日暮れまで続いた審議はついぞ決着のつかぬまま翌日へと持ちこされた。
 は身柄を審議所内に預けることとなり、審議を傍聴していたハンジとモブリットはセンターへ戻った。

は何とか凌ぎましたが、状況はよくありませんね」
「押し切られなかっただけ彼女はよく耐えたさ。あちら側の様子だと、おそらくロブ医師は憲兵とも村人達とも繋がっているように思う。あちらの目的は当然セルゲイから権威を奪うことだろうから、審議を長引かせるのはあちらにとっては得策じゃない。明日はもっと糾弾してくるだろう」

 夜になり温度はどんどん下がり、次第に光も失せていく。深く積もった雪に音が吸収され耳が痛むほど静か。前を歩くモブリットの雪を踏む音と丸いランプの明かりが自分達を取り残すように包み、ハンジは白い息を吐きながら天を仰いだ。いつだって夜は無数の星が散らばっているが、ここの空ときたらまるでミルクを零したように星屑がひしめいて、違う世界のようだった。

「あれ……分隊長、あれを」
「おや」

 センターに近付くとモブリットは入口に人影を見つけ、その影もまた近づいてきた明かりに気付きこちらを振り向いた。傍へ行くと人影は頭からかぶっていたフードを外しその顔を見せ、モブリットとハンジに駆け寄った。

「レイズ、君も来たのかい」
「よかった、誰の応答もなく困ってたんです。お二方もいらしてたんですね。は無事なんでしょうか、あの子はどこに?」
「ああごめんね、君の所にも通達すべきだった。心配いらない、とりあえず怪我はないよ。ただ、今は会えない。彼女、審議所に身柄を押さえられているんだ」
「審議所? 何故が?」

 リヴァイに北の地での暴動を聞き、任せろと言われたものの放っておけずにレイズもあの後すぐに北への馬車へ乗った。自分達の馬で直通の道を行けるリヴァイ達と違い、日没になってようやく到着したところだった。
 レイズはハンジに暴動が起きてからの事、現在の状況を聞きながらセンター内へと入っていく。ランプの明かりで薄く緑色に光るヒカリゴケを辿り奥のセルゲイの部屋まで行くと中で待っていたガイに迎え入れられた。

「済まないレイズ、俺がついていながら」
「いや、無事ならそれでいい。またが一人で無茶をしたようだし」
「ところでガイ、セルゲイ医師は地下に籠ったままかい? あとリヴァイも」
「いえ、あの後セルゲイ先生はすぐに出てきたんですが、散歩に行くと出ていってまだ戻ってきません」
「散歩? これはまた奇怪な人だな。それらしい人は見かけなかったから審議所へ向かったわけでもないようだし」
「本当、何を考えているのかよく分からない人でした。まるで子どもみたいな事を言って……、言っていることは的確なんですが。リヴァイ兵長もセルゲイ先生が出ていった後、もうここを守る必要もなくなったから寝ると言って、つい先ほど起きてどこかへ行ってしまいました」
「まったく、どいつもこいつも変人ばかりだ」

 モブリットの冷やかな目線にも気付かずハンジはボリボリと髪を掻いた。
 ガイが熱いお茶を入れ、冷えた体を温めながらテーブルを囲む。
 審議所での状況やの様子を話していると、ガチャリと扉が開きリヴァイが戻ってきた。

「リヴァイ、どこへ行ってたの?」
「内部を見て回ってた。まるで建物全体が迷宮だな、抜け道や隠し扉がそこらじゅうにある。この造りじゃ例え暴徒に入りこまれても占拠されることはなさそうだ。内部を知る者でなければな」
「迂闊に歩くと危ないよ。薬品が気化してたりするってガイが言ってたじゃないか」
「危ない所はなんとなく分かる」
「野性的だね」
「リヴァイさん」
「来たのか」
「すみません、どうしても心配で」
「何を謝る、当然のことだ」

 上着を脱ぎながら入ってくるリヴァイにレイズは寄っていく。窓辺のソファへ上着を置き腰掛けるリヴァイは普段通り落ちついた様子で、レイズはが無事だと分かっても落ち着かない心の中との摩擦を感じた。

「リヴァイさんは、の傍へついていてくださらなかったんですか」
「ああ。審議所だ、何が起こるということもないだろう」
「そうですけど……、は随分糾弾されたと、かなり参った様子だったと」
「あの状況じゃそうだろうな」

 リヴァイさん、……
 強く訴えるレイズを見上げ、リヴァイは背もたれに上げていた腕を下ろし向き合った。

「あいつはセルゲイとかいうジジイを妙を庇っていた。審議所でもその我を貫き通したんだろう。その間にあいつが危惧することは、憲兵共にジジイを引きずり出されることだ」
「だからリヴァイさんはここに残った……。分かってます、ガイに聞きましたから」

 一度は強く訴えた意思が途端に弱くなる。
 リヴァイは思い直した。求められているのは正当な理由ではない。

「俺は……あいつがそうまでするあのジジイがどれほどのものなのかを知らない。権威だかここの長だか知らねぇが、ただの老いぼれなら地下から引きずり出してでも審議所へ連れて行くつもりでもいた。だがまぁ……その気は失せた」
「何故、ですか?」
「……あのジジイが、あいつをワガママだと言ったからだ」

 ワガママ? リヴァイの言葉が解けず、レイズはリヴァイを見下ろし続けた。
 リヴァイと共にそのセルゲイの言葉を聞いたガイでさえ意味は分からなかった。

「俺が知る限り、あいつのことをワガママだというのはお前だけだ。あいつがここにいた、たった一・二年の間で、あいつの我を引きだした人間……そう思った。だから、まぁ……、お前と同じくらいに尊重すべき人間だと判断した」
「……」
「だからといって、あいつを放っておいていい理由にはなってねぇがな」

 隣の上着を手に取り、立ち上がるリヴァイは羽織りながら部屋を出ていった。

「リヴァイ兵長、審議所へ行ったんでしょうか。憲兵団が入れてくれますかね」
「無理にでも押し通るだろ。余計な諍いを増やさないと良いけど」

 扉が開くと外から冷気が差し込むがすぐにそれは閉ざされた。
 素知らぬ顔で熱いお茶を喉に通し、ハンジはレイズに「座ったら」と声をかける。
 レイズはリヴァイのいなくなったソファを見下ろし、自責の念に駆られた。
 リヴァイは任せろと言ったのに。また、あの人を信じられなかった。自分を恥じた。


 夜の冷たい空気を吸い込むと鼻孔から喉までがスンと冷え込んだ。ギュ、ギュ、とブーツの下で潰れる雪が靴底の形を残し、リヴァイは同じ靴跡を辿って歩き、やがて見えてきた明かりへと近づいていった。審議所の中は外とそう変わらない温度でひと気も無く、リヴァイは靴の雪を落とし微かに捉えた人の声の方へと近づいていった。

「ったくついてねぇぜ、こんな日に当直勤務とはよ」
「なんで俺達が部屋の外で女が部屋の中なんだよ。逆だろ逆」
「ああーさみぃ! 酒持ってくりゃ良かったぜ」

 違いねぇと笑い合う声は次第に大きくなり、突き当たりの壁にゆらゆら揺らめく明かりの中に二つの影を見た。扉の前で見張りをしている憲兵団の兵士二人は、角型の金属缶の中の焚き火に向き合い座りこんでいる。

「あー寒くて凍えちまうぜ、あったまりてぇー」
「手っ取り早く熱くなる方法ならあるんだけどな、この中に」
「ありゃまだ子どもみたいだぜ。しかもセンターの医者じゃあなぁ」
「いや、この女は王都の医者らしい。お嬢だぜお嬢」
「なにッ? どうりで匂いが違うと思ったんだよなぁ、そりゃあさぞかし手入れの行き届いた抱き心地の良い……」

 下卑た笑いと妄想を膨らませる二人の兵士は、物音も無くすぐ傍にいた影に気付き振り向いた。ランプの明かりで一帯だけが丸く囲われているこの場所で、静かに睨み下しているその影はまるで亡霊のように見え、二人は背筋を凍らせガターン! と椅子を弾き即座に立ちあがると腰元から慌ててサーベルを抜いた。
 けれどもサーベルの切っ先がリヴァイの目線の高さまで来るより先に、リヴァイは片方の兵士の手を掴んで引き込み剣先を壁に突き刺すと、素手でサーベルの刃を真っ二つに叩き割った。一瞬のことで飲み込めず青ざめる兵士は膝を崩して座りこみ、いまだ見下ろしてくる冷徹な青白い顔にヒッと引き下がった。

「弁償して欲しけりゃ調査兵団へ言ってくれ」
「ひっ……え……?」

 言葉を発したことでそれはきちんと人であると認識し、よくよく見ると上着の中は同じ兵装だったことから兵士は多少落ちついた。けれども壁から剣先を引き抜き、それを差し向けてくるリヴァイの眼光は血も凍りつきそうな恐怖を覚えた。

「くれぐれも、参考人は丁重に扱え」

 丁重にな。念を押すリヴァイに、腰の抜けた兵士はブンブンと頷いた。
 カラン、刃先を手放し、リヴァイはすぐ傍の扉を開け入っていった。


 缶の中で燃える火を傍らに、それでも外の寒さに打ち勝てず冷え込んだ部屋の中では一人、窓辺に椅子を置きぼんやりと外を眺めていた。窓の近くは殊更冷気が伝わり頬を痛く乾燥させたが、暗い部屋の中で落ちついていられずまだ外を見ている方が気が和らいだ。
 疲れた……。長い審議の間、大勢の人から向けられる敵意と罵声は体力以上に気力を奪い取り、乾いた口唇から洩れる息が空気を白くするけど、それ以外、瞬き一つ動くことが億劫だった。冷えた空気が眼球を乾燥させる。静かに積もった雪を眺めていた目をゆっくり閉じると、瞼の中が一番温かい場所のように思えた。

 すると突然、ガターン! と大きく響いた音に驚きは目を開けた。
 何事か。そう部屋の中に振り向くも、この部屋に自分以外誰もいるわけはなく、は扉の方へと目を向けた。するとしばらくして扉が開き、外の薄い明かりが部屋の中へ延びてきてはマスクを握った手で顔を隠した。ゴツ、とブーツが床板を踏み締める音と同時に黒い人影が戸の向こう側から現れる。その顔も見えない黒い影に、はすぐに立ち上がると膝にかけていた毛布を落としながら駆け寄った。

「リヴァイさん」

 戸を閉めると光はまた窓辺の炎だけとなり互いに暗い中でよく表情は見えず、けれども差し出す手は迷うことなく互いの腕に触れ、リヴァイは駆け寄ってきたをしっかりと受け止めた。

「大丈夫か」

 耳に肌に心臓に、響く低いリヴァイの声が耳元で囁かれると、は体を巡る血液の熱さを思い出せた。瞬き一つ動き辛かった体が軽くなり指先から崩れ落ちそうだった肌に生気が戻る。リヴァイの肩に寄り、その存在を五感と温度で認識しようやく安心できたは、リヴァイから頭を離すと「はい」と笑んだ。
 明かりを背によく見えない表情だけど、リヴァイは目の前の笑んでいるがきちんと自分に向いていることを感じ取れた。昼間にセンターの中で会った時には感じられなかったものが、今はしっくりと収まりを感じる。よほど疲弊し余分な思念や概念が抜け落ちたのか。いつも見つめるたび、触れるたび、感じ取れていたそのもの。

「リヴァイさん、こんな恰好で……寒いでしょう」
「暖炉ひとつないとは、罪人でもないのにとんだ扱いだな」

 上着を羽織っているだけのリヴァイの格好を見下ろすを連れ、リヴァイは火の近くへ行くと床の毛布を拾いの背から被せた。

「残っている先生達は変わりありませんか?」
「ないんだろうな、ほとんど誰にも会わない。レイズが来てるぞ」
「あ、そうだ……、心配してたでしょう」
「ああ。それからセルゲイに会った」
「まぁ……失礼ありませんでした? あの方は……人を怒らせることが趣味のような方なので」

 良い趣味だな。リヴァイが言うと、はまたふふと笑んだ。

「けどセルゲイ先生は、本当に凄い方なんです。先生がいることでセンターも、いいえ、医学界が目覚ましい躍進をします。先生は絶対に守らなければいけない方なんです」
「なら何故最初からそう言わねぇんだ」
「先生は……以前は別の研究をなさっていました。けど、私がまだここにいた頃に、先生に今の研究をしていただけるようにお願いをして……、先生は私の無理を聞いて下さったんです。出血を短時間で抑え、痛みを感じる感覚を麻痺させる薬です。戦闘時において……負傷しても数時間は自力で動けるようにするものです」
「……」
「調査兵団で治療している間、多くの方の話を聞いてきました。私は負傷したらすぐにでも戻ってきて頂きたいですが、壁外では、そうもいかないでしょう? 怪我をしても任務を遂行しなければ……。隊列を乱してはいけない、仲間の手を煩わせてはいけないと、戦い続ける方がほとんどです。そうして多くの方が亡くなり、より多くの方が……手負いの仲間を壁外に置いてきた事を心の重責にしておられます。息のない方を置いてくること、それ以上に……まだ息のある方を置いてくることは、その重さはまるで違う。自分が殺した……と錯覚してしまうんです」

 戦う兵士達の為。進撃を止めない調査兵団の為。
 命をも投げ打つ志に、同意は出来ないと言いながら。彼らの為、命の為。

「セルゲイ先生のお力で研究は大きな成果を出していて……完成も夢ではなくなってきました。けど、研究には当然……実証例が必要です。先生は私には伏せていますが、おそらく……件の病の村人に試した新薬というのは、その薬だったのではないかと……」
「……」
「セルゲイ先生は……研究の為にすべてを捧げてきた方です。ただひたすらに、病気を治す薬を作る、そのためだけに生涯を費やしてきた方です。患者に寄り添う、遺族と悲しみを分かち合う……そういった、医師である以前に人である、その心さえも捨て去ってただ、研究の為に地下で生涯を尽くそうとしておられる方です。リヴァイさんやハンジさんや、エルヴィン団長のように、そうであることを定められたような方なんです。私のような……何も成せない一医師は、先生のような方にすがるしか道を開けません」

 ただ静かに、静かに、俯く目頭から一滴が落ちる。
 色もなく鼻筋を辿り、音もなく口先から落ちる、一滴。

 必ず分かる時が来る。自分は、そうではない人間なのだと。
 天命を受けたような、成すべき為に生を受けたような一握りではないと。
 ならどうすればいい。何をすればいい。
 どうすれば、身を捧げんとするその進撃の場所に、一緒に立ち続けることを許される?

「この審議は、私が請け負います。私にはそれが出来ます。それしか出来ないんです。私には、人々の無念を聞き、先生方の信念をお伝えすることくらいしか」
「気の済むようにしろ。あのジジイは出てはこないだろうしな」
「リヴァイさん……ごめんなさい」
「何がだ。調査兵団のどれだけの人間がお前の名を知っていると思ってる。地獄を見たヤツらのどれだけがそのまま堕ちずにお前に引き戻されたと思う。お前のしたことが何か間違っているというなら、調査兵団は存在こそが悪だ。少なくともお前達にも、調査兵団にも、大義がある。目指すものがある」

 カタン、リヴァイはから離れ窓辺の椅子に腰かける。
 炎に照らされる頬は赤く、けれどもその表情は見えず、黙ったまま。
 向き合っていた心がいつの間にか別の方を向いてしまったような。

「リヴァイさん……?」

 リヴァイの乾いた口唇が僅かに動き白を生む。
 けれども白が言葉になる前に口唇は止まり、動かぬまま、冷えた部屋に無音が流れる。

「俺は、私利私欲で人を殺してる」

 燃え盛る炎に水をかけるような小さな小さな呟きを、は聞いていながら、理解していながら、聞き返した。

「え……?」
「人が人を殺すところを、ガキの頃から、それこそメシを食うみたく当然のように見てきた。今じゃ使命だ仲間の為だと剣を振るっちゃいるが……この力は俺が得たものじゃない。おそらく、本来なら保たれるべきものが壊れた結果だろう」

 赤い光と熱の前で手を開く。掌に刻まれたいくつもの死線。
 燃える、弾ける。炎の如く。沈み、焦げつく。炭屑の如く。

「巨人を殺しながら……今も時折感じる。俺の中のどこかで悦び愉しんでる……それでしか埋められない場所がある。自分でも滾りを押さえられなくなる。吐き出したくて堪らない……自我さえ見失いそうになる」

 ぐ……、掌を握る。溢れる力、硬い拳。
 人には克ち過ぎた力。髪先から足先、細部に至るまで完全に支配できる力。

「よほど荒れた頃はあらゆるものを壊した。物も人も。人道などない。大義や正義なんてものも。生きる為、仲間の為……そんなものでもない。ただの欲望、衝動、悪意だ。お前には触れさせたくないことが、俺には山ほどある」
「……」

 はジワリ、胃の底に絡みつく鈍い痛みを思い出した。
 絡みつく女の声、言葉。首筋をつと撫ぜた冷たい指先。
 思い出し、喉奥に息が詰まる。

「過去は消せない。変えられもしない。クソみたいな過去だろうと、どうしたって今の俺に強く結びついちまってる。受け入れるしかない」

 込み上げ、溢れようとするけど、零れはしない涙が瞼の中で渦巻く。
 泣いてはいけない気がした。涙など。口の中で噛み締めた。
 そんなの目前に、立ち上がりリヴァイは相対する。
 見えなかった表情が目の前にくる。普遍的で、穏やかな。いつも見てきた眼。
 なのに何故かそっと背筋をなぞる、乾いた冷気。

 リヴァイは右手をに伸ばし、黒い瞳にその指先を近付けた。
 はその指先を見る。瞳の前で指先は触れずに止まる。

「お前が、もう俺には触れられないと言うなら、俺はそれを否定できない」

 下がり、離れていく指先。
 いつだって優しく強く、我儘に触れていた手なのに。

「お前が決めてくれ」
「……」

 何故だか白くもならない言葉を残し、リヴァイはの前から歩き出す。
 ゴツゴツ離れていく足音。扉が開き、光が増え、やがて消え行き密閉される。
 気がつけばあらゆる音があるのに、すべて雪が吸収してしまったかのような。

 降りだした雪が凍った大地に重なり落ちる。
 少しの熱で溶けてしまうのに、しんしん、しんしん、降り積もった。

 

未知らぬ夜に

Merry X'mas & Happy Birthday 2014