かれたままの杖を見た。
「どうしますか兵長、自分達は審議所へ……」
「ここを守る必要もなくなったな。ハンジが戻ったら起こせ」
「え?」
膝にかけていた毛布を肩まで引き上げ、リヴァイは目を閉じ動かなくなった。
セルゲイといい、リヴァイといい。
間で立ち尽くすガイは理解に苦しみ何をすべきかも分からなくなった。
窓の外に見える空は白い雪雲に覆われ微弱な光を漏らしていた。
じき夜がくる。白けた世界はさらに冷え込んで、シンと静まり返るだろう。
あらゆる生物、あらゆる物音、あらゆる思惑。
すべてを連れて、光は壁の向こうへ引いていこうとしていた。