10
熱い熱い、真夏の熱気。
意識はかすみ、体は言うことを聞かずに熱だけを上げ続け、手に力を込めてみてもいまいち感触が分からない。視界は揺れて、目の前にあるものを掴もうと汗ばむ手を伸ばしてみるのだけど、そこにあると思ったものはそこにはなくて、するりと手が落ちていく。
「・・・」
セミの声が響く中で目を覚まし、彷徨う意識が夢か現かの境界線をまたぎながら次第に晴れていく。
また同じ夢を見た。
そう、今が現実であることを認識してから一度目を閉じ、汗で濡れる額を拭って気だるく寝返りを打つ。
頭の中に強烈に残る感触があるせいか、四六時中あいつのことを考えてしまっているせいか、夜通し見る夢は全て統一されてあいつ一色だ。たまには心地よい目覚めをさせてくれてもいいものを。
ふぅと一度息を吐き見上げた天井の色を自分の部屋だと自覚すると、手を伸ばして近くにある扇風機とMDのスイッチを入れた。朝には少しテンポが速すぎる音楽がデッキから流れ、生ぬるい空気を扇風機がかき混ぜる。腕に力を込めて起き上がると薄いふとんがはらりと落ちて、音楽を聴きつけたのか、ドアの向こうからお母さんが「起きたのー?」と声を上げてきて、んーと重い生返事をした。
「、おにいちゃんのお弁当届けて来てちょうだい」
「えー・・・」
「忘れて部活行っちゃったのよ、学校分かるでしょ?もうお昼だから早く行ってあげて。ついでに帰りに買い物してきてね」
「ええー・・・」
「えーじゃないの、あんた遊んでるだけでしょ。もう高校生なんだからアルバイトでもすればいいのに。高校からは自由なんでしょ?今からでも探せば?」
「んー・・・」
朝から息継ぎもない母の台詞に耳が勝手に閉まる。それでも母に急かされて重い体は嫌々ながらも一日を始めようと動き出した。
夏の暑さを実感するや否や唐突に始まった夏休みは、気がつけばもう1ヶ月が過ぎていた。気分的にはもう、半年くらいが経った気がする。高校から解禁になったアルバイトを探すヒマもなく夏休みに入ったおかげで毎日それは自由な一日を繰り返している。中学生だった去年は何も言われなかったのに、高校になった途端母は私に労働を勧めてくる。まぁこの家で私が一番金食い虫なのは分かっていることだけど、16歳の娘に職探しをさせるほど我が家は財政難なのだろうか。
お風呂に入って汗を流し、ごはんを食べて荷物を持たされると勢い良く母に家から見送られた。ドアを開けるなりもあっと熱気が押し寄せセミの声に囲まれて、空を見上げると真っ青な空に大きな雲を見て夏だなぁとありきたりな言葉を吐き出した。
真っ白い日傘を差して歩くけど、曝け出した手足に日焼け止めを塗ってくるのを忘れてしまい太陽光を恐れ出来るだけ影を探し求め歩いた。こんな中で無防備な肌を晒せば日焼けは確実だ。部活もアルバイトもしてないのに日焼けするなんてどんだけ遊びほうけてたんだと言われそうで嫌だ。かといって真っ白だとこいつは夏休み中家に篭って勉強してたんだなとか思われそうで、それはそれで嫌だな。
「あーっついなぁー」
口にすればするほど現実となってくるその現象は紛れのない暑さを連れて夏を体感させる。通り過ぎた公園では少年たちが無邪気に水遊びをしてびしょぬれになり、ずっと続いていく家々には風に揺らぐ洗濯物が気持ちよさそうにはためいている。
公園脇の長い階段を下りていくと目下に見えていた兄の通う高校のチャイムが聞こえてきた。毎日昼まで寝ているせいで時間の感覚が鈍っていて、でも世間じゃお昼ごはんを食べる時間になっているよう。ボールが金属バットに当たりキンと軽快に響く音と小さなボールを追う力強い声が少しずつ確かに聞こえてきて、真っ白いユニフォームが眩しくて目を細めた。
「?何してんだ?」
「おべんと持ってきたー」
「おーナイスナイス」
階段を下りきってグラウンドを囲むフェンスの傍まで行くと、ちょうど休憩になったらしい野球部の中からお兄ちゃんが目ざとく私を見つけて寄ってきてくれた。良かった。この中からお兄ちゃんを探し出し呼び出す労力が省けた。
ぐるりとフェンスを回ってきて私からお弁当を受け取るお兄ちゃんはさすがに真っ黒で、よくやったと私の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜる手は泥まみれで急いで手を跳ね除けた。私が武蔵森に行ってしまったおかげで会うのは大型休みだけになり、お兄ちゃんの中で私は小学校のときから成長が止まっているらしかった。
「野球部強いの?」
「県内じゃまぁまぁ?」
「ふーん。敷地広いね」
「そうか?普通だよ。お前んとこはサッカーの学校だから特別だろ。野球部なんてあんの?」
「あるよ、一応。弱小らしいけど。ここはサッカー部あるの?」
「そりゃあるよ。あっちに第二グラウンドあるからそっちにいる」
「へー」
やっぱり普通の学校はどの部活動も平等らしい。こうして普通の学校を見てるといかにうちの学校がバカみたくサッカー部を特別扱いしてるかよく分かる。
「サッカー部見てっていい?怒られない?」
「ああ、いーんじゃない?」
「じゃあ見てく」
それでも風習とは恐ろしいもので、大してサッカーに興味ないはずの私でも一番見てみたいと思うのはサッカー部だし、あの武蔵森という領域にいるだけでどれだけ自然にサッカー部という存在を特別視してしまっているかを思い知るのだ。
休憩中でがらんとしてる野球部のグラウンドをぐるりと回り、第二グラウンドと看板が出ていた坂道を上って見慣れた高いフェンスの向こうを覗き見た。もしかしたら野球部同様に昼休憩中かと思ったのだけど、ちょうどよく午後の練習が始まる頃で、青く光るユニフォームが白いゴールの周りに集まっているのが見えた。
「青の蛍光って、派手だなー」
広いグラウンドなのにゴール周りに集まっているサッカー部はとても人数が少なかった。いや、あれくらいが普通なのかもしれない。うちが溢れんばかりに部員がいすぎるのかも。それでも3軍まであった中学に比べてだいぶと少なくなったとは思うのだけど、この学校のサッカー部の5倍はいるだろう。名門校ってすごいなと改めて思う。
ゴール周辺でパスしながらゴールの練習を繰り返すサッカー部はとても地味に見えて、和気藹々とした空気が感じ取れた。もう、いろんなものがうちとは違って見える。部員同士の殺伐とした空気も練習中の厳しい声もない。ころころと毀れるボールはうちならすぐにでも罰走をくらいそうなくらい拙いものに見える。
「あ、10番だ」
ボールをもらってシュートを打つユニフォームの背中に白い文字で揺れる数字が見えた。
そういえば、久々だな。こうやってフェンス越しにグラウンドを見つめてサッカー部を見るのは。こうして見ていると入り混じる部員の中からたったひとりを見つけ出すのはなかなかの苦労だけど、あのときの私には背中のナンバーを見なくてもすぐにどれがあいつか、分かったんだよな。
「・・・」
毎日のスケジュールを時間通りにこなすサッカー部は、きっと今頃昼休憩を取っている時間だ。・・・いや、それは中学のときの予定で、今はどうか分からないや。
まだ学校にいるのかな。
あいつは練習に入れてるのかな。
まだ外されてるのかな。
・・・あの時、私とあいつはお互いに発する言葉が見当たらなくて、どれだけの時間を黙って過ごしたか分からなかったけど、あの後すぐに校内放送が流れてあいつが職員室に呼ばれていったのだ。
たぶん、私たちが離れたすぐあとに高城君のケガが先生にでも見つかったのだろう、二人とも職員室に呼び出されてそれからすぐに寮に帰され、球技大会もその後の夏休みまでの短い日数も学校に来ないまま夏休みに突入してしまった。
高城君は自宅に帰されたようだったけど、あいつは大会前で熱が上がるグラウンドの周りをただひたすら走っていたのを見かけて、どうやらふたりが和解していることから部活停止や大会への影響はないとされたようだったけど、練習には混ざれていないあいつはきっと、試合にも出れなかっただろう。
高校最初の大きな大会だったのに。
渋沢君と二人、がんばって掴んだチャンスだったのに。
バカだな、ほんと。
「・・・なに、してるのかなぁ」
夏休みが長くて、一日一日過ぎ去るのが遅かった。
何も話せないまま引き離されて、あいつが何を考えているのか、私の思いがどこへ向かうのか、全部が中途半端に揺らぐばかりでもどかしい毎日だった。もう、あいつのことを考えすぎて、でもわからないことばかりで、考えることも想うことも嫌になってもう嫌だもうやめようと何度も思ってはやっぱり繰り返して、私はバカみたいにひとりでただ思い悩むだけの苦しい夏休みを過ごしていた。
くるしくて、もどかしくて、いらいらして、ないて。
でも結局明くる日にはあいつを思って。
そうやって過ごしてきた毎日が、今になってようやく、夏休みも1ヶ月が経った頃ようやく、あまりに突然に簡単に、出口を見つけた。
わたしはやっぱりあいつが好きなままだ。
最初からただ、あいつが好きなだけだった。
傷ついて苦しんだことも、悲しくて泣き続けたことも、ぜんぶ、私の中であいつが大きすぎたから、その反動も大きかっただけ。あたしはずっとあいつが好きだった。あいつが好きなだけだった。
馬鹿みたいだ。勝手にもがいて苦しんで、好きだということを否定したくて心底嫌って逃げ回って、なのに結局私の手元に残っているのはあいつの感触と熱で、頭にいついているのはあいつの呼ぶ声で、どうせ、けっきょく、好きなんだと認めてしまえばこんなにも私は穏やかになっていた。
そうして生まれたのはただ会いたいということだけ。
これじゃ1年前と同じだ。私は何も変わってない。
熱病のようにあいつを想って、いま何してるんだろう、なに考えてるんだろうってそればかり。
「あー・・・」
会いたいなぁ。
会いたい。
心の中で繰り返すばかりだ。
空は青く突き抜けて、私の思いは昇り募って、降り注ぐ眩しい光とおかされそうな熱気の中、私は繰り返す。
すき。
あんたがすき。
ほんとうに、ただ、あんたがすきだ。
「・・・」
セミとサッカー部の声が響く中、小さくポケットの中の携帯がなった。
私はなんとなく、分かった。
ただ期待していただけかもしれないけど、強く確信した。
「・・・はい」
遠い、同じこの空の向こうから届くその電波の先が
『・・・俺』
絶対に、あんただと。
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