04
薄い水色が突き抜けるような空は、かすんだ白い雲も、吹き付ける風も、全て吸い込んでいくようだった。暑くも寒くもない、5月晴れ、といったところか。
「ベンチスタートなんだ。てっきりまたさっさとレギュラー取っちゃうかと思ったのに」
「ちょっとくらいの実力差じゃ1年にレギュラーなんてくれないさ」
「ちょっと?中1であっという間にセンパイからレギュラー取っちゃった人がー?」
この4月から美化委員になった私は、掲示板にポスターを貼る仕事を先生に頼まれ、同じく美化委員になっていた渋沢君と一緒におしゃべりしながら学校中を回っていた。
といっても渋沢君の他愛のない話は大半がサッカーの話で、そうなると必然的に話題に上がってしまうヤツがいるのだけど、彼は優しい気遣い屋なので、核心からはそれとなく話題を逸らしてくれてる雰囲気を感じた。
「、元気っぽいな」
「ん?元気だよ」
そっか、と笑う渋沢君は、本当に優しい人だ。うっかりホレちゃいそうだ。
私は、元気ですとも。寮にいるときも、友達と遊んでるときも、廊下を歩いてるときも、毎日は何事もなく過ぎ去り私は元気。
ただ教室のドアをくぐると、その瞬間にふと気分が落ちる。笑っていた顔も忘れて頬が下がり、楽しかったことはかき消され目を伏せる。
自然とそうなってしまう。いや、そうしなければいけないと頭が思い込んでいる。痛みを忘れること、毎日を楽しもうとすること、自分の幸せ考えることなどの、そのほうが人生絶対にいいほうへ向かうぞな思考を犠牲にしてでも、あいつを無視しなければ、という、…私の意固地な、自分でもどうしようもない性格が、そうさせる。
「あ、」
ピタリ、と隣の渋沢君が廊下の先を見ながら足を止め、あっちは俺が行くからと、なんだかとっても不自然な笑顔を見せた。なに?と渋沢君の視線の先を無理やり見てやれば、気遣い屋な彼らしく、案の定、私が見ないほうがいい現場がそこにあった。
廊下の奥で女の子とふたり、仲良く話してるあいつを見た。
「あのね渋沢君、ほんともうなんとも思わないから」
「ん、ごめん」
「いえ、謝ることじゃないんですけども。ねぇ、渋沢君もさ、高校上がってからさらにモテてるでしょー」
「俺?俺は全然だよ」
「うそだぁ。外部から来た子がキャアキャア言ってるよ。渋沢君は中等部のときから他校の女の子にもモテてたし、渋沢君目当てで編入してきた子絶対いるって。ね、告白とかされるでしょ」
「全然、…や、そんなないよ」
「あ、あったんだー。だれだれ?誰にされた?」
「やめろって」
ケラケラ笑って、あそこの掲示板はいっか、と忘れた振りして階段を下りていった。
…本当は、今ここに渋沢君がいたことにすごく助けられた。一緒にいたのがユウちゃんだったら、泣いてそうだったし、美遊だったら笑うことに疲れそうだったし。
複雑な気持ちを分かってくれて、でも笑っていることが出来る。
今この場に、一番相応しい人だった。
「おかえりー、おつかれ」
「ただいまー」
仕事を終えて教室に戻っても、あいつはいないと分かっていたから気は沈まなかった。すぐに寄ってきた美遊に明るく笑うことが出来て、美遊もいつものようにキラキラした笑顔で迎えてくれる。
「ね、さっき一緒に歩いてきたの渋沢君でしょ?仲いいの?」
「仲いいっていうか、普通に話す程度?」
「へー。もしかして、渋沢君のこと、好きだったりする?」
「え?なんで?そんなんじゃないよ?」
「えーだって、すごく楽しそうだった。いつものと違ったもん。なんかめっちゃ笑っててかわいかった」
「そんなのないって」
美遊がよく言うそれは、私たちに言わせれば当たり前だと思ってしまうことで、中学の3年間、そりゃ思春期の私たちはいろいろありながら共にしてきたのだから、親しみの深さは今すぐ知り合った子達とは比じゃないという思いがある。
でもだからって、それをすぐにそう恋愛事と結びつけられるのは、なんか嫌だ。私たちが過ごしてきた3年間はそんなことばかりじゃなかった。そりゃみんな誰かに恋してたし、成長するにつれその手の話題は増えていくけど。
でも、私が渋沢君と仲が良いのは、彼がサッカー部で、…あいつと親しかったからだ、し。
「あ、ねぇ、さっき近藤君が探してたよー」
目の前の美遊が突然私の後ろの誰かに目をやって、私も思わず振り返ってしまった。その先に、私のすぐ後ろに、あいつがいて、目が合った瞬間にどきんと心臓が痛いくらいに胸打った。
何ヶ月振りかにまっすぐ視界に入れてしまったその目は、伸びた前髪の下でひっそりと静かにそこにあった。咄嗟に逸らすけど、その一瞬で頭の中の、体の中の、どこまで奥深くへと入り込んでしまったのか、息が詰まった。
「ああ、さっき会った」
「あ、そーなの?じゃあ良かった」
あいつは美遊と言葉を交わしてすぐに通り過ぎていった。その時、軽く当たった左腕と、かすめていったスカートの端でさえ感触を覚えたようで、ぞわり、触れた部分に淀みが広がった。
「ねぇ、今日サッカー部見に行こうよ」
「…、え?」
「練習1回見に行きたくてさ、付き合ってー」
「ああ…」
ドクドクと頭の中に反響する血液の流れる音がうるさくて、美遊の声をうまく聞き取れていなかった。でもその次にすぐ傍で鳴り響いたチャイムは体を揺るがすくらいに大きく聞こえ、うるさい頭の中をさらに混雑させた。
「ごめん、ちょっと気分悪い。保健室、行ってくる」
「え?大丈夫?ついてこっか?」
「ううん、平気」
今日は、もうこれ以上、あいつを感じていられない。
昼休みが終わって教室に戻ってくる人たちの間を逆流して、教室を出て行った。
…もう、心なんていらない。
毎日がずしんと重いのも、お腹の奥底がうずくのも、全部心があるせいだ。
もう全部忘れて、何もなかったことにして、生きていたいのに。
、と声がして、開きにくい目を開けた。枕に伏せた顔を上げるとカーテンの向こうから美遊が顔を覗かせていて、その後ろにはユウちゃんもいて、どうやら授業が終わったようだ。
「はい、カバン持ってきたよー。気分悪いの治った?」
「ん、ありがとう」
「だいじょうぶ?寮帰れそう?」
「うん」
美遊とユウちゃんは保健室に来る途中で会ったらしく、でもこの二人が一緒にいるのはかなり見慣れなかった。どちらも私と友達ということで紹介したことはあったけど、とにかく話を聞いて欲しい美遊と興味のない話は聞かないユウちゃんは絶対に合わないなと思っていたから、ふたり並んでいるのはものすごく違和感だ。
ベッドの中で今まで押さえ込んでた思いが流れ出て、思い出が蘇って、頭が痛くなるくらいに涙が出てしまった。腫れてしまってるかもしれない。少し目を伏せながら美遊が持ってきてくれたカバンを受け取った。
もう放課後で、保健室の窓から見えるグラウンドには部活の生徒たちで溢れてて、廊下もざわざわと騒がしかった。ベッドから立ち上がろうとするとユウちゃんがカバンを持ってくれて、美遊がカーテンを引いてくれる。
すると、美遊が窓の外を見て、
「あ、三上君だ」
と明るい声を出した。
当然といえば当然だ。この広いグラウンドの大半を占めているのは、この学園で一番多い部員を持つサッカー部なのだから。
「ねぇ、と三上君って中3のとき同じクラスだったんだっけ」
「…ん?うん」
「全然しゃべってるとこ見たことないけど、やっぱ仲良かったんでしょ」
「なんで?」
「5時間目の最初に先生が、の席空いてたからそこ誰だって言ってね、そしたら三上君が一瞬って言って、その後で三浦ですって言いなおしてた」
「…」
「三上君が女の子名前で呼ぶの珍しくない?やっぱ中学から一緒の子ってなんか仲良いよね、いいなぁー」
私は美遊が見ているグラウンドに背を向けながら、ベッドの淵に座ったまま立ち上がれず、動けずにいた。力の込め方を忘れてしまった、と言ったほうが正しいか。
「ねぇ、まだ気分悪いみたいだからもう少し寝かせとくよ。先帰っていいよ」
その私に気づいたユウちゃんが、美遊に言う。
美遊も心配して一緒にいると言ったけど、ユウちゃんがそれとなく断り、美遊は先に保健室を出て行った。
「あの子いつもあんな感じ?」
「うん、割と」
「アンタ、あんなしょっちゅう三上の名前出されてるわけ?」
「まぁ、美遊には話してないから、知らないわけだし」
「さっきも一緒にここ来る途中さ、あの子通り過ぎるヤツみんなに声かけてたんだよね。ウザイなって思っちゃった」
「はは、ユウちゃん、正直すぎ」
床が、すごく遠いところにあるように見えた。どんなに伸ばしてもつけないくらい、すごくすごく遠いところ。そこにある自分の足が、居場所を探して彷徨ってるようにも見える。
そんな俯いて、顔を上げる力もなかった私の頭を、ユウちゃんはぽんぽんと撫ぜて、お腹にぽすんと寄せてそっと抱き包んでくれた。ぶら下がって落ちそうだった涙がつと流れ、膝の上にぼたりと落ちた。
「……、」
音もなく涙はぽたぽたと降って、狭い保健室の白いカーテンの中、充満する涙声を抑える術をもう私は持ち合わせていなく、泣きじゃくる私をずっと撫ぜてくれる目の前のユウちゃんだけが、今の私の支えだった。
『』
…その場所にいなくて、本当に良かったと思う。
あいつの声で作られるその名前は、もう思い出の中にしかないから、今の私が、冷静に聞き入れられるわけがないんだ。
私の中にこびりつく、声や匂いや空気が、いつまでも私を追い詰めて、もう、どうにかなってしまいそうで、振り払っても消えやしないあいつの触れた感触を、それでもこすって引っかいて剥ぎ取りたくて、でも、
”『”
眩しいフラッシュのようにバチッバチッと蘇る。
頭の中じゃいつだって笑ってその名を呼ぶあいつは、消えてくれない。
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